くろまめ
虎丸は、やや躊躇ったものの、龍之進の隣に腰を下ろした。
結果が芳しくなかったのだろう、彼は消沈した様子で境内を見渡した。しかし境内に居る犬は、二匹の狛犬と茶色い毛皮の野良犬だけだ。灰色の毛皮の子犬は居ない。虎丸は、呟くように尋ねた。
「……あいつは、見なかったか?」
「いや、見ていない」
彼にとって、龍之進がなぜここに居るかより、聞きたいこととは何かより、犬の安否が先らしい。龍之進は、彼が尋ねるであろうことに、先んじて応える。
「神主どもにも聞いたが、今日は見かけていないそうだ。俺は、そう聞いてからずっとここに居るが、犬は来ていない」
「……そうか」
虎丸は肩を落とす。項垂れた彼の様子をちらりと見て、龍之進は何となく腑に落ちた。
何が大事かは人による。虎丸はそう言った。
犬が死ぬことなど、龍之進にはどうと言うことにも思えない。仔犬だからと言うことや、見慣れた犬だと言うことを加味しても、さして哀れとも思わない。動物の子供が死ぬことなど、良くあることだ。恐らく龍之進は、それが人の子供であっても何も思わない。
だが一方で、死なれたくなかったという気持ちは、龍之進も知っている。死んでもいいものを、死んでほしくないものに変えるのは、特別さだ。
そこには必ず、不確かで確かな理由がある。犬だからではなく、人だからでもなく、子供だからでもなく、その人だから、その犬だから、死んでほしくないと思う理由だ。
龍之進にとって、あの犬はただの犬だった。蛇介にとっても、そうだった。けれど、虎丸にとってだけは、あの犬は特別な犬だった。自分の寝食を擲ってでも、探し回らずにはいられない程、失い難いものだった。
「どうしてだ?」
唐突な龍之進の問いに、虎丸は訝しげな顔で、彼の横顔を見た。
「どうして、あの犬を飼いたいと思った? どうして、あの犬が特別だ?」
「……ああ」
そういう事か、と言うように虎丸は頷いた。そして、少し躊躇うように彼の視線は、龍之進の目から逸れ、宙を彷徨い、手水場の犬に注ぎ、最後には、彼自身の足元に往きついた。
それからようやく彼は、意を決するように息を吸い、口を開いた。
「犬は、好きなんだ。動物は、何でも好きだけど」
その声色は、どこか怯える様だった。何でもないように思えることだが、虎丸にとって、それを言葉にすることは、とても恐ろしいことであるようだった。
「どうして、動物が好きだ? それとも、動物でないものが、嫌いだったか」
淡々と続きを促す龍之進の言葉に、虎丸は僅かに身を強張らせたが、そのうち小さく頷いた。
「嫌い、だった訳じゃない。けど、怖かった。だから、動物が好きだったんだ。だって奴らは、俺の髪の色が変でも、殴ったり、石を投げたりしないから」
「そうか。なら、中でも犬なのは、何故だ?」
そこで虎丸は何かを言い淀む様に、口ごもると、ちらりと龍之進のことを見た。
「どうして、そんなことを聞くんだよ」
「あの犬が、特別だった理由を、俺は知らねばならんと思う」
虎丸は、その真意を探る様に龍之進を窺った。そして、ぽつりと言った。
「……少しだけ、長くなっていいか? 益体もない話、なんだけど」
「ああ。俺はそれを聞きに来た」
「上手く、話せないかもしれねえけど」
「構わん」
「どうでもいい話なんだ。俺にとってだけ、大事な話だってだけで」
「うむ、聞こう」
虎丸は、腿の上の掌を軽く握る。静かに深く息をついてから、彼は話し始めた。
「何から、話せばいいかな。……俺の餓鬼の頃の、話になるんだけど……そうだな。ちょっと遠回りになるけど、俺の身の上からでも、いいか?」
「うむ」
「俺の産まれた村は、山中の小さな村で、余所者や変った者に厳しいところだったんだ。だから、俺の母ちゃんは、こんな髪の餓鬼を産んで、すごく苦労したんだ。母ちゃんは俺を大事にしてくれたけど、そのせいで、村で働き口を失った」
「ふむ。まあ、群れとは得てして、そういうものだな」
