しょうたい

「……分かりました。そういう話になるなら、ちょっと先に行って待っててください」

 蛇介は鶴吉にそう伝えると、踵を返して、後ろに続く権太と虎丸に駆け寄った。自分たちに向かってくる彼を見て、権太と虎丸は立ち止った。

「どうした? 蛇介」

「鶴吉さんとちょっと話したんですけど、権太さん、さっき怪我は大したことは無いと仰っていましたけど、まだ血が止まってないですよね?」

「ん? ああ、確かにな」

「他人の唾液ってのはあんまり綺麗じゃありませんし、雨だって傷口に入っていいものとは思えません。早くきちんと処置した方が良いと思うんです。あいつは俺らが追います。今回は鶴吉さんも居るし、直に龍之進や亀蔵さんも追いつくだろうから、やられちまう心配もないでしょう?  きっと捕まえますから」

「……まあ、それもそうだな」

 権太も、今度ばかりは頭に血が上ってもいないらしく、なんとなく流れで付いて来たという感じだ。蛇介の説得にあっさりと頷く。

「けど、鶴さんはなんか、俺らが付いてくるの、嫌がってたみたいだけど大丈夫か?」

「ええ、よく聞いてみれば、怪我をしたまま権太さんがついてくることに反対していたらしいです。不器用なんですね、心配しているようです」

 よくよく振り返れば、鶴吉の態度にそんな解釈をする余地は無いのだが、人間、自分に都合のいい誤解は、勝手に辻褄を合わせて受け入れてくれるところがある。権太は照れ臭そうに言う。

「そうか、確かに鶴さん、そういう所あるよな」

「ええ、そう言う訳で、権太さんが無理をしないでくれるなら、私たちの同行は許すと言ってくれました」

「うん、そうか。そう言われちゃあ、大人しく帰る他ねえよな」

「良ければ、虎丸を一緒につけますよ。家まで送らせますし、手当もさせます」

「俺はおまけか何かか。まあ、それはいいけど。でも、お前を野放しにすんのは嫌だな、また無茶なことでも仕出かしそうだ」

「なんで俺が問題児扱いされてるんだよ。それは龍之進の役回りだろ?」

「龍之進は無茶苦茶だけど、怪我をしてくるとかそういう点なら、そこまで心配は無さそうなんだよ。そういう意味では、俺はなんか、蛇介の方が気掛かりだ。弱いのに無茶をする」

「はあ? 俺ほど我が身を可愛がってる奴は居ねえよ。龍之進より心配されるなんて、心外だ。引き際は心得てるさ」

「でもこの前、食い逃げにぶっ飛ばされて帰って来たじゃねえか」

「そ、それはちょっと、勢い余ったっていうか……」

「そこで勢いが余るような奴は、心配だって言うんだよ」

「ぐう」

「音を上げんな、ぐうの音を」

 虎丸に滔々と窘められる蛇介を見て、権太は笑った。

「なんか、前も思ったけど、そうしてると、お前らってむしろ虎丸の方が兄貴っぽいよな」

 それに思わず二人は動きを止めたが、権太は気にしなかったようだ。

「まあ、そこまで面倒は掛けねえよ。子供でもあるめえし、帰るくらい一人でできる。家に着いたら親も居るし、片手が使えなくても手当はできるよ。だから安心して虎丸は連れてってくれ。虎丸も、安心して蛇介を見張っとけ」

 そう言うと権太は去っていった。虎丸と蛇介は顔を見合わせてから、先を行く鶴吉を追いかけて走り出した。蛇介が苦々しげに言う。

「配役、とちったかな」

「兄弟の順番か? かもな。俺、上の兄弟居なかったから、『弟』が上手くできていねえのかも……。そういや、なんでこの順番なんだ?」

「ん? ああ、まずもって龍之進は横柄で尊大だから、弟にしとくのは変に思われるだろうと思って。あと俺とお前の順番は、実際俺が二番目だから、ついそれに引っ張られて……。つうかお前、兄弟居るのか?」

