ばけもの①

 月日はもはや定かではないが、十何年か前のこと。虎丸の母が要大工の棟梁、要鉄丸に輿入れした。

 虎丸の母親の名は苗子と言って、小柄で朗らかな女性で、取り立てて美人ではなかったが愛嬌があった。日向ぼっこをする猫のような、黙っているだけで笑って見える釣り眼がちの糸目と、人懐っこい振る舞いが印象的で、身寄りのない身でありながら、老若男女を問わず人によく好かれた。

 そして彼女が父の知れぬ子を成した後ですら、そしてその子供が怪しい色の産毛を生やし始めた後ですら、嫁にもらいたいという話は少なくなかった。けれど、その話には必ず、一つの条件が付随した。

 つまり、子供を捨ててくれるなら、という前置き付きだ。

 おぞましい髪色をした天狗の子を、捨ててくれというか、他所に預けてくれというか、殺してくれというかは、相手次第だったが、多少の差異はあれど、彼女への求婚者は口を揃えてそう乞うた。

 だから、彼女がそれら話を受けたことはなかった。しかし、そんな靡き様もない婚約者の列の末尾に、彼女が住処とした山中の村の村長の息子が並んだことが悲劇だった。その縁談を断ったことが、彼女の村での立場を決定的に悪くする。

 仕事を追われた彼女は、仕方なく山を超え、隣村へと働きに出た。その先で、彼女は幸せな出会いに恵まれる。豪放磊落で気の良い要大工の棟梁に見初められ、初めて息子諸共受け入れると申し込まれた求婚に、しかして彼女は頷いた。

 斯様な事情で、当時齢十になるやならぬやの少年だった虎丸は、母と共に、黒豆の遺体を残して山中の村を出、要大工町へとやってきた。

 だから、虎丸が義父たちに顔を合わせた際、真っ先にしたことは、膝をつき、地面に額を擦り付けての土下座だった。

「この度は、かあ……山中苗子の輿入れに同伴させていただきました、虎丸と申します。誠心誠意ご奉公させていただきますので、御用がありましたら、何でもお申し付けください。棟梁様とお嬢様のお役に立てるよう、精一杯頑張りますので、何卒よろしくお願いいたします」

 虎丸は、平身低頭、子供なりに尽くせる限りの礼儀を尽くしてそう言った。

 母親を、いつもの様に母ちゃんとは呼ばなかった。

 その年に至れば子供ながらに虎丸にも、母親が、自分が居たばっかりに縁談も仕事も立場も失ってきたことは理解できていた。だからこそ、このめでたい縁談に際して、こんな異形の母親であるという不名誉を、できる限り彼女から遠ざけることが、虎丸にできる数少ない親孝行だ。生まれてきたという親不孝に、せめて少しでも報いるために。

 要大工の棟梁に見染められたのは、あくまでも山中苗子という女性であって、虎丸の母親では無い。虎丸は山中苗子にくっついた重りだ。それを要大工の棟梁が、度量の広さで丸ごと受け入れてくれたのだ。だから虎丸は丁稚奉公のつもりで要家に来た。

 御恩には奉公と、お上がいくつも変わる前から決まっていたことなのだ。

 そうして、首を垂れた虎丸に対して、果たして真っ先に口を開いたのは、母でも、義父でもなく、義父の隣に立っていた虎丸より幾何か年下の、義父の連れ子で、虎丸の義妹となる少女、要花だった。

 彼女は虎丸に纏わりつく事情を知ってか知らずか、無邪気に言った。

「じゃあ、お願い。あたしのことは花って呼んで! あたしはお兄ちゃんって呼ぶから。あたし、お兄ちゃんって欲しかったんだ! ずっと夢だったのよ、叶うなんて夢みたい! しかも、こんなきれいな金色の髪のお兄ちゃんが居るなんて、世界であたしだけかもね! よろしくね、お兄ちゃん!」

