つるかめ

 風呂敷頭は、よろめきながら町中を進んでいく。人にぶつかったり、転びかけたりしながら、手探りで進んでいく。

 その後を三人は少し間隔を開けて付けていた。風呂敷頭の足取りは緩やかで、飛び掛かればすぐ捕まえられそうなのだが、何しろ街中だ。あの怪力に、こんなところで暴れられたら、手が付けられない。

 急いては事を仕損じる。風呂敷頭がどこか人気のない場所に行くまで、様子を見ようと判断したのだ。三人は物陰から物陰に移りながら、先を行く背中を追いかけた。

 三人の追っ手を気にも留めず、千鳥足で進むその様子に、ふと龍之進は怪訝そうに言った

「しかしなんだ、あいつ。まるで突然目暗になった様だな」

「確かに、本当にそんな感じだ。けど、いきなり失明するなんてあるのか? 別に俺らは奴の眼球なんか攻撃してねえのに……」

 虎丸がそれに頷く。先の取っ組み合いでも、虎丸は防戦一方だったし、龍之進は滑って転んでいた。そして蛇介は、お守りを一つぶん投げただけだ。

 そこでふと、蛇介は引っかかるものを感じた。あのお守りの、まるで『見ること』を否定するような名前。そう言えば、つい先日、亀蔵が言っていた的外れなこと。思えば妙に意味深だ。

 まあ、だから何だという話だ。蛇介はその思い付きをさっさと棄却した。

「でも、多少危なっかしいけど、見えてない訳でもないんじゃないか。ほら、なんだかんだ、建物の位置とかは分かっているみたいだし」

「それもそうか」

「いやでも、建物なんぞ動かんのだから、町を歩き慣れていれば、見えなくても避けられるだろう? 動いてるものだって、匂いや音で、ある程度位置は分かるだろうし」

 蛇介の指摘は、そう見当違いなものでもなかった筈だが、しかし、なぜか龍之進は食い下がった。

「なんだよ、やけに拘るな? 匂いや音って、そんな獣でもあるまいし。お前はそりゃ、それくらい簡単にやってのけそうだけど」

「そうだな、俺は鼻が効く方だ。だから、あの匂いが気になる。お前が投げたあのお守り、不見、とか書いていただろ。もしやあれが効いて、奴の眼は潰れたのではないか」

 龍之進の言葉に、蛇介はややぎょっとした。頭の中を覗かれたのかと思うほど、彼の発言は自分の思考に似通っていたからだ。

「……いやいや、神の御利益って言ったって、限度があるだろ。まあ、お守りに本当に神通力があるか無いかは信仰次第としても、人間の眼はあやふやな力で潰れるほど、弱くねえよ」

「だから、つまり奴は、そう言うあやふやな力で目が潰れるような、神通力がばっちり効くような、神と同じ土俵にいるような、そういう弱々しくて不確かな存在ではないのか。あんな匂いをさせてる奴なのだから」

「? どういう意味だよ、それ」

「……なあ、話の腰を折って悪いんだけど、あの匂いってなんだ?」

 一人会話に入り損ねた虎丸が、おずおずと尋ねた。

「ん? ああ、それは、あの客が来てまだ暴れだしてない時に、こいつがなんか『臭う』って言だして……そうだ! それでお前があの風呂敷に掴みかかったりしたから、あんな乱闘になったんじゃねえか!」

「俺のせいじゃないだろう。食い逃げなら、どうせ会計の時になれば暴れたはずだ。遅いか早いかだ。これは怒られる理由がないぞ」

「だからお前は、相談という言葉をまず覚えろ。いいか、突飛なことを思うままにされたら、こっちが困るんだ」

「相談なら、している時もあるだろう」

「してない時『も』あるのが問題なんだよ! あの時だって一声、あいつが怪しいとか言ってくれれば、もっと穏便に済む方法をだな!」

 いきり立つ蛇介を宥める様にしながら、虎丸が続きを促す。

「あの、それで、その匂いって?」

「獣臭かったんだ」

 龍之進は、端的にそう答えた。

「濡れた獣の匂いだ。お前も分かるだろう。犬とか猫のあれだ」

「……ああ、あんまり風呂に入ってない人なのかな。時々いるよな、本当に動物みたいな変な匂いをさせてる人……」

「違う。獣じみた匂いと、獣の匂いは違う」

「ん? えっと、だから、あの人は、獣みたいな匂いをしてるってことだろ?」

「違う。あの獣は、人間みたいな姿をしている、ということだ」

「んん?」

「おい、藤野屋の御方々だな。こんなところで何をしている」

 今一つ嚙み合わない会話に、三者三様に首を傾げていた時、背後からきんきんと響く声が飛んできた。振り向くとそこには、一対の片方が三人を覗き込んでいた。赤い蛇の目の番傘をさした鶴吉だ。

