第三章 晩夏蛍と盆の犬騒動
きんけつ
茹だる夏の夜、閉店後の閉め切った大部屋で、蛇介は頭を抱えていた。
彼は目の前の愛用の算盤を、仇の様に睨め付けていた。それが表す不都合な玉の並びは、枠を掴んで軽く振れば無かったことになる。しかし、いくら盤面を振り戻そうが、そこに示された窮状それ自体まで無くなってくれる訳ではない。
数字というのは、信頼できる。言葉などよりも余程、明瞭であり誠実だ。揺らぐということを知らないその確かさに、蛇介はいつも信頼を託してきた。けれど今度ばかりは、その変わり難さが、変え難さが恨めしいものだ。
蛇介は、溜息を一つ吐き捨てると、帳面を捲り始めた。
その時、台所の奥から、からからと音が聞こえた。おそらくは勝手口が開閉された音だろう。そして、寝間着姿の虎丸が、のっそりと姿を見せた。彼は蛇介を見て、少し驚いたような顔をした。
「起きてたのか、蛇介」
「お前こそ。もう上がったもんかと思ってたよ」
蛇介も、てっきり彼は龍之進と揃って、とっくに二階で床についていると思っていたので、少なからず驚いた。しかし、もともと騒がしい質でもない虎丸が、一人で台所に引っ込んでいたとして、気づかなくても不思議はない。
「仕込みかなんか、してたのか?」
「……ああ、まあ、そんな感じだ。お前は?」
「ちょっと帳簿を見直していたんだ」
「こんな遅くまでか? 早く寝た方が良いぞ、明日に響く」
虎丸の言い分に、蛇介は思わず笑った。
「どの口が。お前も結構、宵っ張りの気があるよな」
「寝るのが嫌いなんだよ」
「ふうん、変わってんな。俺は起きる方が嫌いだよ」
「案外、寝汚いもんな、お前。寝起きの顔が、いつも凶悪だ」
「おう、金を稼ぐって楽しみがなけりゃ、一生寝てたいぜ」
そういうと蛇介は大きく欠伸をした。それを見て、虎丸も笑うと、明かりを吹き消した。
「あっ、何すんだよ。まだ、もうちょいやろうと思ってたのに」
「寝ろ」
端的に諭され、蛇介は渋々立ち上がった。しかし、油代の節約と考えれば。頭の中で今夜最後の損得勘定を終えると、蛇介は手探りで帳面を閉じる。目を凝らすと、階段のところで待っている虎丸の影が見えた。暗いが、月は明るい。計算道具一式を片付けると、彼に続いた。
静かに低く、時を告げる鐘の音が聞こえる。いったい何時の鐘だろうか。
階段をのぼりながら、ふと鐘の音に混じって、何かの鳴き声のようなものが聞こえた気がして、蛇介は振り向いた。そこには、階下の闇があるだけだった。
その日の昼飯はおはぎだった。餡子ときな粉とずんだが、それぞれ一人一つづつ。龍之進はさっそくずんだ餅に手を付けていた。
「重大な話がある」
そんな中で、蛇介はおもむろに口を開いた。
なんだなんだと、虎丸と龍之進が蛇介に注目する。そんな二人の鼻先に、蛇介は帳簿を突き付けた。
「藤野屋存続の危機だ。このままじゃ俺らは冬を越せねえ」
翌朝、明るいお天道様の日差しの下でも、やはり計算結果は変わらなかったのだ。
財布事情が芳しくない。まだ夏だというのに、藤野屋の懐には寒風が吹き抜けている。
蛇介は血を吐くような声色で言った。
「金が、ねえ」
「なんでだ……客入りはあるし、無駄遣いだってしてねえぞ」
虎丸の疑問に、蛇介は頷いた。
「そうだ、入りは悪くねえ。だが問題は、出費の方だ」
「出費?」
「まず、この建物だ。あの化け猫が店で暴れやがったせいで、あちこち大分がたが来てる。もともとが素人修理だってのに。ついに昨日、大部屋の漆喰がちょっと剝がれた。何とか取り繕ったが……階段も上り下りするたびに軋むし、風の強い日なんか、建物全体が家鳴りしてんぞ」
