くうふく
その光は、真昼の街並みに漂っていた。藤野屋から見ると、大分と遠く、ちらちらと大通りの辺りに明滅して見えた。日の光に霞んではいるが、その怪しい黄緑の輝きには見覚えがある。店の前に打ち水をしていた龍之進は、目を瞬いた。
「町の蛍は昼に出るのか」
「え?」
客を見送っていた蛇介が、怪訝そうに振り向いた。
「それに随分、遅れてくるものだな」
「今時分、蛍なんて出ないだろ。しかも、こんな時期に」
「だが、あそこに……おや、居なくなった」
「見間違いだろ? それより、今のうちに飯食って来いよ。丁度、今なら少し客並も落ち着いてるし」
「うむ!」
蛇介に促されて、応じるように龍之進の腹が鳴る。台所へ向かう彼の頭からは、黄緑の光のことはすっかり消え失せていた。
台所に入ると、龍之進の分の昼飯が乗った盆が、板の間に用意してあった。早速龍之進は腰を据えて手を合わせると、湯気の立つ真朱色の茶碗を取り上げた。
「うむ、美味い!」
「そりゃよかった」
野菜を漱いでいた虎丸が、嬉しそうに笑う。流しの隣には、不言色の茶碗が伏せられている。蛇介はもう食事を終えたということだ。そこで、龍之進はふと戸棚に目をやった。若苗色の茶碗が並べられている。
「お前ももう、昼飯は終えたのか?」
「ん、ああ、まあな」
虎丸は曖昧に頷く。しかし、その瞬間、彼の腹が盛大に鳴った。
台所に沈黙が下りる。龍之進は流しに向かう虎丸の背を、じっと見る。虎丸の方もその視線に気づいていないはずはないが、野菜を切る手を止めようともしない。
「……本当か」
「おう」
龍之進は念を押すように尋ねたが、虎丸は余りにも平然と頷くので、それ以上の興味は失われた。
「飯は大事だぞ」
それだけ言うと、龍之進は改めて食事に取り掛かった。焼いた魚の皮が、香ばしかった。
翌朝、なんだか喧しい気がして、龍之進は目を覚ます。身を起こして窓の外に目をやると、まだ薄暗い彼誰の薄闇に、黄緑の光がちらほらと漂っているのが見えた。
例え朝日が仄かに染み出していたとしても、蛍が寝静まっていない様な時間なら、龍之進の基準では、まだ夢の中に居るべき時刻だ。日は燦燦と照るまで、日と呼ばれるに値しない。起こされもしないのに、起きる気は無い。龍之進は再び布団に潜り込んだ。
「ふざけたこと、してんじゃねえよ!」
しかし、階下から怒鳴り声が響いてきて、龍之進は再び身を起こした。
あれは蛇介だ。良く怒鳴られている身には、さほど難しい判別でもない。
龍之進は首を傾げた。やや語調が落ち着いたにしろ、言い争うような蛇介の声は、変わらず聞こえてくる。龍之進がここに居る以上、残るは二人。怒鳴っているのが蛇介なら、怒鳴られているのは虎丸のはずだ。
しかし、あの二人が言い争うなど珍しい、気がする。蛇介は、龍之進相手には何故かよく怒鳴るが、本領は巧みな話術で転がすことだし、虎丸も普段は至って自己主張の薄い質だから、衝突する原因は思い当たらない。いや、しかし、虎丸はあれでいきなり意固地になる時もある。
そのあたりで考えるのが面倒になったので、龍之進は布団を払い除けた。実際に起こったことを見るが早い。
階下に降りてみると、二人は台所の勝手口の所で言い争っていた。虎丸が勝手口を背に立っていて、蛇介がそれに向かい合っている。龍之進が起きてきたことにも気づかぬ程、お互い血が上っているようだ。
「別に、良いだろ」
「良い訳ねえだろ! しかも、選りによって、こんな家計の苦しい時に!」
「それは分かってる。でも、迷惑は、かけてねえだろ」
「ああ、今はな。でもそのうち絶対迷惑になる。今すぐ追い出せ」
「嫌だ」
「じゃあ、いつまでもそうやって、餌付けすんのか?」
「俺の分の飯なんだから、どうしたって俺の勝手だ」