「こんな所でずぶ濡れで固まって、いったい何を……」

「鶴吉さん! ちょっと声潜めてください!」

 相変わらずよく通る声で苦言を呈し始めた彼を、慌てて蛇介は遮って、静かにする様に促した。

「あ……」

 先を行く風呂敷頭の様子を窺っていた虎丸が、小さく声を上げた。

「き、気づかれたか?」

 蛇介はそれに恐る恐る尋ねたが、虎丸と龍之進は揃って振り返って、首を振った。

「いや、大丈夫だ。一瞬立ち止まったが、すぐに歩き出したぞ」

「ちょっとヒヤッとしたな……」

「そうか、良かった」

「なんだ? 御前たち、誰かを追っているのか?」

 鶴吉も状況を察したのか、傘を閉じて三人に身を寄せると、声を潜めて聞き返す。

「ええ……ところで、鶴吉さんは何故こちらに?」

「市民から通報があったに決まっているだろう。藤野屋で食い逃げが暴動騒ぎだと聞いて、飛んで来たのだ。そうしたら、店は荒れているし、誰も居らんし、慌てて探し回っていたと言う訳だ」

「なるほど……亀蔵さんはご一緒ではないので?」

「店までは一緒だった。そこから手分けして、御前たちを探していた」

「ああ、それはお手数を……」

「それで、何をしているんだ?」

「えっと……」

 蛇介は一瞬言い淀む。ここで馬鹿正直に答えた時の、返ってくる言葉がおおむね想像できたからだ。しかし、蛇介の深謀遠慮を丸ごと無視して、龍之進がさっさと返答してしまう。

「あの風呂敷で頭を包んだ奴を追っている。あれが件の食い逃げだ」

「なに? おい、何を勝手している、危険だろう。そう言うものは警察に任せておけ。一般市民は大人しくしていればいい」

 蛇介は内心大きくため息を吐いた。なんとなく印象的に、鶴吉は使命感も鼻っ柱も高そうだと思っていた。自分の職分に門外漢が入ってくることを、こういう風に嫌がるだろうことは、予想通りだった。

 しかしこちらとしても、このまま丸投げして、鶴吉があっさりやられて、食い逃げ事件未解決、では困るのだ。どう言い包めたものだろう。そんな蛇介の思考を、とにかく片っ端から無に帰していくのが龍之進だ。

「あれは、お前らに解決できるものではないな。大人しくしているべきは、お前の方だ」

「貴様それはどういう意味だ!」

「だから、弱者は引っ込んでいろと……もごっ」

「ちょっと黙れ、この馬鹿!」

「すみません鶴吉さん! 本当にすみません!」

 蛇介と虎丸は、慌てて龍之進の口を塞ぎながら、鶴吉に対して平謝りに謝った。二人の下手に出るだけ出きった態度が効を奏したのか、鶴吉は額に青筋を立てながらも、何とか気を静めてくれた。

「……随分な兄御をお持ちだな。まあ、とにかく御前たちは、帰るといい」

「いや、俺らは帰らん」

 またも不遜な態度をとる龍之進に、瞬く間に鶴吉の眉間の皴が深くなる。それを取り繕うように、蛇介は立て板に水で捲し立てる。

「お前はもう、本当に口を開くな! あの、私どもも事の顛末が気になりますし、一緒に行ってもよろしいですか? 兄はこの通り、どうしようもない無作法者ですが、力だけは強いのです。ご存じの通り、あの食い逃げはとてつもない怪力です。こんな馬鹿でも、必ずやお役に立ちましょう。一市民として、私たちも街の平和に貢献したいものでございます! ですから、何卒!」

「いや、しかしだな……」

 それでも渋る鶴吉に、重ねて虎丸が言う。

「それから、あの食い逃げは、亀蔵さんの忘れていったお守りを、持ってちまってるんです。いえ、それは奴が盗んでったて言うより、俺らの責任なので、取り返さねえと申し訳ないですし……」