「妹がいた。母ちゃんの再婚相手の子だから、血は繋がってねえけど」

「なるほど」

「蛇介は? 二番目ってことは、上にも下にも兄弟がいたのか?」

「いや、上だけだ。そういう意味じゃあ末っ子だし、俺も『兄貴』が上手くできてねえんだろうな。ますますこれは、失敗した」

「まあ、仕方ねえよ。別に弟っぽい兄もいるだろうし、逆もあるだろ。今更どうしようもねえし」

「龍之進はどうなんだろうな?」

「さあ……聞いたことないけど、強いて言えば一人っ子っぽい? いや、あいつはなんか、想像つかねえな」

 些か緊張感に欠ける会話をしながら、二人は先を急いだ。結局、鶴吉は路地の奥に立っていた。一応、蛇介を待っていたらしい。

「藤野蛇介」

「鶴吉さん、すみません、お待たせしました。権太さんには、上手いこと帰ってもらいました。これで問題は無いですね?」

「……そうか、多少鎌をかけた所もあったのだが、ここらではっきりさせた方が良いだろう。そういう返事が出るということは、御前らは分かっているものと思っていいのだな?」

「ええ」

「え、何? どういうことだ? 権太さんを帰したのは、怪我をしていたからじゃないのか?」

 蛇介と鶴吉の意味深長な会話に、虎丸は困惑したように尋ねた。蛇介はそれに頷いた。

「ああ、それも嘘じゃない。でも、どうやら、それだけじゃないらしい。お前だって、忘れちゃないだろ。あの付喪神どもを」

「蛇介!」

 虎丸は、蛇介が当たり前のような調子で言ったのに、目を見張る。鶴吉の前で、そんな声を大にして良いのかと思ったのだろう。彼は慌てて警官の顔を窺う。しかし鶴吉は、至って真面目な顔をしていた。

「つまり、そういうことらしい。鶴吉さん、あなたも知っているんですね。妖怪変化の類を」

「ああ」

「そしてあれは、あの食い逃げは、そういう何かだと仰りたいんですね?」

 二人の話を静かに聞いていた虎丸は、そこで何かに思い至ったように、小さく声を上げた。

「そうか、龍之進は気付いていたんだな。だから、あんな訳の分かんないことを……。分からなかったの、申し訳ねえな」

「まあ、仕方ねえさ。俺もそうだったが、そもそも意味が分からないものを、整然と説明はできねえよ。俺も、鶴吉さんが妖怪とか言い出すまで、全くぴんと来なかった」

「獣臭いって言っていたな、龍之進は」

「ああ。ところで、鶴吉さんはなぜ気づいたのですか?」

「あのお守りは、強い効果があるのだ。あるものに対して特にな。それに反応した、という話を聞いたところでだ。まあ、とは言えまだ確信は無い。それを確かめるのは、亀蔵にやらせるつもりだったのだが」

 鶴吉が弟の名前を出したところで、見計らったような間の良さで、当人がひょっこり顔を見せた。龍之進も一緒だ。

「兄様。それから蛇介さんに虎丸さん」

「亀蔵」

「申し訳ありません、お待たせしましたかしら」

「全くだ、鈍間め」

「いえ、全然大丈夫ですよ、丁度話し合っていたところですし」

 厳しい鶴吉の叱責に一緒くたにされないよう、蛇介は自分たちはそんなことを思ってないぞ、と主張を込めて言った。険悪と言う訳でもないのだろうが、兄弟仲に巻き込まれたくはない。そんな蛇介の台詞に、龍之進が鷹揚に頷く。

「そうだ、気にしなくていいぞ。ちょっと待たせるくらい」

「別に責める気は無いけど、お前はちょっと悪びれろよ」

「ああ、そうだ蛇介、虎丸。どうやらこの亀、何やら妖怪のことを知っているらしいぞ」

「ちょっ、人様を亀とか言うな」

「なんだったか……亀吉だったか?」

「亀蔵でございます」

「私が鶴吉だ」

「ややこしいな、もう亀でいいじゃないか」

「良くねえよ」

「それで、奴はどこに行った」

「ああ、左様ですね。兄様、あの方はどちらへ?」

 龍之進は小言もどこ吹く風といった感じで、さっさと話しを変えてしまった。亀蔵に対する態度には、鶴吉は物を言いたげだったが、幸い本人が全く気にしていないらしく、そのまま水に流れた。

「……ああ、あの長屋に逃げ込んだ」

 路地の行き着く先には、民家や長屋が密集している。まだ家を空けている者も多いのか、辺りは静かだった。

「あの長屋って言うのは、どれですか?」

「あそこだ、あの古い長屋の、あの角の部屋だ。見ろ、戸が開け放してあるだろう。遠くではっきり形までは分からんが、あの戸の隙間から着物の色がちらちら見えるから、奴はまだあの中にいるはずだ」