 怒涛の勢いで捲し立てられて、虎丸は膝をついたままぽかんと呆けて、少女を見上げた。

 髪のことで恐れられることこそあれ、綺麗などと言われたのは、実の母以外では初めてで、虎丸は、彼女の言葉を解しかねた。

 呆気に取られて固まっている虎丸に、要花は堂々とした晴れやかな笑顔を返してきた。一点の曇りも、恐れも無い笑顔だった。虎丸は困惑しつつも、何とか口を開く。

「えっと、お、お嬢様……」

「やだ、そんな呼び方、他所の人みたい! 花って呼んでってば!」

「お嬢さん……」

「は、な!」

「花さん……」

「さんは要らない!」

「そんな、そんなことはとても……滅相も無い」

「なんでよ、あたしのお兄ちゃんになってくれるんでしょ?」

 虎丸が花に気圧されて、たじたじになっていると、突然豪快な笑い声が上がる。それは、要鉄丸のものだった。大きな笑い声でその場の注目を集めた鉄丸は、そのまま その大きな手を伸ばして、ひょいっと虎丸を抱え上げた。そうして、娘によく似た顔で、要大工の棟梁は義息に言った。

「困らせて悪いなあ、虎丸。花ときたら、遠慮知らずのじゃじゃ馬でよ。まあ、俺に似たんだなあ。でもまあ、俺だって、召使が欲しくって苗子と結婚した訳でも、お前を引き取った訳でも無いんだから、そんなに畏まってくれるなよ。ゆっくりでいいから、俺らのことを家族にしてくれ」

 虎丸は全く想像もしなかった要父子の態度に、助けを求める様に母を見た。母は、相変わらずの猫の様に愛嬌のある微笑みで、目配せをくれるだけだった。

 義父との顔合わせを終え、押しの強い義妹には『花ちゃん』と呼ぶことで何とか妥協してもらい、そうして虎丸は要家に迎えられた。

 生まれてこの方、ずっと厭われ追われて遠ざけられてきた虎丸にとって、母以外の者に人として扱われる経験も、門戸を開いて温かく受け入れられる経験も、殆ど初めてのものだった。

 以来、義父のことを『父ちゃん』と呼び損ねて、ずっと『棟梁さん』呼びのままだったり、『花ちゃん』という呼び方がすっかり定着してしまったり。そんな継ぎ接ぎを残しつつ、四人は家族になっていった。

 特に花と苗子は懐っこい性格がよく似ているせいか、よく気が合い、なんだか年の離れた姉妹の様ですらあった。思えば、花と苗で名前だけ見れば、二人の方が実の親子でもおかしくないくらいだった。そんな話を虎丸が零すと、鉄丸が「実は俺とお前の名前も、丸が被ってて似てるんだぞ」と悪戯気に笑った。

 かくして、温かい日々が、数年続いた。

 義父の弟子たちや大工町の住民の中には、虎丸のことを恐れ嫌がる者も多く、必ずしも順風満帆円満な日々だったとは言えないが、それでも、とても幸せな日々だった。

 そうして、虎丸たちが要大工町に根を張り、数年が経った頃。要家は果報に恵まれた。苗子の腹に、鉄丸の子が、虎丸と花の弟妹が宿ったのだ。四人は諸手を上げて喜んだ。

 ただ、少しだけ懸念があるとすれば、十月十日の後、赤子の生まれてくる時分が、どうやら桃の節句、雛祭りの頃に被っているらしいことだった。要家では毎年、この日は職人たちの手作りしたひな壇や人形を飾って盛大に祝っていた。要家の一人娘である花が主役のようなお祭りで、花はその日を盆や正月よりも楽しみにしているくらいだった。

 けれど、出産の前後となれば、両親はそちらに掛かりっきりにならざるを得ない。花も当然承知の上で、少しだけ寂しそうだった。だから虎丸は、花にこっそり約束をした。

「次の雛祭りは、俺が花ちゃんをお祝いするよ。桃を飾って、花ちゃんの好きなご飯を作ろうな」

 だから虎丸は、その後すっかり、過ごした時や重ねた季節さえ見失い果てた今となっても、はっきりと覚えている。

 その惨劇は、雛祭りの前夜に起きたのだと言うことを。

 その夜。苗子の腹はすっかり膨らみ、明日にでも赤子がこの世に生れ落ちてきても、おかしくないくらいだった。悪阻は重いようだったけれど、苗子は山を越えて働きに出る様な胆力の持ち主なだけあり、経過は順調そうで、苗子自身も生まれてくる子も、何の心配もいらないようだった。

 鉄丸は、大工町に入り込んだ素行の悪い若い衆と揉めた直後で、少しだけ苦心している様子だったが、その悩みも彼らを町から追放したことで解決に向かいつつあり、要家には暗雲の予兆など一つも無かった。