「ああ、そうだと思う。とくに、母ちゃん自身、身寄りが無くってさ。俺の父親が分からないこともあって、輪をかけて村の中じゃ立場が無かったんだ。それで、頼れる身内も耕す畑も無かったから、俺たちが食ってくためには、母ちゃんは村の外に働きに出るしかなかったんだ」
「お前を置いてか?」
「おう。俺を連れてったら、村と同じ理由で職を失うからな」
「なるほど」
「それで、母ちゃんは山を越えて、隣町まで働きに行った。大変だったろうに、母ちゃんはなるべく頻繁に帰ってきてくれた。その時は、よく、一緒に飯を作ったりしたよ。一人の時も美味いもん食えるようにって、料理の仕方を教えてくれた」
「ああ、お前の飯は美味い。とくに、あの緑のおはぎは良い」
「随分、気に入ったんだな、ずんだ。あれも、母ちゃんから教わった。そうやって、一緒に台所に立ってる時とかに、母ちゃんは俺の父親のことを聞かせてくれた。『お前のお父ちゃんは、天狗様なんだよ』って」
「そういえば、お前の父親は、何故居なかったんだ?」
「分かんねえ。死んだとは聞かされなかったし、出てったのかもしれねえな。ただ、母ちゃんは、その人のことを嫌っちゃいなかったみたいだ。俺に、その話をするとき、母ちゃんはいつも嬉しそうだったから」
「ふむ。それで、母親のことは分かったが、それで、その母親が犬に関係あるのか?」
「いや、悪い。ちょっと逸れた。えっと、母ちゃんの話をしたのは、俺が、普段は家に一人だったってことを言いたかったんだ。母ちゃんは、なるべく沢山帰ってくるように、頑張ってくれてたんだと思うけど。それでも、やっぱり、俺は一人で居ることの方が多くてさ」
「子分や友人は居なかったのか?」
「なんだよ、その二択。どっちも居ねえよ。知り合いを作るどころか、そもそも俺は、ほとんど家から出なかったんだ」
「何故だ? 飯や水を捕りにいかないのか?」
「飯は、母ちゃんが買ってきてくれる材料で作ってた。どうせ村じゃ、俺らに物を売ってくれる奴は居ないからな。水は時々、夜に人が寝静まった頃に汲みに行ったよ」
「どうして、そこまでして家を出なかった?」
龍之進の素朴な疑問に、虎丸は少し息を止めた。それから、感情を込めないように殊更努めた様な、単調な口調で言った。
「……外に出ると、嫌がるんだ、村の人たちが。……気味が、悪いって」
「気味悪がる奴など、気味悪がらせておけば良いだろう。蛇介が言うように」
「違うんだ。外に出ると、殴られる」
「ああ、なるほど」
虎丸の拳が握りこまれるのを見て、龍之進は頷いた。青い目の女猿、金の毛皮の親無し子。異形は、群れを追われるものだ。
「俺も、友達が欲しいとか、思ったことがあってさ。まだ分別が付いてねえ頃、外に出て、村の子供に話しかけたこととか、あったんだよ。……それで、その子の親に、たこ殴りにされた」
「そうか、殴り返したか?」
「はは……本当にちびの頃だったから、抵抗なんかろくにできなかったよ。それに、その人が悪い訳じゃ、ねえしな。自分の子供に、薄気味悪い化け物が近づいたら、当然の反応だ」
「悪いかどうかは、関係ないと思うがな」
良かろうが悪しかろうが、腹が立ったという理由で叩きのめしてしまえばいい。しかし、そう思ってふと、龍之進は自分の発言に、引っ掛かりを覚えて首を傾げた。虎丸はそんな彼の様子に気づかなかったのか、話を進めていく。
「だから、俺は外を出歩けなかった。村の人たちの機嫌にも寄るけど、悪いときは袋叩きにされるし、それで死んじまいたくは無かったからな。だから、俺が自由に過ごせる場所は、家の中と、せいぜい勝手口の辺りまでだった」
「そんな狭い場所にしか居られんとは、俺なら息が詰まるな。飛んだり跳ねたりもできんだろう」
「お前は、家の中に納まる質じゃねえもんな。俺は、それはあんまり辛くなかった。料理とか、繕い物とか、掃除とか、家に居てもできることはあるし、幸い俺は、そういうの嫌いじゃなかったから。裁縫は、ちょっと苦手だけど」
「うむ、お前の繕った着物は、結構ぐしゃぐしゃだ」
「仕方ねえだろ。お前や蛇介はさっぱりなんだから、下手でも俺がやるしかねえだろ」
「それはそうだ」