「ああ、奴め、そちらに忘れていたのか。まったくあの間抜けめ、肌身から離すなと、よく言い含めておいたのに……。だが、それも私が取り返せばいい話だ」

 虎丸は蛇介の申し出に助け舟を出したいようだが、いまひとつ押しに欠けている。

「えっと……他にも、あのお守りに触ってから、食い逃げの様子がなんだか変で。それも気になるんです」

 何とかしどろもどろに言葉を続けるも、鶴吉に一言、だから何だと言われてしまえば、食い下がれないものがある。

「あのお守りに……? ふむ……金色、か……」

 しかし、そんな台詞のどこかに、鶴吉に響くものがあったらしい。鶴吉は考え込むように口を閉ざし、それから、虎丸を見定めるようにじっと眺めた。虎丸は、その視線に居心地が悪そうに身じろいだ。ややあって、鶴吉はおもむろに言った。

「それは、少し気になるな」

「気になるのは、あの臭いもだ」

「おい、龍之進……」

「臭い?」

「獣の臭いがする。あいつは、見た目通りの本性ではないぞ」

「なに?」

 鶴吉は龍之進を真っ向から見据えた。龍之進も、その視線を真正面から見返す。すわ、また喧嘩かと、蛇介と虎丸は身構えたが、鶴吉はしばらくしてあっさり彼から視線を逸らすと、彼らに尋ねた。

「分かった。食い逃げ追跡に、ご同行を願えるか」

 二人はもちろん頷いた。

「ところで、奴は、もうだいぶ先に行ってしまったが?」

「おい、言えよ!」

「黙っていろと言われたからな」

「余計なことは言うくせに、なんなんだよ、お前……」

「まあ、まだ見失ってないし、追おうぜ」

「と言うか、なぜ追っているのだ? 今ここで捕まえてしまえば良いのではないか?」

「いえ、それは奴の怪力が凄まじいので……」

 蛇介が事情を説明している中、ふと周りを見回して、虎丸は呟いた。食い逃げは大通りからふらふらと、脇道に逸れていく。

「あれ、この辺、権太さんの家の近くじゃねえか」

 それに龍之進が、同じように周りの景色を確認して、頷いた。

「ん? ああ、そうだな。奴の店は、丁度……路地一本向こうか?」

「な。まさか、食い逃げの根城って、この近くなのかな」

「だとすれば権太は滑稽だな。近くの敵に気づかず、探し回っていたとは」

「滑稽って……酷いこと言うなよ。灯台下暗しって言うし、仕方ねえよ。権太さんは、ただただ災難なだけだろ」

「蛇介もそうだが、お前らはなんだか、権太に肩入れしているな? どうせ贔屓するなら、俺をしろ」

「いや、特に贔屓はしてねえよ。お前が厳し過ぎるから、庇いたくなるっていうか……」

「厳しい? 俺が? そうか?」

「厳しいというか、お前はなんか、少し冷たい」

「体温は高い方だが」

「そういうことじゃない」

 そんなことを話していると、風呂敷頭がさらに細い路地へと曲がっていくのが見えた。四人は、その細道の入口に素早く近づいた。

「人が少なくなってきましたし、そろそろ捕り物ですかね」

 蛇介が龍之進と鶴吉に、意見を仰ぐように尋ねた。

「そうだな」

「任せろ」

 二人は力強く頷き、虎丸も賛同するように小さく頷いた。

「よし、なら、この角を曲がって、犯人の姿を確認したら……」

 鶴吉が指揮を取ろうとしたその時、細道の奥から、野太い声とのんびりとした声の会話が聞こえてきた。

「……って訳なんですよ」

「左様でございますか、それは恐ろしゅうございますね」

「ええ、全く気持ちの悪いもんです」

 どちらも聞き覚えのある声だ。鶴吉が分かりやすくぎょっとして目を見開く。

「亀蔵に……網代権太か? は? 何故あいつらがここに……?」

 慌てて四人は建物の陰から、路地を覗き込んだ。建物の壁に手を付きながら進んでいく風呂敷頭の向こうに、気さくに話しながら、こちらに向かって歩いてくる亀蔵と権太の姿が見えた。