 そして、虎丸は花の好きな料理やお菓子の仕込みをしていた。あとは明日、仕上げて並べれば、簡素ではあれど花を喜ばせるお祝いが出来るだろうと、思いを巡らせ、そこで虎丸はふと桃の枝を用意し忘れたことに気づいた。

 雛祭りは桃の節句だ。桃の花が無くては始まるまい。明日の朝取りに行ってもいいけれど、折角思い出したのだし、今のうちに取りに行ってしまえばいい。何、すぐ裏山に立派な桃の木が幾つも生えているのだから、さっと行って一本枝を切ってくれば済む話だ。そう思って、虎丸は勝手口から、家を出た。

 それが、岐路だったのだろう。苗子と鉄丸と花と虎丸を分かつ、彼女らと虎丸を決定的に引き裂く分岐。後から思い出しても益体も無いくせに、どうせ戻れるのならあの瞬間に戻りたいと思わずにはいられない、決定的な分かれ道。

 そうして、虎丸は裏山に繰り出した。

 けれど、すぐ手に入るだろうという目論見に反して、なかなか桃の花は手に入らなかった。棟梁屋敷の近くの桃の木は、丁度日陰に立っているせいか花の開きが遅く、飾りにするには不十分だった。山の中腹まで登ると、ほどよく咲いている枝もあるのだが、虎丸の背丈で手の届く適当な枝が中々無かった。

 そんな訳で随分と山の奥まで踏み入って、どうにか立派な枝を一本切り取った時には、ずいぶん時間が経っていた。

 いけない、すぐに帰れるだろうと思って何も告げずに出て来てしまったけれど、母ちゃん達が心配してるかもしれない。戻らなきゃ。虎丸は駆け足で山を下った。

 けど、とてもきれいな桃の枝を手に入れた。他の枝に比べても花が鈴なりで、しかも丁度七分咲きくらいで、暫く飾って楽しめるだろう。きっと母ちゃんも、花ちゃんも、棟梁さんも、喜んでくれる。

 そう思って、虎丸は屋敷の玄関に駆け込んだ。

 けれど、ただいま、という言葉を紡ぐよりも先に、虎丸は違和感を覚える。

 それは、強烈な血生臭さだった。魚を捌いた時に臭う、血や肉の匂い。けれど、その何倍も濃く、噎せ返る様な血の匂い。

「母ちゃん……?」

 虎丸はまず真っ先に、母を呼んだ。困った時や心細いときには、やはり反射的に呼び縋ってしまう。

 けれど返事は無かった。

 屋敷は不自然なほど静まり返っている。仄暗い恐怖が、虎丸の心の中に立ち上る。虎丸は、不安を振り切る様に、あるいは、不安に誘われる様に、突っ掛けを脱いで屋敷に踏み入る。

「棟梁さん?」

 返事は、無かった。声が大きく振舞が豪快な上、笑い上戸な義父が屋敷に居れば、絶えず何かしら賑やかな音がする筈なのに。虎丸は、手の中の梅を握りこむ。ぞわぞわと不安が膨らんで、臓腑を圧迫するようだった。虎丸は、恐る恐る辺りに目を配りながら、廊下を進む。

「花ちゃん?」

 返事は、無かった。父親譲りの気質で活発な少女は、良く喋り、良く笑う。彼女の声だって、何時も屋敷を楽し気に彩っているのに。

 いや、きっと、気のせいだ。虎丸は首を振る。きっと寝ているだけだ。もう大分遅いもの。そう言えば、いつもなら、花ちゃんは寝てしまう時間だ。母ちゃんと棟梁さんは、花ちゃんを起こさないように静かにしているんだ。

 けれど、そんな虎丸の願いのような予想を叩き潰す様に、座敷の前に立った途端、強い血の香りが鼻を貫いた。

 違う。違う。きっと、何かの間違いだ。

 虎丸は襖に手を掛けた。手足の感覚が薄くなっていく。骨の髄から体が震える。寒くも無いのに、体が芯から勝手に冷えていく。心臓が早鐘のように鳴る。頭が締め上げられるようだった。何も含んでいないのに、口の中に苦い味が広がる。見開いた目が乾いて痛い。

 腕が、襖を引こうと、指先に力を込めて、筋を収縮させていく。自分の振舞なのに、他人事のように見えた。自分の思いを置いてけぼりに、手が、勝手なことをしているように思えた。