 鶴吉が指さした先を見て、虎丸と亀蔵が揃って首を傾げた。

「あれ?」

「おや?」

 虎丸は、龍之進と蛇介を振り返って尋ねた。

「なあ、あれ、あの時の長屋じゃねえか?」

 それに鶴吉が食いつく。

「あの時の、とはなんだ? 亀蔵、お前も何か心当たりがあるのか?」

「それは……」

 虎丸と亀蔵の言葉が重なる。二人は慌てて目を見合わせて、互いに先を譲り合うような仕草をする。そんな二人に、あまり気の長そうでない鶴吉が先を急かす。

「ええい、藤野虎丸、御前から話せ。亀蔵は次だ、良いな」

「あ、はい。えっと、俺ら三人で権太さんの家に遊びに行ったとき、帰り道で変な声がして……出本を探したら、確かあの長屋の、あの部屋だったような……だよな?」

 虎丸は確認を取る様に、蛇介たちを見遣った。二人は、そこで思い出したような顔をして、頷いた。それを確認してから、次に鶴吉は弟に、お前の番だというように目配せをした。亀蔵は心得た風に口を開く。

「ええ、私もつい先程権太さんに、この前誰もいないはずのあの部屋から、不気味な赤子の泣き声がしたのだと、相談を受けました。その時、藤野屋の皆様も一緒だったということで、これはきっと同じことでございますよね」

「なるほど……」

 鶴吉は二人の話に神妙に頷いた。そして、そこでふと思い至ったように弟を振り返る。

「そういえば何故貴様、藤野屋の面々の捜索中に、網代権太から相談を受けていたんだ?」

「え? ああ、それは権太さんが藤野屋の皆様と仲がよろしいそうですから、行方をご存じかもと思い、伺いに参じて、後はそのまま話の流れで……」

「貴様、この緊急事態になんと悠長な!」

 鶴吉が声を荒げるのに、亀蔵は委縮したように首を竦めた。丁度怯えた亀が、首を引っ込めるような仕草だった。

「まあまあ、鶴吉さん、結果こうして情報が裏打ちされた訳ですし、良いじゃありませんか。あんまり大きい声を出すと、向こうに聞こえるかもしれませんよ」

 蛇介は彼らを宥めると、改めて長屋に視線をやった。

「権太さんからは、あの部屋にはお爺さんが一人住んでいて、ちょっと前に寿命で亡くなったのだと聞きました」

「ふむ……奇妙な泣き声やあの食い逃げは、その老人と関係があるのだろうか」

 鶴吉が神妙に頷く。

「お爺さんの幽霊が未練を感じて、この世に残っていらっしゃるのかしら」

 亀蔵がしんみりと言うのに、むっとした顔で龍之進は言った。

「死人が飯を食うものか。食うというのは、生きるためにするものだ」

「それもそうですね。やっぱり、幽霊とは関係のない妖怪かしら」

 龍之進の意見に、亀蔵はあっさり同意する。

 それに虎丸は首を傾げた。

「亀蔵さんも幽霊は信じていないんですか? 妖怪は信じてるのに?」

「信じていないと申しますか、未だお会いしたことがないので、何とも意見を持てないと申しますか。けれども、もしもいらっしゃるのなら、お会いしてみたいものでございますね」

「幽霊にですか?」

「ええ、お会いできるなら、きっと楽しゅうございますよね。ああ、けれども、幽霊の方からしたら、現世に留まるのは良くないことなのかしら」

「あれ? でも、その口ぶりからすると、妖怪とは会ったことがあるんですか」

「ええ。……ああ、でも、妖怪かどうかは、一目では分からないこともありますし。現に今も……でも、だとしたら、もしかしたら気付いていないだけで、幽霊とも、あるいは擦れ違ったことなど、あるのかもしれませんね」

 虎丸と亀蔵の会話を、それぞれ蛇介と鶴吉が遮る。

「虎、その話はそれくらいにしとけ」

「亀蔵、無駄話はそこまでだ。とにかく、老人の死も泣き声も気になるが、今はあの食い逃げの確保だ。行くぞ」

 鶴吉の指揮に、それぞれがそれぞれの態度で応じた。

 まず、何かと身のこなしが素早い蛇介が、長屋の入口の側に走り寄る。そして、辺りに人がいないのを見定めて、路地に残る四人を手招いた。四人は抜き足で彼の隣に集うようにして集まった。それから、一番戸口の近くにいた蛇介と鶴吉が、戸口の隙間からそっと中を覗き込んだ。

