第二章 巷で噂の食い逃げ騒動
かいてん
満を持して開店した藤野屋は、それはもう商売繁盛、満員御礼、飯は絶賛、客入りは絶えず、在庫は残らず完売……なんていう美味い話はそうそうないが、全くの素人の初仕事にしては、まずまずの結果に落ち着いた。
へえ、ここに新しい店ができたの、疲れたしちょっと寄って行こうか、といった客が開店から数人入り、旧藤野屋を知る人が行商の家族に連れられて訪れ、さらに何故か龍之進が日雇い労働で築いた人脈が意外な後押しとなり、充分の客入りとなった。
もちろん一事が万事上首尾に運ぶ訳もなく、尊大な龍之進が色々と不遜な言動をしでかしたり、料理が地味すぎて味気ないという感想もあったり、値段設定や在庫管理が不十分だったりという事は多々あった。
けれど総じて、元気のいい店主と色男の会計は人好きし、声の通った呼び込みは往来に響き渡り、金銭管理と見送りは恙無く、料理の味は数人の胃袋に届いたようだった。
そうして藤野屋はそこそこ順調に商売の大海原に滑り出した。
はじめは暗中模索の体で、意外な落とし穴に嵌りっぱなしだったが、四苦八苦とするうちに慣れてきて、やがて客層も定着し、接客の振る舞いも料理の味も安定するようになっていった。
目まぐるしい日々を暫く過ごすうちに、龍之進は『いらっしゃいませ』『ご注文はいかがなさいますか』『少々お待ちください』だけは流暢な敬語を操れるようになり、虎丸の調理速度と作業効率も、蛇介の会計と提供の技術も、目覚ましい成長を遂げていた。
ぎこちない新藤野屋を微笑ましく見守ってくれていた客たちも、やがて彼らが満足な茶屋の体裁を整え始めたことを喜んでくれた。
そうして、一月余り経ち、新藤野屋が一つの店としてようやく自立したある日。
「またのご来店をお待ちしております」
慌ただしい昼が過ぎ去り、夕食時も過ぎ、橙色の光は紫に掠れて、水平線にかかった太陽が暗く赤く燃える中、蛇介と龍之進は最後の客を見送っていた。そして蛇介は人当たりの良い外面を、龍之進は堅苦しい礼儀の枷をようやく外せると思った時だった。
最後の客が、思い出したかのように二人を振り返っていった。
「そうそう、最近開店したばかりのあなた達は知らないだろうから、教えておくね。最近この町では、悪質な食い逃げが流行ってるから、気を付けて」
「食い逃げ?」
「ええ。怪我をした人とかも、いるらしいから」
「なるほど、結構強引な輩なのだな?」
「これは身に入る忠告をありがとうございます。気を付けますね」
そうして客の背中が見えなくなるまで笑顔を保ってから、蛇介は仏頂面に戻って言った。
「人を怪我させるような食い逃げか……。物騒な話だな。こんな穏やかそうな町なのに、治安は案外悪いのか?」
「まあ、山賊と人斬りと詐欺師が一堂に会した町だと考えれば、さほど意外でもないがな」
「そうだった」
「しかし、この店では心配もあるまい。どんな乱暴者でも、腕力で俺に敵うことは無かろうよ」
「それに、布の付喪神に比べりゃ殴りやすそうだしな」
「なんの話だ?」
何時までも玄関先で雑談をしている二人に、虎丸が近寄って来る。
「ああ、最近食い逃げが流行っていると言われてな。来るとしたら、接客をする俺たちの領分だろうが、虎も気を付けろよ」
「おう、分かった」
蛇介の忠告に、虎丸は神妙に頷いた。
「しかし今のところ、取り立てて可笑しな客も来ていないし、町も平和だし、いまいち実感がわかないな」
「また詳しい客が来たら聞いてみようぜ」
「そうだな。ところで夕飯なんだけど、今日は残ったもので適当に茶漬けでいいか?」
「ああ、いいな。最近暑いから、さっぱりしたものが美味いよ」
そうして涼やかな暮れの風を遮って、藤野屋の戸は閉められた。
やがて日の落ちた空に、真っ白な月が登る。まだ騒がしい街を残して、昼の茶屋を生業とする藤野屋は一足早く眠りについた。
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