ぬれぎぬ

 三人が不穏なうわさ話を聞いてから暫く経った頃。

 昼時の繁忙を乗り越えて訪れた一瞬の落ち着いたひと時に、ふと龍之進が思い出したように言った。

「そう言えばこの前、食い逃げの話があっただろう?」

 蛇介は机を拭きながら答える。

「ん、ああ、あの悪質な食い逃げが流行ってるって奴か?」

「そう、それだ」

「ていうか、掃除手伝えよ」

「ああ、すまんすまん。それで、どうやら権太の奴がやられたらしい」

「はあ! 権太って、あの、あいつがか?」

 蛇介は思わず手を留めて龍之進を見返す。

 権太というのは、龍之進が出稼ぎで数か月世話になった漁師の息子で、漁の無い日は母親の小料理屋を手伝うような、気のいい青年だ。藤野屋の開店時には顔見知りのよしみだと家族ぐるみで来店してくれた。龍之進の話にも頻繁に名が上がるため、良く印象に残っている。

 中でも印象的なのが彼の外見だ。彼は蛇介並みの長身に、漁師業で良く鍛えられた筋骨隆々の肉体を持ち、正しく巨漢と言った風貌をしている。

「あんな大男でも取り押さえらん無いような奴なのか……」

「ああ。どころか返り討ちに遭って、頭をしこたま殴られたらしいぞ。流血沙汰になったとか。この前店の前を通ったら、奴の母親が泣いて教えてくれた」

「そうか……っつうか、なんでお前はそんな平然としてんだよ。見舞いとか行かなくていいのか?」

 蛇介の質問に、龍之進は一度瞬きをしてから首を傾げた。

「? 別に死んでいないのは分かっているし、わざわざ見に行く必要が何処にある?」

「何処にって……、え、お前、友達なんだろ?」

「いや、特に?」

「はあ……まあ、そうか。ならいいけど、折角の伝手をふいにすんのもなんだろ。権太んとこの周りはいい客になるし、今度形式だけで良いから見舞いの品でも持っていけ」

「ああ、わかった! お、客だ。いらっしゃいませ! よく来たな!」

「だから敬語!」

 噂というには身近に迫り過ぎた話は、しかしその日も龍之進と蛇介の間で、ただの他人事として完結された。そして、再び訪れた客波にのまれ仕事に精を出すうちに、そんな余暇の雑談は必然二人の頭から弾き出されて行った。


 しかし、そんな呑気な昼下がりを過ごした翌日、たった一夜の後に、突如として三人はその渦中に巻き込まれることと相成った。

 それは、三人が朝市で食材を選っていた時だった。潮風の匂いと朝焼けの中、海のほとりの街道では、揚がったばかりの魚介類が叩き売られている。三人で、と言っても、龍之進と蛇介は、荷物持ちと財布番として付いて来ただけで、食材選びは虎丸に任せきりだ。二人は、鮮度や質を吟味して回る彼を少し離れて待っている。