「だから、出歩けないのは良いとして、それより辛かったのは……寂しかったことだ」
「……そうだな」
「本当は、我儘なんだけどな。俺がこんな見た目だから、母ちゃんは他所の町に働きに行かなきゃいけなくなったのに、その上、寂しいなんて」
「何が我儘なんだ? お前がその見た目なのは、母親が異人と契ったからだろう。そして聞く限り、契る人間は、その女が好き好んで選んだのだろう? なら、苦労をしたとしても、承知の上だ。お前が慎む理由にはならない」
「そんな訳にもいかねえよ。俺は母ちゃんに、迷惑かけたくなかったんだ。捨てられたって仕方ねえのに、あんなに大切に育てて貰ったんだから。かけずに済む苦労なら、かけたくねえ」
「そうか」
「……だから、母ちゃんに『寂しい』とは、言いたくなかった。それに、母ちゃんが働きに出なきゃ、どうせ俺らは生きていけなかったんだ。言ったとしても、一緒に居られる訳じゃねえ」
「それもそうか」
「おう。けど、分かっちゃいても、時々どうしようもなくなる時も、あってさ。一人で居ると、気がふれそうになる時が。そういう時には、軒先にとまる雀とか、壁に這ってるヤモリとかを眺めていると、ちょっと楽になるんだよ。奴らは、俺の髪が変でも、怒鳴ったり、殴ったりしない。そういう奴らを見ると、ちょっとほっとする。気休めだけどな」
「ふむ、確かに奴らの営みに、人間の毛皮の色など関係あるまい」
「ああ、そういう所が、好きだった。だから、動物が好きだった」
「そうか」
「前置きが長くなっちまったな。ここから、やっと犬の話だ。それもまだ、もう少しかかるけど」
「ああ、聞こう」
「……ありがとう」
何への礼だったのかは分からないが、虎丸はそう呟くと、日暮れの境内の薄暗い闇に目を遣って、何かを見透かそうとするように目を細めた。彼の目を通してみれば、きっとそこに、彼にしか見えない思い出の残り火が燻っているのだろう。
「……あいつに会ったのは、雨の日だったんだ。あの日、なんだか鳴き声がするから、勝手口を開けたら、我が物顔で仔犬が入り込んできた。小さくて、丸くて、黒い仔犬。野良だったんだけど、驚くほど人懐っこくて、可愛かった。雨の中に放り出す理由なんてなくて、体を拭いてやって、飯を分けて、一緒に眠った。そしたらそれ以来、そいつは時々家にやって来るようになった」
「随分警戒心の無い犬だな。お前はその犬を飼ったのか?」
「いや、飼いはしなかった。俺は、飼い主の役目は果たせないから、向こうが訪ねて来た時に、家に入れてやっただけ。でも、何かしてやれた訳じゃねえけど、俺はその犬に、黒豆って名前を付けたんだ。小さくて、丸くて、黒かったから」
「ああ、だからか」
やたら犬猫に豆の名前を付けたがるのは。龍之進がいつか投げかけた問いの答えが、不意に返ってきた。
虎丸は続ける。その口調は、とても穏やかで、それでいてどこか弾む様な、幸せそうな声色だった。
「黒豆は、懐っこくて、太々しくて、ちょっとお馬鹿で、可愛かった。黒豆が居ると、本当に幸せだった。鳥とか、ヤモリとかは近寄ったら逃げちまうけど、黒豆は俺が撫でても嫌がらなくて。どころか、そのうち俺を見ると、しっぽを振って近寄ってきて、後をついてくるようになった。それが、本当に可愛かった。寒い日や雨の日なんか、日がな一日黒豆のことを撫でてたな。黒豆に出会ってから、寂しいって思うことが無くなった」
「そうか、それは良かったな」
「ああ。本当に」
「その黒豆とやらに似ていたからか? お前が、あの犬を飼いたがったのは」
なんとなく話の流れが察されて、龍之進は水を向ける。
しかし、彼の何気ない問いかけに、虎丸が身を固くするのが分かった。龍之進は違和感を覚えて、彼の顔を振り返る。その表情は、強張っていて、真っ白に血の気を失っていた。たった今まで、あれほど愛おしそうに思い出話を語っていたとは思えない程。
「違うのか?」
龍之進の問いかけに、虎丸は面を伏せた。
「……長くなって悪いけど、もう少しだけ、続きがあるんだ」
「分かった。話してみろ」