 開けるな、と誰かが叫んだ気がした。

 でも、開けなくちゃ。だって、絶対に、そんなことは無いんだもの。絶対に間違いなんだから。開ければ分かるんだ。きっとこの襖の向こうでは、母ちゃんと棟梁さんがいつもと変わらない姿で、声を静めて、お茶を飲んだりしているはずだ。

 そうして虎丸は、意を決して、開いてしまった襖の向こうを見た。

 次の瞬間、喉を引き裂く様にして吐き出された虎丸の絶叫は、山の闇に呑まれて消えた。

 放り出された梅の花が、畳に落ちる。薄桃色の花弁が、みるみる赤くなっていく。渇いた井草ですら吸いきれなかった、人間三人分の血潮を吸って。

 座敷は血塗れだった。縁側に面した襖は張り倒されており、その近くに要鉄丸が転がっている。廊下側の虎丸に近い方に、苗子と花が折り重なる様に倒れ伏していた。

 虎丸は、叫びながら母と妹に駆け寄った。

 無駄なことだとは分かっていた。

 料理をしていれば嫌でも分かる。魚も植物も変わらない。

 頸骨を絶ってしまえば、芯を突き刺してしまえば、火を通してしまえば、それはその瞬間、そうする前の物とは別物になる。水に放せば泳ぎだす魚や、土に植えれば根を張る植物から、これから腐り、萎びていく死体へと、たちまち姿を変えるのだ。

 脳髄、喉笛、頸骨、心の臓、腸。そう言った肝心要のものが壊れてしまえば、もう無駄なのだ。張りや鮮度がどれほど生きている時と同じように見えても、それらはもう取り返しも付かない程に、死体であり、食物であり、生き物とは別の物で、息を吹き返すことは絶対に無い。例え、どれほど手足が暖かくても。例え、どれほど肌が柔くとも。

 だから、無駄なことだとは分かっていた。

 それでも、そうせずにはいられなくて、虎丸は母と妹の亡骸に縋り、半狂乱になって彼女たちの名を叫びながら、無残に切り開かれた傷口を抑え、零れ落ちた臓腑を押し戻し、溢れ出た血を注ぎ込んだ。そうすれば彼女たちが、元の姿を取り戻してくれるのではないかと、ああ、びっくりした、なんて言って、起き上がってくれるのではないかと、願うともなく願いながら。

 けれど、どれほど傷口を抑えても、押し戻しても、彼女らの血肉は、虎丸の指の隙間を縫って滑り落ちていく。

 くろまめ。

 生暖かく柔らかい感触に、何故かその名が脳裏を過ぎった。

 いつの間にか、虎丸は泣いていた。夜風でさえ冷やしきれぬ熱湯のような涙が、頬を伝っていくのに、その時になって気づいた。

 薄暗い絶望が、虎丸の肩に圧し掛かり、静かに重みを増していく。その暗さに、取り込まれてしまう様な気がした。

 その瞬間、微かな呻き声がした。それは、声というよりも、泡立った血を吐き出す音だった。虎丸は涙を散らして顔を上げた。

 少し離れた場所に転がっていた義父が、微かに痙攣しながら、口から血の塊を吐き出していた。

 生きている。

 そう思った時には、虎丸は立ち上がっていた。体が大きいから、頑丈だから、体力があるから。理由は分からないが、妻子と同じ傷を負いながらも、要鉄丸は生きていた。

 虎丸は涙を拭い、義父の側に駆け寄る。投げ出された手を肩に掛け、義父の体の下に自分の身をねじ込む。そして、痛みに呻く義父に頭の中で謝りながら、全身の力で押し上げる様にして彼の体を担ぎ挙げた。

 義父の体は大きく重かった。少年には身に余るその体に押し潰されそうになりながらも、それでも虎丸は全身全霊で彼を背負って、一歩踏み出した。

 きっと。虎丸は思う。

 きっと自分は。圧し掛かる重みに骨が悲鳴を上げた。筋肉が引き攣る。圧迫された胸板は、十分に息を吸い込むこともできない。顔が真っ赤になって、汗が浮く。それでも、虎丸は歩を進める。裸足のまま屋敷を出、山の砂利道に踏み出した。