 二人が、あれこれ動き回る虎丸を遠目に眺めていると、ふと、彼に近づく男の姿が見えた。その体の大きさと頭に撒かれた包帯から、それが権太であることが窺えた。

「おお、なんだもう出歩けるまで回復しているのか」

「へえ、良かったな。やり返されただの流血沙汰だの、嫌に大事っぽかったのは、やっぱり噂に尾ひれがついてただけか?」

「さあな。まあ、あいつは頑丈だろうし、あの大男だったから無事だったというのはあるかも知れないが」

「まあ何にしろ、物騒だし悪質だし、早く解決してほしいもんだな」

「そうだな……ん? おい蛇介」

「なんだ?」

「何か、不穏な雰囲気だぞ」

 龍之進の言葉に、蛇介が虎丸たちの方に視線を戻すと、挨拶でもしているものかと思っていた二人が、なぜか揉み合いに発展しているように見えた。

 正確を期すならば、権太の方が虎丸の胸ぐらに掴みかかっている。そんな、どう見ても剣呑な絵面を決定づけるように、権太が拳を振り上げるのが見えた。

 とっさに龍之進と蛇介は二人に向かって走り出した。

 蛇介は龍之進を大きく引き離し、虎丸と権太の間に飛び入った。

「虎に、何か御用ですか?」

 蛇介は、さり気なく二人に割り込むように立ち位置を取りながら、接客用の微笑みで権太に問いかける。

「……あんたは、龍之進とこの……弟さんだったか?」

 顔見知りの登場に、権太は虎丸の襟を握る手を緩めた。その隙に蛇介は虎丸を己の後ろに下がらせる。

「はい、蛇介と申します。いつも権太さんには兄がお世話になっております」

「なんでそいつを庇うんだ。あんた、そいつを知ってるのか」

 いつもの礼儀正しさは何処へやら、蛇介の挨拶をまるで無視して、権太は虎丸を憎々しげに睨みつけて言う。その言葉尻には、ありありと怒りが滲んでいた。

「そいつはうちの三男坊だ、権太。そう言えばお前は初対面だったか?」

 龍之進がやや遅れて追いつき、怒る権太に語り掛ける

「三男? じゃあ、そいつもお前の弟なのか?」

「そう言う事になるらしい」

「けど、前にお前の店に行った時は居なかっただろ、そんな奴」

「こいつはうちの料理人だ。ああ、そうか、お前が来た日も虎はずっと台所に居たから、顔を合せなかったのだな、そう言えば」

「料理人?」

 権太は片眉の端を釣り上げて、嫌味を込めて言った。

「ならそいつは料理人の癖に、自分の飯が泥棒される痛みが分からねえのか」

「どういう意味だ?」

 そこで、初めて虎丸が口を開く。酷く戸惑ったような声色で、おずおずと彼は言った。

「なんか、こいつがいきなり、俺が食い逃げだって殴りかかってきて……」

 その台詞に、蛇介と龍之進は思いっきり怪訝な声を上げた。

「はあ?」

「おい、それはどういう冗談だ?」

 龍之進の詰問するような物言いが神経を逆なでたのか、権太は声を荒げる。

「冗談じゃねえよ! その覆面、間違いねえ! 家に来た時もそうやって顔を隠してただろ! 疚しいことをしてるから、顔を曝せねえんだろ! 知ってて庇うなら、いくらお前でも許さねえぞ、龍之進!」

 権太に指さされた虎丸は、確かに不審と思われても仕方のない見た目をしている。ほっかむりと笠で髪を隠し、顔にも手足にも包帯を巻いている姿はは確かに、人相を隠す目的があるようにも思える。

 しかし、それは髪色と傷跡を隠すための物で、顔を隠すために慌てて取り繕ったものではなく、常日頃からの格好だ。その証拠に、市の物売り達が口を挟んでくる。

「違うよ権ちゃん、その子はうちによく買い物に来る子だよ。そりゃ、最初はそんな恰好でびっくりしたけど、お金もちゃんと払ってくれるし、お礼もちゃんと言ってくれたりするし、悪い子じゃないと思うよ」

「そうそう、そこに居る大きい子とも小さい子とも、一緒に居るのよく見るよ。兄弟だって言うのも嘘じゃないと思うな」

 周りの台詞に、少し権太の気配がたじろぐ。権太の怒鳴り声に引かれてか、いつの間にか、当たりには人だかりができていた。しかし、彼は依然怒りが治まらない様子で虎丸を睨む。

「じゃあ、なんで顔を隠すんだ。後目痛いことがあるから、そんなことしてるんだ。普段から見かけるからなんて理由になるもんか! いざ悪いことをしても誤魔化せるように、いつも変装しているのかもしれない!」

「邪推以外の何でもないだろう、いい加減にしろ」

 龍之進が、いつもより低い声でそう言った。彼の無造作に垂らした拳が固く握りこまれたのを見て、虎丸はその肩を押しのけて前に出た。

 そして権太の面前に歩み出ると、さっさと笠を落し、ほっかむりを外し、包帯を解いていった。その下から現れた、くすんだ金とも黄ばんだ銀とも言える異様な髪色と、虎の模様のような夥しい刀傷に、周囲の目が一斉に集まった。その不気味さに口を覆う者も、見かねた様に目を逸らす者も多かった。

「まあ、顔を隠してるって理由でこんな面倒ごとが起きたなら悪かった。こんなんだから人様に見せるのも悪いと思ってたんだ」

 虎丸はそう言うと。笠だけを被り直し、誰とも目が合わない様に、その端を深く引き下ろした。

 辺りに何とも言えない沈黙が落ちる。それに乗じる様に、蛇介が慮る様に虎丸の肩を支え、哀れっぽい声で言った。

「……弟は昔、質の悪い辻斬りに遭いまして、こんな酷い傷を負ったんです。以来恐怖で、髪もこの様になってしまって……」

 そして、その先を口ごもり、顔を伏せ、嗚咽のような声を漏らす。一連の行動と台詞は、正しく不幸な弟を持つ兄の嘆きで、嫌が応にも同情を誘う響きがあった。

 ただ、その伏せられた顔を下から見上げられる虎丸にだけは、蛇介が如何にも面倒臭いと言いたげな表情をしているのが良く見えて、詐欺師の手腕に空恐ろしくなった。蛇介を知らなければ、虎丸も龍之進も騙されていたかもしれない。