「おい、どうすんだ、あれ。正面から出くわすぞ」

「いや、でも、食い逃げも誰彼構わず襲い掛かってる訳じゃねえし、このまま二人があいつを素通りして、こっちと合流してくれれば……」

「いや、権太さんは、もう二回も食い逃げに遭ってるんだぞ! 気づくかもしれねえし、そしたら絶対、知らないふりなんかできないぞ、あの人!」

「しかも、うちの弟は底抜けに阿呆なのだ! あんなふらついているのが居たら、絶対に心配して声を掛けるぞ!」

「それは美徳だけど!」

 四人が空しく慌てている内に、とうとう亀蔵たちと風呂敷頭は接触した。

「不気味な鳴き声ですか。一度見回りでもしてみましょうかしら……おや?」

「亀さん、どうかしましたか?」

「いえ、あの方、なんだか様子がおかしゅうございます。具合でも悪いのかしら」

「はあ。こんな所で行き倒れられたら、寝覚めが悪いですからね。声かけてみましょうか」

「ええ、そのように。もし、大丈夫ですか?」

 二人は風呂敷頭に近づき、傘を差し向け、話しかける。流石に双子の兄弟というのか、兄の予想と寸分違わぬ行動に出る亀蔵に、鶴吉は頭を抱え、藤野屋の三人は驚き半分諦め半分、少し呆れた気持ちになった。

「こんなびしょ濡れで、夏とはいえ冷えますでしょうに……」

「ここから近いし、帰るのが大変なら、うちに……ん? なんかこの格好、この背丈……なあ、あんた、どこかで俺と……」

「まずい、権太が気付くぞ! もう、一か八かだ!」

 権太が、風呂敷頭の肩に手をかける。龍之進と鶴吉がその三人に向かって飛び出した。二人に気づいたのか、亀蔵が目を見開いた。

 獣の吠える声が聞こえた。

「……っ痛ってええ!」

 次に権太が、悲鳴を上げた。その腕には、風呂敷頭が嚙みついていた。

 剝き出しになった歯茎には、人間のものとは思えない歯が並んでいる。犬歯が鋭いとか、欠けて尖っているとか、そういう程度の話ではない。権太の骨太な腕の、肌に食い込み、肉を貫くそれは、鋭く尖った牙だった。

 噛みつかれた権太の袖に、じわじわと赤黒い嫌な色が広がっていく。

「権太さん!」

「畜生! 離せ! この……っ」

 権太が風呂敷頭を押し退けようとするが、噛みつく顎の力が凄まじいらしく、全く振り解けないでいた。

「何をなさるのです! 権太さんをお離しなさい!」

「やめろ馬鹿! そいつに触るな!」

 亀蔵が風呂敷頭の腕を掴む。鶴吉の声が辺りに響き渡った。

 風呂敷頭は、権太の腕から口を離すと、血塗れの牙を亀蔵に向け、彼に向かって飛び掛かった。

「亀蔵さん!」

 亀甲文様の番傘が、持ち主の手を離れ、くるりと放物線を描く。

 その時、藤野屋の三人と権太は、驚愕と混乱に瞠目した。

 風呂敷頭の動きは、本当に俊敏だった。対して亀蔵の動きは緩慢で、襲い来る脅威に、何拍も遅れを取っているように見えた。

 それなのに、次の瞬間には、風呂敷頭はひっくり返っていて、亀蔵は悠然と立っていたのだ。虎丸も蛇介も権太も、ただあんぐりと口を開けて、その光景を眺めていた。

 鶴吉が呆れたような、ほっとしたような深いため息を吐くのが聞こえた。

龍之進だけは、何やらことを把握しているようで、訳知り顔で頷いていた。

「ほう、見事な投げ技だな。あんな質で、意外に武闘派か」

 落ち着きを取り戻した鶴吉は、龍之進の感嘆に冷静に、けれどどことなく得意げに答えた。

「当たり前だ、それくらいは仕込んでいる」

「な、何があったんだ? 今……」

 蛇介が龍之進に尋ねる。

「ん? ああ、だから、今あの警官があの食い逃げを、背負い投げでぶん投げたのだ。これでは俺の出番がない。奴め、動きは鈍いが無駄がない。綺麗な軌跡だった。なかなか感心したぞ。あれは正面からはやり辛そうだ」