「ふざけんな、てめえが痩せたら外聞が悪いだろうが。それに、てめえが倒れでもしたら、誰が飯を作るんだよ。そしたら、店ごと食いっ逸れるんだぞ。それでも迷惑をかけてねえって言えるのか」
「それは……、でも、追い出したら、こいつが飢えて死んじまうかもしれねえし……」
「知ったこっちゃねえよ、そんな犬っころ」
龍之進は、吐き捨てられた蛇介の台詞を拾う。どうやら話の軸は、二人と別にもう一つあるらしい。
「犬とはなんだ?」
そこで、ようやく彼の存在に気づいたのか、二人ははっと振り向いた。
「龍之進、起きたのか」
「ああ、何やら、喧しくてな。何があったのだ」
虎丸は、龍之進を見てややほっとした顔をした。蛇介も、多少冷静になったようだ。
龍之進は、二人に歩み寄る。すると、虎丸の足元から、ひょっこりと第三の当事者が顔を出した。警戒も露に、じっと三人を見つめるのは、灰色の毛皮の犬だった。まだ若い、むしろ仔犬と言っても良いほどだが、しかし、それにしては大きい。見た目は柴犬に似ているが、その仔犬と比べては、二回りも身の嵩がある。
「おお。変わった犬だな」
犬は、新たに登場してきた龍之進によって、蛇介と虎丸の語調が落ち着いたのに気づいてか、探る様に虎丸の足元から進み出ようとする。
「こら入ってくるな。おい、あっちへ行け」
それを見て蛇介は腹立たしそうに、犬を追い払おうと、足で突く様な素振りを見せた。
「あ、危ない……」
それに対して虎丸が声を上げる。しかし、その箴言も空しく、次の瞬間、蛇介が悲鳴を上げていた。
「……っ痛ってえ!」
犬は見事な俊敏さで、蛇介の向う脛に噛みついていた。ぐるぐると、およそ仔犬の口から出るとは思えない恐ろしい唸り声が上がる。
「痛い痛い! 離せ、畜生が!」
蛇介が何とか振り払おうと、足を大きく振るが、犬は懸命に歯を立てる。
虎丸は慌てて調理台に走りよると、用意してあった魚の煮つけをひと切れ摘まみ上げて、犬の眼先に投げた。
それを目にして、やっと犬は蛇介の足から口を離すと、魚の切れ端に食いついた。足を解放された蛇介は、均衡を失して尻餅をつく。食事に夢中になっている犬の背中を眺めて、虎丸は徐に言った。
「こいつ、めちゃくちゃ凶暴なんだ。良く噛みついてくる」
「いいことだ。犬はその方が良い」
そんな欠点も咎めるようではない虎丸の口調に、龍之進も鷹揚に頷く。
「良い訳あるか!」
蛇介の、腹の底からの怒声が、朝焼けの藤野屋に轟いた。
蛇介の足の噛み跡を手当てしながら、虎丸はむすっとして言う。
「餌をやるくらい、良いじゃねえか」
「だから何度も言ってんだろうが。犬に飯なんかやって何が返ってくるって言うんだ。さっきの魚だって、人間の客に食わせりゃ、金になった」
「あれは、蛇介から離すためにやったんだし、実際、あいつは放してくれたじゃねえか」
「お前が犬なんか連れ込まなきゃ、そもそも俺は噛まれなかったんだよ」
「お前が乱暴にするからだろ」
「そもそも、話が見えん。何がどうして、あの犬はなんだ?」
相変わらず険悪な二人の遣り取りを遮って、龍之進が口を挟む。彼が指示した先には、魚を平らげて満足そうに伏せている仔犬がいた。
蛇介が苦々しそうに虎丸を睨んだが、虎丸はふいっと顔を逸らした。蛇介は深くため息を吐くと、口を開いた。
「こいつが、隠れて餌付けしてたんだよ」
「……だって、前の雨の日に、勝手口で鳴いてたんだよ。痩せて、腹も空かせてたんだ」
「それでお前が腹を空かせてんなら、本末転倒だ」
「どういうことだ?」
「こいつ、自分の飯を犬にやってたんだよ。だから最近ずっと、ぐーぐー腹を鳴らしてやがったんだ」
「ふむ」
虎丸が唇を尖らせて、ぽつりと言う。
「別に、ちょっと食わなくたって死ぬ訳じゃねえよ。俺は頑丈だし、仔犬一匹分ぐらい、取り分が減ったってどうってことない」