 事実、周りの雰囲気は権太にとって著しく不利なものになった。『もう、あんまり虐めてやるなよ、可哀そうだろ』と言いたげな視線が彼に集まる。

 しかし、権太はそれでも引き下がらなかった。

「……っ、べ、別に顔が見たかった訳じゃねえよ! 第一、犯人の顔は覆面で分からなかったんだから、顔を見せてもらってもお前が犯人じゃない証拠になんか成らねえし!」

 息まく彼と対照的に、蛇介が冷静に言った。

「権太さんのお店が食い逃げに襲われたのはいつなんですか?」

「……八日前の、夕方だ」

 その質問に、権太は何か言い返したげに少し考えた後、素直に答えた。

「その時間でしたら、弟は店で料理をしていましたよ。忙しかったし、他所に食い逃げに行く暇なんてありません」

「そんなの、いくらでも言えるだろ。身内で庇い合ってるって事もあり得る! そいつが犯人じゃない証拠になんか成らないだろ!」

「だったら、虎が犯人だという証拠がそもそも無いだろう」

「じゃあ、そいつがその時、店に居たのを見た奴は居るのか?」

 権太が辺りを見渡して言う。人だかりに混ざる顔の中には、藤野屋を贔屓にしてくれている者もちらほら伺えた。しかし彼らは顔を見合ったり、首を傾げたりするだけで、我こそは目撃者だと名乗りを上げるものは居ない。

「弟はこの姿ですから人前に出たがりません。店ではいつも台所にいますから、その日でなくとも、虎を見た人は居ないと思います」

 蛇介が弁解するように言う。権太は鬼の首を取ったように声量を上げた。

「ほら見ろ! それなら幾らでも、こっそり家を空けたりすることは出来るだろ」

「権太さん、落ち着いてください。俺らは台所にも立ち入ってるから、その日虎が店に居たのは間違いありません。それでも確かに、他人から見たら虎丸が店に居たのか居なかったのか分からない、というのは認めます。でも、例え虎が店に居なかったとして、権太さんのお母さんのところに強盗に行ったことの証拠にはならないでしょう? あなたが襲われた時に、何処にいたのか分からないことが理由になるなら、町中ほとんどの人に当てはまるじゃありませんか」

「それは、でも、そいつは覆面を……」

「いい加減にしろ、権太。虎を食い逃げ犯だと罵るのに、顔が見えんという以外の根拠を示せないなら、そろそろ口を閉じてくれ。俺の堪忍袋の緒が繋がっているうちにな」

 どすの効いた低い声が、食い下がる権太を一喝する。龍之進が、怯む権太をじっと見つめて前に進み出た。彼は、睨むというほど凶悪な顔はしておらず、むしろいつも通りに快活な表情をしている位だが、その強い眼光は、見られる側にきつい圧迫感を感じさせた。

 周囲の人だかりの中から、権太の知り合いらしい者たちが仲裁に入る。

「権ちゃん、もうやめようぜ、その子たちの言ってることの方が正しいよ」

「でも……」

「ごめんね、あんたたち、藤野屋の人たちだよね。権ちゃんのお母さん、あれ以来怖がって塞ぎ込んじゃってね。それで権ちゃん、犯人を捕まえてやるって気が立ってるの」

 一周り二回り年上の大人に諫められて、流石に権太も矛を収める気になったのか、渋々ではあるも項垂れた。

「そうですね、権太さんのお気持ちもよく分かります」

「しかし、弟に食い逃げの汚名を着せられて、兄というのは黙っている訳にもいかないだろうからな」

 龍之進の不服そうな言葉に、ふと人だかりから手が上がった。

「なら、こうしましょうよ!」

 そう言って進み出てきたのは、小太りの中年の女だった。藤野屋に良く訪れるご近所の一人で、食道楽の食通で親しまれている顔の広い女性だ。

「私たち、その日、藤野屋さんで新しい品の味見をさせて貰ったのよ。ほら、覚えてるでしょ?」

 女性に話を振られた連れらしき何人かが、ああ、そう言えば、と頷いた。

「それをこの子に作ってもらいましょ。味もどんな料理かも、あの日あそこにいた私たちにしか分からないわ。勿論、店長さんと会計さんは口を挟んじゃ駄目よ。この子が一人であれを作れたら、この子があのお店の料理人さんで、あの日もあの店に居たって私たちが保障できるわ!」

 どうかしら、と提案されて、周りの視線が虎丸に集まる。

「まあ、材料もここですぐ揃えられるし、それで疑いが晴れるなら……」

 虎丸はおずおずと頷いた。

「じゃあ、店長さんと会計さんは権太君が見張るってことで。それなら不正を疑う余地はないわよね。みんなで藤野屋さんに行きましょうよ!」

 女性の先導で、一気に人だかりは軽いお祭り騒ぎの様になった。やれ楽しそうだ、面白そうだ、丁度腹が減ってきたと燥ぎ声が御囃子になる。

「えっと、ここに居る全員分か……じゃあ、結構いっぱい買わきゃだな」

「疑いが晴れた暁には、ちゃんとお代を頂きますからね」

 蛇介は、苦虫を噛み潰したような恨みがましい顔で言った。

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