龍之進の言葉に、虎丸は喘ぐように息継ぎをする。
「黒豆は、俺の飼い犬じゃなかった」
「ああ、言っていたな」
「だから、居なくなることもよくあったんだ。少し、寂しかったけど、俺は一緒に散歩はしてやれねえ。だから、暫く姿を見せなくっても、俺は気にしてなかったんだ。気にしなかったんだ」
虎丸は、膝を抱え込むようにして身を縮めた。
「あの朝な、俺は、いつも通りに、玄関を掃こうと思って、表に出たんだ。暫く、黒豆が来なくて、また会いたいなって、思ってて」
その言葉は、途切れ途切れで、次第に掠れて、震えていく。口にすることが、酷く苦痛であるかのようだったが、龍之進は話を遮りはしなかった。
「そしたら、戸口の前に、黒豆が居たんだ。黒豆の……し、死体が、転がってた」
虎丸は、何かから身を守るように縮こまり、抱きしめた己の腕に爪を立てた。怯える動物の仕草に、よく似ていた。
「死んで、る、のは、一目で分かったんだ。だって、生死より、それが、黒豆かどうかを見分ける方が、難しいくらい、無惨に……っ」
一息でそれだけ言い切ると、虎丸は、陸にいるのに溺れているような呼吸音を立てた。それから、絞り出すように言った。
「俺のせいだ」
「……どうしてだ?」
前後の脈絡が唐突に失われたように感じて、龍之進は口を挟んだ。それに、声をかけて、彼に息を吐かせた方が良いような気がした。突然取り乱し始めた彼は、放っておくと空気を失って死にそうだ。
案の定虎丸は、龍之進に声を掛けられるまで、ここが陸で、境内であることを忘れていたような、どこか呆けた顔をあげ、龍之進を見た。彼は目を瞬いて、それから、辺りに軽く視線を彷徨わせる。そうしてやっと、自分の目の前には黒豆の死体は無いのだと、理解できたという様子だ。
彼は、何度か深く息を吸い、乱れた呼吸を整えた。そして少し冷静になったようで、やや落ちついた口調で話を続ける。
「……黒豆の亡骸にな、杭で木の板が打ち付けてあった。『化け物の犬』って、書かれてた」
「そうか」
「初めは意味が分かんなくて、咄嗟に死体を抱き上げた」
虎丸は、何かを拭い取ろうとするように、己の腕に指を這わせた。
「骨が、形も残らないほど砕けてて、柔らかい肉だけの塊で、まるで水みたいに、腕の間から滑り落ちてった。触れてたところが、真っ赤になって、それで初めて、黒豆の毛皮が血だらけなんだって分かった。黒いと、見ただけじゃ、分からないから」
「そうだな」
「俺が可愛がったせいで、黒豆は死んだ」
その台詞は、定まったことを読み上げる様な言い方だった。
龍之進に向けたようでは無いその言葉は、果たして誰に向けたものかは分からない。だから、龍之進は頷かないでおいた。
「墓を作った。勝手口に黒豆を埋めて。石を積んで、花を飾って、祈った」
虎丸は手を組んで、固く固く握り込む。けれど口の方だけは平坦に、経でも読み上げるかのように呟いた。
「どうか、どうか、黒豆が極楽浄土で、幸せになりますように」
独り言のように、譫言のように、虎丸は組み合わせた手を徐に掲げ、額に擦り付けた。そうして、かつても祈ったのだろう様に。
「……次の日起きたら、黒豆の墓は掘り返されてて、黒豆の死体はうちの壁に打ち付けられてた。だから、今度は家の床下に埋めた。その後、割とすぐに、母ちゃんが奉公先で出会った人と結婚して、俺はその村を出た。そこから、ここに来るまで、色々あったけど、どうしたって、黒豆を忘れることはできない」
話の佳境は過ぎたのだろう。あとはただ、淡々と虎丸は語る。
それは、犬の話であり、黒豆の話であり、虎丸の話だった。龍之進はじっと、耳を傾けていた。
「俺は、黒豆が好きだった。黒豆が、大好きだった。だから、犬が好きで、あいつが好きで、あいつを幸せにしたいと思った」
虎丸は、ぼんやりと虚ろな目を足元に向けている。話すことで気力を使い果たしてしまったという様子だ。
歯止めが無くなったのか、その口から、ただ零れ落ちるものを零れ落とすままに、言葉が紡がれていく。犬を好きだと、それだけの言葉をいやに憚ったのは、そういう事か。龍之進は、その打ち明け話を聞き終えて、少しだけ理解できた。