 きっと自分は、このために生まれてきたのだ。膝に体重がかかり、鋭く痛んだ。足の健が軋む。足の裏に小石や木の枝が突き刺さる。歯を食いしばって、虎丸は鑢のような道を一歩一歩下って行った。

 こんな髪の色で生まれて、母を不幸にし、黒豆を死に追いやり、花に雛祭りを祝ってやることもできず、母も妹も守れなかった自分だけれども。義父を、救うには間に合った。彼を救えないなら、自分は何のために生まれてきたのだろう。ならば虎丸は、きっとこの日のために生きていたのだ。

 足の裏の皮が捲れたのかもしれない。何時からか、一歩進むたびに激痛が走る様になっていた。それでもやがて、前方に木々の隙間を縫うようにして、民家の明かりが見えて来た。虎丸は、救われたような思いで、ほっと息を吐いた。もう少しだ。あそこに辿り着けば、誰かが棟梁さんを救ってくれる。

 そう思って、虎丸が最後の力を振り絞り、前に進もうとしたその時。

「ああ? なんだよ、屋敷に居ねえと思ったら、生きてんじゃねえか、くそが」

 そんなガラの悪い声が背後からした。がさがさと茂みを掻き分ける様な音がして、足音と背後の気配が増えていく。

「お? 見つかったか?」

「死体がねえのはやべえよな。役人でも呼ばれちゃたまんねえぞ」

「いや、大丈夫。見つかったし、死にかけだ」

「そりゃ良かった。思い付きで戻ってみて良かったな。金目のもんも手に入ったし」

「だろ? 金払いもいいし、憂さだけ晴らして終わりじゃもったいねえ。それに、こうして危うく首の皮も繋がったしな」

「違ぇねえや。このまま町に逃げ込まれてたら、まじで危なかったな」

 そんなことを言い合って、背後の男たちは笑う。虎丸は背筋が増えていく。鉄丸を背負ったままでは振り向くことはできないが、こんな夜分に屋敷の近くをうろついている奴らが、真っ当な集団であるはずがない。しかも、話の内容は、もっと明らかだ。

 虎丸は、じくじくと痛む足の裏に力を込めた。走れるだろうか、鉄丸を抱えて。走れたとして、一体どれくらいの速さが出せるだろう。逃げ、きれるだろうか。

 駄目だ、迷っている暇はない。虎丸は地面を蹴った。

 後ろで男の声がする。まともに走れている気はしなかった。義父の重みが背で振れて、体の均衡を崩す。転ぶわけにはいかない。足を突っ張る。無茶な体勢の立て直し肩をしたせいで、足首が嫌な曲がり方をした。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。

 けれど、必死に走っていたはずの虎丸を嘲笑う様に、すぐそばで男の声がした。

「おいおい、どこ行くんだよ」

 ああ、全く距離を開けられていない。恐怖が、背筋を這いあがる。

 ぐいっと、強い力で後ろに引かれた。虎丸自身ではなく、義父の体が引っ張られたせいだ。虎丸も尻餅をつく。

 背中から、義父の体が、体温が、心音が、引き剥がされる。慌てて振り向くと、そこには五人の男が居た。彼らは、義父の手足を引っ張って、その体を地面に引き倒す。

「おい、ぎり生きてんぞ」

「ちっ、しぶてえ野郎だな。おい、そっち持て」

「やめて……」

 虎丸は、呆然とその様を眺めながら呟いた。

「首刎ねてみようぜ。俺、一回生首って見てみたかったんだ」

「いいねえ。俺にやらせろよ。おい、鉈貸せ」

「よし。じゃあ、俺はこっち抑えとく」

「やめて」

 嬉々として義父の体を押さえつける男たちが、何をしようとしているのかが、呆けた頭にじわじわと染みて来る。

 虎丸は体を引き摺って何とか立ち上がろうとした。しかし、酷使した足腰は抜けてしまって、力が入らない。土を掻き、腕の力で這い摺って、虎丸は男たちに近づこうとする。

 けれど、そんな虎丸の努力も空しく、男の一人が刃物を振りかぶる。

「やめて!」

 虎丸は力の限り叫んだ。その声と、骨か断ち切られるような鈍い音が響いたのは同時だった。目の前で、義父の足が微かに痙攣し、やがて止まった。虎丸はその様を呆然と眺める。