 部屋の中には、例の食い逃げが板間の床に突っ伏すようにして、ごそごそと何やら不審な動きをしていた。近くの床に無造作に放られているのは、食い逃げが覆面にしていた風呂敷だ。つまり食い逃げは今、素顔を晒しているのだろうが、戸口には背を向けている上、姿勢のせいで二人にはその背中の一部しか見えなかった。

「なんだか臭いな……」

 ふと、虎丸が潜めた声で呟いた。それが聞こえたのは、丁度隣にいた蛇介にだけだったが、まず彼は龍之進が言った獣の匂いかと思った。しかし辺りの匂いを嗅いで、彼が言及したのは別のものだとすぐに分かった。

 雨の匂いで薄れているが、鼻の神経を研ぎ澄ませば、確かにきつい鉄の香りがする。

 蛇介は視線をふと下に移した。入り口近くの土間に、何かが落ちている。無造作に畳まれた布のような形で、ところどころ細く尖ったものが飛び出している。目を凝らせばそれは、大きな鼠や小鳥の死骸の山だった。無残に開かれた腹や胸から、赤黒く変色して固まった血が、生々しく零れている。

 蛇介は、思わず呻いた。それは息を呑む程度の小さな響きだったが、食い逃げは耳聡く、その声を聞き取ってしまったらしい。

 ばっと、食い逃げは振り向いた。

「ひいっ……」

 その瞬間、蛇介は尻餅をつくことになった。彼と同じく戸口を覗き込んでいた鶴吉も、思わず一歩後退る。そんな彼らの様子に、何があったのかとばかりに、亀蔵や虎丸、龍之進が戸口を覗き込んだ。そして虎丸は、蛇介や鶴吉と同じように、言葉を失ってたじろいだ。

 しかし龍之進と亀蔵は驚くでもなく、亀蔵などは呑気な声色で呟いた。

「ああ、やっぱり金色でございますね」

 おそらくそれは、露になった食い逃げの双眸の色のことなのだろう。けれども、もっと先に言及するべきところがある様に思えた。

 目の色どころの話ではない。

 明らかになった食い逃げの顔は、確かに女のような輪郭をしていた。

 けれどもそれは顔の下半分だけで、鼻のあたり辺りから上は、逆立った毛に覆われた獣の顔だった。何の動物に似ているのかは分からなかった。顔の骨格は、人の頭蓋骨が上に行くにつれ歪んでいったような、悍ましい形をしている。

 そして爛々と輝く眼球は確かに金色で、細長い瞳孔はぞっとする様な眼力を持っていた。

 その正体に慄いた者と平然とした者に、図らずもくっきりと差が現れた。呆然とする蛇介や虎丸を押し退けて、龍之進が一歩踏み出す。

 彼の足が、敷居を踏む。

 その瞬間、化け物が大きく吠えた。

 耳を劈き、空気を震わすその声は、赤ん坊の泣き声によく似ていた。

 化け物は四つ足で身構えた。ぎらつく瞳で、戸口に立つ人間を睨む眼力は、迫力に満ちていた。

 今まで、この人ならざる食い逃げが、何を考えていたのかは推し量る由もない。しかし、少なくとも今、縄張りに踏み込まれたこの獣の抱く感情が、怒りであることだけは明らかだった。

 俄かに、その姿が代わっていく。風呂敷の中に隠れていた頭部の異形が、人の形をした部分を下っていく。ざわざわと肌が毛皮に代わって行き、人の骨格が音を立てて歪んでいく。肉が嵩を増し、鼻が伸び、口が裂けていく。ぼたぼたと唾液を滴らせながら、床板を削りながら、牙と爪が伸びていく。只ならぬ力がその全貌を露にしつつあった。

 そうしてその獣は、熊ほどの大きさにまで膨れ上がった。天井を突く程の巨体に、五人は圧倒されていた。獣がまた一声吠える。声量が、先ほどの比ではない。声だけで頭が割れそうな程だった。とっさに何人かが耳を覆う。

 そして獣は、先頭を切って戸口を跨いだ龍之進目掛けて、その前足を振り上げた。流石の彼も化け物の変貌っぷりに目を剥いていたが、攻撃の予兆を察すると、すぐさま腰を落とし、掛かって来いとばかりに構えを取る。