「黒豆にできなかったことを、あいつにしてやりたかった」
虎丸にとってだけ大切な犬、虎丸にとってだけ大事なこと。
怨霊であっても構わないから、いま一度会いたいと思うもの。決して取り戻せない失せ物の在り処。二度と埋まらぬその空隙を、あの犬ならば少しは癒すことが出来たのか。
龍之進は、確かめるように呟いた。
「そうか、お前にとってあの犬は、慰めになるのか」
「慰め……、ああ、そうだな。その通りだと思う」
その言葉を、嚙み砕くように反芻して、虎丸は小さく頷いた。
一瞬、静かに沈黙が下りる。虫の奇妙な鳴き声が、暫くあたりに響いていた。
ふと、虎丸は面を上げ、空を仰いだ。龍之進も、それに倣う。空には白い月がぽっかりと浮いていた。虎丸は、思い出したように呟いた。
「あの時、からなんだと思う。こんなことを考え出したのは」
「ん? どの時から、何をだ?」
「蛇介がさ、噓を付いてくれた時」
「はて、どの時だ?」
蛇介は日ごろ嘘を吐き散らかしているから、あの時と言われても定かでない。
「あの時、あの市場で、俺が権太さんに疑われた時」
合点がいって、龍之進は頷いた。食い逃げ騒動がまだ解決していなかった時、包帯で人相を隠していた虎丸が、権太に食い逃げの濡れ衣を着せられたことを思い出す。
「あの時も何か、奴は嘘を吐いたのだったか?」
「俺の髪の毛が、辻斬りに遭って変色したんだって、言ってくれただろ」
「ああ、そうだったな」
「あのおかげで、俺はこの町で、怖がられないで済むようになった。正直、あの時姿を明かした時は、これでこの町も出て行かなきゃなんねえのかな、とか色々覚悟してたんだ。でも、蛇介がああ言ってくれたから、俺はこの町で、天狗の子じゃなくて、人として暮らせるようになった」
「それが、お前は嬉しかったのか」
「ああ。あれも、俺にとってだけだけど、すごく大きなことだったんだ。……そう言や、俺が、『外国人の子だろう』って言ってくれたのも、あいつだったな。俺にとって天狗の子だって言うのは、結構悲しいことだったから、それも嬉しかった」
「そうか」
「最近、包帯も巻かなくなったな。それまでずっと、傷とか髪とか、結構必死に隠してたのに。まあ、本当はちゃんとすべきなんだけど。でも、こんな不愉快な姿を見せても、あんまり文句も言われねえし、この町の人は優しいよな」
「まあ、お前がそう思うなら、そうなんだろう」
「……こういう町で、蛇介が作ってくれた『藤野虎丸』としてなら、俺は動物を飼っても不幸にせずに済むじゃないかって、考えるようになったんだ。ミケさん達が店にいた時も、ああ、こんな風に動物と一緒に暮らせるなんて、夢みたいだって思った。だから、ミケさん達が居なくなったときは、ちょっと寂しかったな」
月を眺める虎丸の目は、遠くの恋しいものを見つめるようだった。その表情は、落ち着きを取り戻していて、穏やかだった。月面にはうさぎが映るという話を聞くが、そこに虎丸は黒い犬の姿でも見ているのだろうか。
龍之進はミケがいた時のことや、権太に引き取られていった時のことを思い出してみた。虎丸が言うような感慨を抱いた覚えは、自分にはない。それもまた、虎丸だけにしか分からない気持ちなのだろう。
そういえば彼は、ミケが居るとき、何でもないことのように犬が好きだと言っていた。恐らく、彼自身自覚せずに零した言葉だったのだろう。それほど、彼の心は許されていた。
虎丸は続ける。
「そんなことを、考えてたって程でもないけど、何時もぼんやり思ってた。それで、ミケさん達が来て、居なくなって、ちょっと寂しく思ってた頃に、あいつに会ったんだ」
あいつ、つまり、あの犬だ。灰色の毛皮の、全く懐かない、大柄な仔犬。
「黒豆に初めて出会った時と同じような、雨の日の勝手口で、あいつが丸まってるのを見た瞬間、黒豆のことを思い出したんだ」
真っ黒な毛皮で、人懐っこかった、小さな黒豆とは、似ても似つかなかったけれど、それでもその犬は、虎丸の心の中にするりと入り込んできた。だから、あの犬は特別だった。黒豆を失った虎丸の、どうしようもない悲しみや、後悔や、未練を、少しだけ埋めてくれた。