「なんで戦う想定してんだよ」

「柔の術か、かっこいいな」

 虎丸は少しだけ憧れるような口調でそう言った。

「亀蔵、そいつは?」

 鶴吉に問いかけられて、亀蔵は振り返る。彼は、相変わらずゆったりとした口調で兄に答えた。

「えっと、どうやら伸びてしまったようでございます、兄様。ところで、どうして此方に居らっしゃるのですか? ああ、藤野屋の皆様が見つかったのですね? この方はどなたなのですか? 何故私共を襲って来られたのでしょう?」

「多い多い、質問が多い。畳みかけるな、一つずつにしろ」

「藤野屋の皆様、見つかったのですねえ。ご無事で何よりでございます」

「あ、はい。どうもご心配をおかけして……」

「お前、本当にもう少し頭を回してから会話をしろ。最初の質問がそれでいいのか? 質問でもないし」

「ああ、そうだ、権太さん、腕のお加減は?」

「大丈夫です。そこまで深くないです」

 取り留めもなく話していく弟に、鶴吉はまたも深くため息を吐いた。

「権太さん、一応、傷の手当てしましょう」

「ああ、虎丸、悪いな」

「あ、私、手拭いを持っていますよ。良ければお使いください」

「亀蔵、権太殿は藤野屋の御方々に任せろ。我々は、とにかくこいつの身柄を確保するぞ。それと、こいつがお前のお守りを持っているらしい。ちゃんと取り返しておけ」

「え? どうして、この方が?」

「こいつがあの食い逃げだ。藤野屋を襲ったときのどさくさで、何かあったのだろう。ああ、あった」

 鶴吉は倒れている風呂敷頭の、袖もとに引っ掛かったお守りを取り上げ、亀蔵に手渡した。

「もう無くすなよ」

「ええ」

「それから、少し気になるのだが、こいつ、そのお守りを……」

 鶴吉はそこで一旦会話を切って、権太の手当てに勤しんでいる藤野屋の面子を気にするように見遣り、人差し指の先で手招きをするような仕草をした。亀蔵がそれに頷いて、何やら耳を寄せる。そこから先の会話は、耳打ちで行われた。

 目の端でその様子を捉えた蛇介は、会話の内容が気になって耳を澄ませた。話の断片が僅かに聞こえてくる。

「……なのだが、どう見える」

「それは何とも……今見た限りでは」

「可能性はあるのか?」

「顔……いえ、目を見てみれば、あるいは」

 亀蔵との内緒話が終わったのか、鶴吉は藤野屋の三人と権太を振り返って言った。

「ここからは、私たちが始末を付けておく。権太殿の手当ても、こんな雨の中ではままなるまい。御前たちは、先に帰ってくれて構わないぞ」

 その態度は脈絡がなく、些か不自然なところもあって、四人は顔を見合わせた。

「まあ、亀蔵さんも強いみたいだし、これは任せておいても平気じゃないか?」

「ああ、龍之進の怪力が無くても、大丈夫そうだ」

 蛇介と虎丸は互いに頷き合った。いきなり帰れと言われて、爪弾きにされた様な気分もあったが、亀蔵の実力を見てしまえば、龍之進の怪力で食い逃げを捕まえる必要はなくなった。

 立ち去れというなら、あえて残ろうとする理由もない。

 第一、四人ともずぶ濡れで、むしろもう暫くここで待って居ろ、と言われるほうが嫌なくらいだ。

「龍之進も権太さんも、それでいいだろ?」

 蛇介が尋ねると、何かと食い逃げと因縁があった権太だが、すっかり吹っ切れたのか、あっけらかんと笑った。

「おう、全然良いよ。傷が膿んでも良くねえしな、早く帰ってちゃんと手当てをしねえと。けど帰る前に、散々騒がせてくれた食い逃げの面を、一目拝んで行きたいもんだぜ」

「そうだな、俺も見ておきたい」

 ここで意外にも、龍之進が権太の軽口に同意した。彼は何か難しい顔をしている。龍之進がそんなところに興味を持つなんて珍しい。しかしまあ、散々苦労した身とすれば、敵の顔を知っておきたいと思う彼らの言い分も、尤もと思えなくもない。だと言うのに、さらに重ねて意外が続く。

「それは駄目だ」

 鶴吉が、断固とした強い口調で、それを却下したのだ。彼のよく通る声は、少し語調を強めただけで、威圧的な感を持つ。四人はしんと静まり返った。ざあざあと雨の音だけが沈黙を埋めていく。