 そんな彼の揺ぎ無さに、すっかり震え上がっていた蛇介と虎丸は、心強さを覚えた。

 しかし次の瞬間、予想外の妨害が彼を阻んだ。

「危ない!」

「は?」

 困惑したような声を残して、龍之進は地面に引き倒されていた。

 それとほとんど同時に、振り下ろされた獣の爪が彼の頭上を空振り、戸口の木枠を抉る。爆音とともに、木っ端が舞い、粉塵が立ち込る。鋭い風圧に、蛇介と虎丸は軽く吹っ飛ばされた。二人は地面を転がって、反対側の家の壁に叩きつけられた。

「おい貴様何をする!」

 そんな中で、龍之進は怒鳴り声をあげた。もとから声は大きいものの、普段は明朗快活な彼には、珍しいことだった。

 彼が怒鳴りつけていたのは、自分の上に覆い被さる亀蔵だった。

「……それはこちらの台詞でございます。何故、あんな無鉄砲を……」

 しかし亀蔵はよろよろと身を起こすと、やや力ない声で、反対に龍之進を叱った。至近距離で砕けた鋭利な木片を浴びたせいか、彼の額や腕は大きく裂けていた。ばたばたと赤い血が滴っていくのが、距離のある虎丸や蛇介の位置からも見える。

 つまり亀蔵は、龍之進を庇ったのだ。彼の怪力を知らない亀蔵の眼には、逃げもせず構えを取る姿が、とんでもない無謀に映ったのだろう。

「意味が分からん! 退け!」

 しかし、とうの龍之進は、自分と亀蔵の間にある認識の齟齬が分からないのか、ただただ理不尽な妨害を被ったと感じているらしい。

 けれども、そんな揉め事を、獣が斟酌する筈がない。化け物は仕留め損ねたことをむずがる様に唸ると、再びその手を振り上げた。

 龍之進はそれを見ると、力づくで亀蔵を引っぺがし、脇に放り投げた。飛んでいった亀蔵の身柄は、どうやら蛇介と虎丸が受け止めたらしい。振り向かずとも、何やら二人が喚いているのが龍之進の耳には届いた。彼は跳ね起き、獣に向かい合う。

 しかしその時には、彼は致命的に出遅れていた。鋭い爪が、間近に迫っている。この一発は食らうしかない。龍之進がそんな覚悟を決めた時、横から細長い茶色いものが、化け物の前足と彼の間に割り込んだ。

 そしてその茶色が、流れるような曲線の軌道が描いたと思った時には、まっすぐに迫っていた獣の足は遥かに逸れて、龍之進の隣の壁を叩き割っていた。

「おい」

 唖然としている龍之進の頭を、どすの利いた声と共に伸びてきた手が、鷲掴みにする。そしてその手は彼に、強制的に茶色の出所を確認させた。首を捻られた先には、木刀を片手に携えた鶴吉の、青筋の浮いた顔があった。

「貴様先程から目に余るぞ。雑に呼んだり放り投げたり、俺の弟を何だと思っている」

「……今のは、お前か?」

「あんな愚図でも、他人に軽く扱われると気分が悪い」

「なるほど、剣術か。見事なものだな」

「第一、亀蔵はお前を庇って怪我をしたのだ。礼の一つも言えんのか」

「兄弟揃って、相手の力を受け流すのが上手いのか。顔以外にも、似ているところがあろうとは」

「ええい! 会話をしろ!」

「ん? ああ、何と思っているのかと言われれば何とも思っていないし、軽いと言われれば確かに軽かったぞ。だが、庇われてはいないな、邪魔されただけだ」

「貴様!」

 龍之進の態度に、鶴吉がいきり立つ。しかし、そんな二人のやり取りを、虎丸の怒声が遮る。

「喧嘩してんな! 後ろ!」

 振り返れば、獣が牙を剥いていた。それを見て龍之進と鶴吉は、向き合うのをやめた。

「話は後だ、まずはこれを仕留めておかねばな」

「ちっ。仕方ない、この暴動を長引かせて人に見られでもしたら、確かに笑えん」

 各々に獣に焦点を合わせ、拳と木刀をそれぞれに構えた。

「だが貴様後で本当に覚えていろよ」

「何をだかは知らんが、分かった」

 獣が噛みつこうと突っ込んでくる。龍之進は鋭利な牙に怯みもせずに両腕を伸ばすと、その鼻先を捕まえて、相撲の競り合いのように突っ張った。巨大な獣の体重の乗った突進を真正面から受け止めたというのに、龍之進は僅かに後ろに滑っただけで、見事に拮抗する。獣も足を突っ張って全力で体重をかけるが、自分の半分にも満たないような小柄な男を振り払えずにいた。しかも、長い鼻先を抑えたことで、牙で噛みつくことも封じ込めている。