「ああ、確かに……。結構、怪しい雰囲気してるよな。少しでも力を加えたら、あっけなく壊れちまいそうな」
「そうだ。だから、秋が来る前に、どっかの本職にきちんと修理を依頼しようと思ってたんだ。そのために資金も積み立ててたんだ。が」
「秋? なんで秋だ? 冬の寒さを考えりゃ、そりゃ絶対に修繕は必要だけど、秋ならまだ風通しが良すぎても、多少は辛抱が効くんじゃねえか?」
「野分が来る」
蛇介は端的にそういった。それに対して、虎丸もはっとした顔をした。
秋には南から、野分、つまり暴風雨が昇ってくる。
普通に設えた家なら、十分耐えうる嵐だが、骨組みに継ぎを当てただけのような建物に、化け猫の大暴れを経た藤野屋では、相当に心もとない。家屋が吹っ飛べば、藤野屋は茶や食べ物を振舞う事すらできなくなる。三人は、稼ぎも家もいっぺんに失くすことになる。
「店が無くなったら終いだ。一から金を稼ぐのだって気が遠くなるし、藤野屋ほど安く買える家なんて、二度と巡り合えるかどうか……」
虎丸が俄かに青褪める。
さらに追い打ちをかける様に、蛇介は言った。
「付喪神どもが壊した食器やらの買い替え代で、積み立ててた金もだいぶ目減りしてた。加えて三毛の騒動だ。またも食器は壊れるし、食事も客の胃袋に入らなかった分売り上げも減った。しかも今回は、机や椅子もかなり壊れたから、食器の比じゃねえ修理代に買い替え代……ものの見事に貯金が吹っ飛んだ」
「い、今からでも、頑張って売り上げをあげれば……」
「どんなに頑張っても、茶屋じゃ一日の稼ぎは知れている。ゆっくり腰を落ち着けられるのが魅力の店だ、客の回りも遅い。つまり、このままの稼ぎじゃ、どう足掻いても秋までに必要な額は溜まらねえ」
「そんな……じゃあ、俺たちはこのまま、路頭に迷うしかないのか……」
虎丸ががっくりと肩を落とした。そんな二人を尻目に、龍之進が場違いに笑った。
「うむ、ずんだというのも悪くない。美味いぞ」
「お前、人の話聞いてたか?」
「良く分からんから、途中から聞いていない」
「ふざけんな」
「しかしまあ、蛇介。どんな状況であれ、お前が為す術もなくお手上げだとは思えん。何かしら、考えてはいるだろう?」
龍之進はおはぎを飲み下すと、蛇介に視線を戻した。底知れない目力のある彼は、見通したように言う。
蛇介は、大きく溜息をつくと、懐から紙を取り出した。
「実はな、近々祭りがあるらしいんだ」
蛇介が取り出したのは、一枚の引札だった。虎丸がそれを受け取り、目を通す。
「へえ、夏祭りか。あ、出店も募集してるのか。なるほど、屋台を出して、一儲けするんだな」
そこには、開催日時や主催の神社、集客文句の他に、祭りに花を添えるため、屋台の出店希望者を募る旨も記されていた。希望が見えたというように、虎丸の声が少し弾む。蛇介はそれに頷く。
「ああ。祭りの屋台なんて、特別価格でぼったくり放題だ。気分代ってことで、割り増しで売れる」
「おいこら、誠実さはどこに行った」
「別に粗悪品を売ろうって訳じゃない。そもそもいつもと違う場所で、勝手の違う店を出すんだから、当然色々手間もかかる。諸々含めて妥当な価格を設定するだけだ」
「お前と話していると、詐欺師と話してる気になる」
「気になるというか、事実だろうに」
不敵に笑う蛇介を見て、虎丸は米神を抑えた。龍之進が、餡子のおはぎに手を付けながら、揚げ足を取る。蛇介もそれに倣って、おはぎに口を付けた。