「俺のあいつに対する気持ちは、優しさとか、思いやりとか、そういう純粋なのじゃ全然なくて、ただの自己満足だ。お前の言う通り、ただの慰めだ。いくらあいつを大切にしたって、死んじまった黒豆が幸せになる訳じゃない。あいつも、他の犬の代わりにされるのは、いい迷惑だったのかもな。だから、帰って来ないのかもしれないけど、でも」
虎丸は、そこで少しだけ、痛みを堪える様に表情を歪めた。
「それでも、俺はあいつと、一緒に居たい」
龍之進は、虎丸の横顔を見た。虎丸だけの気持ち、虎丸だけの理由。それに、向き合わなかったことが、龍之進と蛇介の失敗だったのだろう。
黒豆を思わせるから、特別だった。今、この時、この場所だったから、大切だった。
しかし、そういう言葉になるもの以上に、本能や直感とでも言うかもしれない、説明のつかない部分で、彼はあの犬に惹かれたのだ。あれは彼にとって、どうしても必要なものだった。
けれど犬は、もう居ない。
「失ったところで死ねないものが、一番厄介だ」
「え?」
唐突な龍之進の言葉に、虎丸は戸惑うような視線を向けた。
「いっそ、欠けたら死んでしまうものであれば、その後の、それを失って生きていく辛酸を、味わわずに済むのにな」
犬などいなくても、生きていける。それが一番、残酷なことだ。
かつて、どこぞの村人たちが、天狗の子供に強いたこと。今日まで、黒豆を失って生きる苦痛を、今度は龍之進と蛇介が、知らず、藤野虎丸に強いた。
龍之進は静かに虎丸に向き直った。
「悪かった。あの犬は蛇介が殺した。俺もそれでいいと思ったから、あの犬は死んだ」
虎丸は、ぽかんと呆けた顔で、龍之進を見た。ひどく無垢な表情だった。
虫の声が、一層大きくなった気がする。
暫く間を置いて、やがて虎丸はふらふらと立ち上がり、龍之進の肩に手をかけた。
「……龍之進」
一拍遅れて、表情が追い付いてくる。泣きそうな顔で、か細い声で、彼は言った。
「歯ぁ、食いしばれ」
ぱかりと龍之進は目を覚ます。なぜか眼前には空が広がっていた。どうやら自分はひっくり返っていたらしい。月の位相が、少し傾いている。
龍之進は、体を起こした。状況を見るに、自分は座っていたはずの社の階段から、滑り落ちたらしい。瞬間、顎のあたりが強く痛んだ。口の中に鉄の味が広がっている。唾を吐き捨てると、やはり赤色が混じっている。
「ふむ、油断したな」
龍之進は、一瞬記憶が途切れた理由を探り当て、顎を撫でた。
要するに、虎丸に殴られたのだ。
まさかあの態度から、あんな重い拳が飛んでくるとは思わず、あまりにも他愛なくのされてしまった。
思えば、虎丸の怒りはいつも出し抜けだ。普段はさして自己主張もしないくせに、火が付くときは唐突に爆発する。兆しが無く、本当に直前までしおらしくしているものだから、全く予測できない。
龍之進は、立ち上がり、着物についた砂を払った。
それから、彼は手水場の方に目を遣る。野良犬は居なくなっている。途中で増えたもう一つの気配も、居なくなっていた。わざわざ戻ってきて身を隠してまで、聞きたい話だったのだろうか。あの白いのは、自分の話を聞かれるのは嫌がるくせに、人の話を聞くのは好きなのだろうか。
「ん? しかし……いや、まあいいのか。虎丸は、人を殺した話はしなかったから、聞かれても。まあ、何とでもなろう。拙かろうと、どうせ蛇介がどうにか言い包めるだろうし」
龍之進は人の居ない境内で、独り言ちる。
そこで彼は、気を失う直前に見た虎丸の目を思い出す。深く深く悲しみに淀んだ目の奥に、微かに灯った凶暴な火。あの男が、刃物を持っていなくて助かったかもしれない。しかし、台所には彼愛用の包丁が揃っている。
「蛇介め、死んでいないと良いが」
龍之進は、彼なりに全速力で、えっちらおっちら帰路を急いだ。
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