「あ、ああ……ああ……」

 拭ったはずの涙が、ボロボロと頬を下る。意味を為さない間抜けな声が、口から洩れた。

 再び絶望が、背中から圧し掛かって来る。手足の生えた絶望が、背後から虎丸の肉を掻き分けて体の中に入り込んでくるような錯覚がした。

「と、とう、棟梁さ……とうりょうさん…………とうちゃん……」

 呆けたように応えのある筈のない呼びかけを繰り返す虎丸に、男たちの視線が向く。

「意外と落ちねぇもんなんだな、首って」

「まあ、死んだからいいだろ。それより、なんだ、この餓鬼」

「うわ、気色悪ぃ髪」

「あれじゃね。このくそ野郎が引き取ったっていう、天狗の餓鬼」

「ああ、町の奴らが言ってた疫病神か」

「よくこんなの引き取る気になったな。やっぱ此奴、いかれてんな」

「でも、見世物小屋とかに売っぱらったら、金になんじゃね?」

「馬鹿、顔見られてんだぞ」

「あー、そうだった。じゃあ、仕方ねえ。やっとくか」

 男の一人が、虎丸の髪を掴んで、地面に引き倒す。

 虎丸は為す術もなく、地面に転がされた。体格差や人数差を踏まえれば、どうせ抵抗しても無駄だったのだろうが、どちらにしろ虎丸は、抗う気など失くしていた。されるがままに上を向かされ、見上げた夜空には月がぽっかりと浮かんでいた。

 直に満ちようかという月の白々しい輝きは、虎丸をじっと見つめているようだった。その月の冷たく無情な光は、虎丸の中にはっきりと刻まれた。

 その月灯りを遮る様に、男たちの影が虎丸を覗き込む。影が得物を振り上げる。

 鈍い音と、振動が体のどこから伝わってくる。一つ、また一つと影が得物を振り下ろす度、体のあちこちが、火が付いたように熱くなった。焼ける様な温度が、少しずつ増えていく。代わりに、感覚の通じる場所が少しずつ減っていく。喉だけがずきずきと痛んだ。醜くしゃがれた笑い声と誰の物とも知らない悲鳴を聞きながら、虎丸の視界はじわじわと黒くなっていった。


 目を覚ました時、虎丸は天井を見上げていた。

 頭はぼんやりとしていた。仄明るい部屋の様子を眺めながら、虎丸は、ああ、お昼ごろかな、と思った。昼寝なんてしていただろうか。小さな子供でもあるまいに。母ちゃんは、お昼の用意を終えてしまっただろうか。俺も行って手伝わないと。

 寝ぼけた頭でそんなことを考えながら、虎丸は起き上がろうとした。けれど、手足が微動だにしない。力を込めようとしても、全く力が入らない。首から下が溶けて無くなってしまったようだった。

 どうして、と思った途端、虎丸の頭の中に凄惨な記憶が浮かび上がってきた。中身が溢れるほどに刻まれた苗子と花の亡骸、血を吐き戻していた鉄丸、鉄丸を背負って降りた長い長い山道、突如現れた男たち、痙攣する鉄丸の体、白い月、獲物を振りかぶる影。

 夢だ、夢だったんだ。

 ああ、良かった。

 そう思った時になって漸く、遅れて意思が通ったのか、右腕が引き攣るように動いた。

 その瞬間、虎丸は激痛に吠えた。否、出せる限りの大声を出したつもりだったが、実際に部屋に響いたのは、惨めに掠れた声だった。

 何処が、ではなく、全身が痛い。串刺しにされたかのような、焼き潰されたかのような、骨を削り取られたかのような。自分の身がどうなっているのか、どこがどうなって、どういう状態でいるのか、まるで分らない、滅茶苦茶な痛みだった。