 口を封じられた獣は、苦し紛れに爪を振るった。けれどその爪も、龍之進に届くことなく木刀に受け止められる。獣の片目がぎょろりと横を睨めば、鶴吉が鋭い目つきでそれを見返していた。

「二度も防がれて、学ばん奴だ」

 鶴吉は獣を見上げながら、見下すように言う。その嘲りを知ってか知らずか、獣は再び苛立ったように吠えた。

「なめられたものだな」

 その唸りに返事をするように、龍之進が言った。鶴吉に意識を映していた獣の細い眼が、きろりと再び龍之進に焦点を合わせる。

 彼は、その視線を楽しむように不敵に笑った。

「俺に対してそぞろになるとは、良い度胸だ」

 そう言うと、彼は足を踏ん張り、腕に力を込めた。獣が困惑したような声を上げる。獣は鶴吉に気を散らせたせいで、龍之進との取っ組み合いに向けていた力を緩めてしまったのだ。全力で互角だったところで力を抜けば、軍配がどちらに上がるかは決まっている。

 徐々に獣の巨体が浮き始めた。ついには鶴吉の木刀に引っ掛かったままではない方の前足も、地から離れる。

 獣の上体がすっかり持ち上げられてしまった。獣が慌てたように短く鳴く。

「そら」

 龍之進はそんな軽い掛け声とともに、抱え上げた獣の頭を上に向かって放り投げる。意図を察してか、鶴吉も木刀を払い、獣の足の振り解く。

 不安定な態勢で上体を跳ね上げられた獣は、間抜けな後ろ足立ちの姿で、均衡を求める様に前足で宙を掻く。

「四つ足の生き物は、腹を晒した時点で死んだ様なものだな。だから敗北の証に腹を見せるのだろう」

「能無しめ。どういうつもりで膨らんだのか知らんが、的が大きくなってやりやすい」

 そんな獣に一切の容赦なく、龍之進は拳を握りこみ、鶴吉は木刀を構えた。そしてそれぞれが、がら空きの柔い胴に向けて打撃を打ち込み、勝負は決した。

 唾液を撒き散らしながら、獣は仰向けに倒れて行く。

 そのまま背後の壁でも突き破るかと思われたが、傾きながら獣の体は縮んでいった。

 獣の背にでも引っ掛かっていたのか、人の形をしていた時に纏っていた着物の残骸が、獣の体を包み込んでいく。そして床に落ちたのは、ぱさりと布だけだった。否、そのように見えたが、その中心が僅かに盛り上がっているのを見るに、布の下に隠れるほどに、化け物は縮みきってしまったということだろう。

 それを見下ろして、鶴吉はどこか得意げに言う。

「ふん、こちらにとって一番困るのは、貴様が逃げ遂せることだ。勝負になった時点で、恐るるに足らん」

「あれだけ殴れば、もう動けまい。さて、正体を拝んで……ああ、その前に」

 龍之進と鶴吉は、後ろを振り返る。蛇介と虎丸が、亀蔵を支える様にしながら二人を見つめているのが見えた。龍之進が軽く手を掲げて振ると、三人は顔を見合わせて、それから恐る恐るというように近寄ってきた。

「怪我は?」

「血が大げさに出ただけで、大したことはございませんよ。これくらい、屁の河童、でございます」

 兄からの素っ気ない質問に、亀蔵は具合を示すように胸を張って見せた。

「軟弱者め」

「ええ、ご迷惑をおかけいたしまして」

「終わったのか」

 鶴亀兄弟の会話を横に聞きながら、虎丸が家の中を窺うように尋ねる。龍之進は頷いて、地面に落ちた布を指さした。

「ああ。奴めはそこだ」

「人みたいな形になったり、かと思ったら、あんなに大きくなったり……結構危険な奴だったんだな」

「結局、何だったんだろうな? 化け物だったってのは間違いねえんだろうけど」

「うむ、それでは正体を御開帳といくか」

 蛇介の疑問に頷いて、龍之進は布の傍らに膝をついた。

「気を付けろよ」

 木刀に手をやって警戒心を見せながら、鶴吉が諫める。龍之進は頷いて、布切れに手をかけ、ぱっと勢いよく取り去った。

 そうして、その下から現れたのは、一匹の三毛猫だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る