「見られると困るのか」

 暫くの後に、龍之進が詰問するように言った。

「市民の預かるところではない」

 対して、鶴吉の返事はにべも無い。

 二人の眼力が俄かに熱を帯びる。湿気った雨の中で、火花を飛ばすような睨み合いが演じられる。

 鶴吉の背後では、亀蔵が狼狽えながら、兄と藤野屋の店主を見比べていた。龍之進の背後では、虎丸と蛇介と権太が、同じような態度を取っている。

 特に虎丸と蛇介は、何かと粗暴な龍之進が突然鶴吉に対して暴挙に出るのではないかと、ひやひやはらはらした気持ちで、会話の行く末を見守っていた。

 しかしそんな中で、一人動き出すものが現れた。

「亀さん! 後ろ!」

 権太が沈黙を破って大声を上げる。亀蔵の後ろで、風呂敷頭がむっくりと起き上がったのだ。風呂敷頭は、そのまま逃げ出そうとした。今度はしっかりとした足取りで、一目散に駆け出した。

「待て貴様! 往生際が悪いぞ! 神妙にお縄を頂戴しろ!」

 鶴吉がとっさに駆け出す。すぐさま蛇介がそれに続いて走り出し、亀蔵と虎丸も一拍遅れて、その次に権太が、それぞれその後を追った。

 出だしこそは早かったが、その全員に追い越された亀蔵と龍之進は、殿をのろのろと走ることになった。二人きりになったところで、亀蔵が申し訳なさそうに口を開いた。

「あの、兄が申し訳ありません。けれど、こちらにも已むに已まれぬ事情があるのでございます」

 龍之進は、亀蔵を見た。暫くじろじろと観察するように警官の片割れを眺めてから、彼は答えた。

「俺は、あの食い逃げが貴様らには捕まえられないと思っている」

「……私共では及ばない、ということでございますか?」

「ああ」

 龍之進の端的な返答に、亀蔵はどこか悲しそうな顔をした。

「思いあがる訳ではございませんが、私も兄様に鍛えられております。それに、身内贔屓に聞こえるやもしれませんが、兄様も大変お強い御方ございます。何卒一つ、ご安心を預けて頂く訳には参りませんか?」

「違う、実力を信頼していない訳ではない。いや、してなかったが、それはさっき多少改めた」

「ならば何故……」

「俺たちはこの街に来て、一つ不思議な経験をした。あれと同じ様なものを知っている。なればこそ、あれに対することが出来るだろうと思っている。そして、お前たちにはできないだろうとも」

 亀蔵は、そんなことを言った龍之進の横顔をじっと見つめ、そして、恐る恐る窺うように、口を開いた。


「おい貴様ら、何故付いて来た」

 一方先頭では、追いついてきた蛇介を見て、鶴吉は顔を顰めていた。

「いえ、何故と問われましても、こればっかりはその場の勢いとしか……」

「今からでも引き返せ。さっさと去れ!」

「そりゃ無いでしょう。いきなり手のひら返しじゃないですか。どうかしたんですか? ここまで付いてくるのは許して下さったのに」

 流石にむかっ腹を覚えつつも、きわめて丁寧に蛇介は尋ねた。

 亀蔵に柔術を仕込んだのは、鶴吉だと言っていた。なら、鶴吉自身の実力も推して測れようものだ。だとすれば、捕り物の助っ人としての藤野屋を、そこまで必要としたとも思えない。

 矛盾を突かれて、鶴吉はさらに苦虫を嚙み潰したような顔になった。

 そして、一つ唸った後、ちらりと後ろを見遣った。かなり離れて、権太と虎丸が付いてくるのが見えた。

「……網代権太が居なければな」

「? 権太さんが何か問題なんですか?」

「……御前の兄御は、なんだか勘付いているようだったし、それに弟御は……いや、まあ、それは良いが、なら連れてきても良いだろうと思ったのだ。もしも相手がその類なら、事情に通じた加勢はあって困らない。だが、信仰が分からない以上は、網代権太は巻き込み難い」

「その類? 信仰?」

「……? なんだ、あんな兄弟がいるくせに、貴様は違うのか?」

「いえ、あの、お話が見えないのですが……どういう意味ですか?」

 察しが悪いとでも言いたげに、苛々した調子で鶴吉は言葉を繋げる。


 時を同じくして、場所を異にして、同じ顔をした双子は言った。

「あなたは、妖怪の類を知っていらっしゃるのですか?」

「だから、妖怪の類を信じていないのか、という意味だ」

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