 それでも、そんなものよりも。がんがんと痛む頭は、もっと別の、もっと酷い苦痛に辿り着いてしまった。この痛みは、つまり。

 いやだ、うそだ、ゆめだ、ゆめだったはずだ。かあちゃん、はなちゃん、とうちゃん。

 その時、襖が開いた。虎丸は視線だけを何とか動かして、そちらを見る。涙で滲んだ視界に、大柄な男が映った。

「虎坊!」

 男は、そう叫んで走り寄って来る。

「良かった! 気が付いたのか。もう、目を覚まさねえんじゃねえかと……」

「よ……だろ、ざん……」

 虎丸は、上手く動かない舌を何とか回して彼の名を呼んだ。彼、要大工の若頭、春日羊太郎はくしゃくしゃの泣き笑いの顔で、何度も頷く。

「そう、そうだ、俺だ。分かるか? 良かった、意識は大分はっきりしてるな。待ってろ、今、お医者様を……」

 そうしてすぐに立ち上がろうとした羊太郎に、虎丸は必死に喉を絞りあげた。

「ど、とぅぢゃ……どうりょ、ざん……は……?」

 ああ、棟梁な。大丈夫、間一髪助かったよ、今は隣で寝てる。安心しろ。

 そんな言葉を、期待した。

 けれど、羊太郎は、少し躊躇うように動きを止めてから、目と口を堅く結んで首を振った。言葉は無かったが、雄弁だった。虎丸は目を見開く。じわじわと涙の幕が目玉を覆っていく。羊太郎は、そんな虎丸を励ます様に、慌てて言った。

「虎坊だけでも、無事でよかったよ」

 自分だけ。その言葉に、虎丸は視界が真っ暗になった気がした。

 俺だけ? 俺が、俺だけが生きているのか? 母ちゃんも、花ちゃんも、棟梁さんも、死んでしまったのか?

 自分に生まれた意味が、生きてきた意味があるなら、それは要鉄丸を救うためだったのだと、思ったはずなのに。その役目も果たせなかったのに。その癖、一人、俺は生き延びてしまったのか?

「ごめ……なざ、い……」

 誰に対してかは分からない。ただ、虎丸の口を突いて出てきたのは、謝罪だった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 本当なら、どうせ生き延びるなら、母ちゃんや、花ちゃんや、棟梁さんであればよかったものを。そうであるべきだったものを。どうして、俺なんだ。どうして、選りにも選って天狗の子供が、疫病神が、生き永らえてしまったんだ。

 生まれて来て、ごめんなさい。生きていて、ごめんなさい。生き延びてしまって、ごめんなさい。俺が、俺であって、ごめんなさい。

 動かない体で、横たわったまま、虎丸はただ只管に虚空に懺悔し続けた。

 それからしばらく、羊太郎や医者が、日々代わる代わる虎丸の世話をしに来てくれた。痛みは一向に引かなかったが、その内慣れて来たのか、悲鳴を上げることは少なくなった。

 その代わりに、虎丸は謝り続けた。意識は朦朧としており、寝ている時と起きている時の境は曖昧だった。譫言のように謝罪し、寝言の様に懺悔した。

 やがて、少しだけ体が動く様になった頃。医者でも、羊太郎でもない人物が虎丸を訪ねて来た。名前は知らなかったが、顔に見覚えがあった。羊太郎と仲良くしている、若い衆だ。

 彼は、眠っている虎丸に合わせて座るようなことはせず、虎丸の枕元に歩み寄ると、立ったままで言った。

「………………、やっぱり、お前は疫病神だったな。棟梁さんも奥さんもお嬢さんも、ああなったのは全部お前のせいだ」

 憎しみに満ちた目で虎丸を見降ろして、彼は吐き捨てるように言った。それから実際に虎丸に唾を吐きかけ、彼の頭を蹴り飛ばしてから、彼は出て行った。

 虎丸は、蹴りの振動が響いた痛みで暫く悶絶してから、息を吐いた。

 そう、そうだ。あの男の言う通りなのだろう。黒豆が、化け物の犬だと殺されたように。要家に降りかかった災難も、きっと自分が呼び寄せたのだ。男の言葉は、ストンと虎丸の胸に落ちた。

 だから虎丸は、痛む体を圧して立ち上がり、そのまま幽鬼のような足取りで、部屋を出た。何日も身を置いたそこが、要大工衆の作業場に設えられた倉庫や休憩所や応接間なんかを一緒くたにした建物の一室だったことに、その時気付いた。そんな由来の家屋敷なだけあって、あちこちに大工道具が散見している。

  そうして、玄関まで辿り着いた虎丸は、三和土の隅に立てかけられた手斧に気づいた。良く使い古された、普通の物より一回り大きいそれは、義父、要鉄丸の物だった。それを手に取ったのは無意識だった。虎丸は手負いの体を引きずりながら、手斧だけをもって、そのままその家から、そして要大工町から立ち去った。

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