「飯を食わんのは良くない。飢えるというのは、冷えることと同じくらい、恐ろしいことだ。飢えと寒さは、すぐに命の側まで忍び寄ってくる」
龍之進の台詞に、虎丸は悲しげな顔をした。
「でも、そしたら、こいつが死んじまうよ。お前の言う通り、腹が減るって、すごく怖くて惨めだろ。こいつが、そんな思いで死んで行ったら、嫌なんだ」
「野良犬だろう? 人から飯を貰わずとも、何とかなるんじゃないか?」
「人に、慣れてるみたいなんだ。毛皮も綺麗だし、たぶん、誰かに飼われてたんじゃないかな。それに、まだ子供だし、これから寒くなるのに、一人で生きていけるのか……」
「あの凶暴さなら問題ない気もするが、まあ、相手取ったのが蛇介だからな。野生でやっていける保障にはならんか」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だが」
龍之進の言葉尻に、蛇介が噛みつく。そして、悪びれる様子もない龍之進はそれまでに、蛇介は改めて虎丸に向き直る。
「とにかく、野良であろうがなかろうが、犬なんかに飯をやるつもりも必要もねえ。家に入れるのも認めねえ。だから馬鹿な真似は今すぐやめて、そいつを叩き出せ」
蛇介のばっさりとした指図に、虎丸は縋るように言った。
「そんな……せめて、ミケさんみてえに、飼ってくれる人を探す間……」
「いいや、駄目だ。ミケは化け猫なんだから、首輪を付けなきゃならねえのは仕方ねえ。けど、野良犬の面倒まで見てやる謂れはねえ。第一、あんな凶暴な犬に貰い手なんか付くか」
「でも、それじゃあ……」
「いいか。何度でも言うぞ。そんな犬は野垂れ死んでも構わねえから、お前がきちんと飯を食え。それと、店の近くで死なれたら商売あがったりだ。追っ払うか、山の中にでも繋いで来い」
矢継ぎ早に迫られて、虎丸はついに顔を伏せた。観念したかというように、蛇介はふんと息をついた。
しかし、次の瞬間、虎丸は言った。
「じゃあ、もう、お前らの飯は作らねえ」
「は?」
「もう既に迷惑だって言うなら、いっそ、もっと迷惑をかけてやる。二人して、あいつが死んでもいいって言うなら、俺だって考えがある。店の飯は、客に悪いから作るけど、お前らの朝飯も昼飯も夕飯もおやつも夜食も作らねえ」
「ふざけんな! それとこれとは話が別だし、卑怯だぞ!」
「うるさい。わがまま言ってるのは、最初から承知なんだよ。こうなったら手段は選ばねえ。あいつをここに置いてもいいって言うまで、絶対ぇ作らねえからな。自分で作るか、他所で食って来るんだな。その分、無駄手間やら出費やらは嵩むだろうけどよ」
虎丸は、喧嘩を売る様に蛇介を睨みつけた。開き直った彼に言うべき言葉が見つからず、蛇介は唇を噛んだ。その合間を縫って、二人の舌戦を見守っていた龍之進が抗議の声を上げる。
「俺は、あの犬が死ねばいいとは言っていないぞ」
「じゃあ、あいつは一人じゃ生きていけない。でも、飯は俺の分しかない。どうするべきだと思う?」
「それなら、あの犬が死ねばいいと思う」
「寸分違わず言いやがったな」
「しまった」
虎丸は立ち上がると、水瓶を抱え上げた。水を汲みに行くのだ。つまりそれで、いつもの朝の仕込みに戻るから、話はお終い、ということだ。蛇介は慌てて立ち上がって、制止をかける。
しかし、虎丸はつれなかった。勝手口で最後に一度振り向くと、ぴしゃりと言った。
「あいつを飼っていいって言うまで、飯は作ってやらねえから」
そう言うと、さっさと出て言った。
「……いつの間にか、駄々の内容が『ここに置く』から『ここで飼う』に格上げされているな。追いかけんのか? お前なら、訳もなく追いつけるだろ」
「追いかけたって、話になんねえよ」
龍之進の問いかけに、蛇介は苦々しく呻いた。
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