「間違っちゃいねえな。兎に角、そういう事で、祭りに屋台を出そうと思うんだが、今回の本筋はもう一つある」
「そうなのか?」
「裏面見てみろ」
促されて、虎丸は引札をひっくり返す。
「……肝試し参加者募集?」
「子供だましの催しものだと思うだろ? でも、優勝特典見てみろよ、金一封だぜ?」
「嘘だろ?」
確かに、蛇介の言った通りのことが書かれている。破格の金額に、虎丸は目を見張った。それを覗き込んで、龍之進も頷く。
「これは渡りに船だな」
「けど、ただの肝試しに金一封って、ちょっと怪しくねえか?」
「ああ、それは思った。美味い話はとりあえず疑わねとな。だから、宮司とか、祭りの主催者とかに、ここ数日聞き込みをしてみたんだけど」
「用心深過ぎるっていうか、用意周到過ぎるな。最初の緊張感は何だったんだよ」
「それは演出みたいなもんだ」
「本気で焦った俺の気持ちを返せ」
「貰ったもんは絶対返さねえ。まあ、調べたところ、肝試しとか悪ふざけみたいに見えて、一応伝統がある催しらしいんだ。神社の行事と一体化してるっていう感じで。だから、大々的にやるし、その分予算も弾むんだと。てなわけで、あんまり心配する必要は無さそうだ」
「なるほど。なら安心だ」
「どういう内容かはまだ分からねえが、どんな脅かしが仕込まれてたって、俺ら全員びびりゃしないだろ? お化けになんざ、本物が出た所で今更だし」
「それはあるな」
「うむ。なら、全員で参加して、三人のうちだれか一人でも、優勝すれば良いのだな。任せろ、競争相手どもを蹴散らしてやるぞ」
「そういう勝負じゃねえから。それから、一人でも優勝、じゃ駄目なんだ。確か参加要件が……」
蛇介が確認するように、引札を覗き込んだ。彼の意図を察して、虎丸が該当部分を読み上げる。
「えっと、年齢性別不問、所属不問、持ち物なし。心の臓や足腰の弱い方は参加を見送られたし……なお、肝試しは二人一組で行うため、必ず事前に二人組を作ったうえで申し込むこと。俺ら三人じゃ、一人余っちまうな」
「それなんだよなあ。まあ、一人は店番でいいのかもしれねえが、必ず優勝できるとも限らねえし、できれば二組で、優勝の可能性を上げたいところなんだが……」
「誰か、もう一人協力してくれるものを探すか?」
龍之進の提案に、蛇介は頭を捻る。
「けどそれだと、そいつを含めた組が優勝したら、分け前をやらなきゃならねえ。しかしまあ、半分でも貰える可能性を増やせるなら、それもありか」
「なら、早めに見つけねえとな。締め切りまでは、まだ日があるみてえだが」
虎丸が改めて引札を確認して言う。それに頷いて、蛇介は立ち上がった。
「そうだな、全員、知り合いで良さそうなのがいたら、声掛けといてくれ。俺も当たってみる」
「ああ」
龍之進も、蛇介に続いて立ち上がる。二人はいつの間にかすっかり空になった皿を流しに置くと、大部屋に戻ろうとした。
その時、大きな腹の虫の鳴き声が響いた。龍之進と蛇介の眼が、音源である虎丸に集中する。虎丸は気恥ずかしそうに目を伏せた。
「お前、それ食わねえの?」
蛇介が指さした先には、まだ丸々三つおはぎの乗った虎丸の皿がある。
「ああ、食うよ。話に集中しすぎて、忘れてた」
「そうか、とっとと食っちまえよ」
そう言い残して、二人は大部屋に戻る。その時、龍之進はぽつりと言った。
「最近、良くあいつの腹の虫を聞く気がする」
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