あめのち

 その三毛猫は成猫で、随分薄汚れており毛並みも乱れているが、しなやかで引き締まった健康的な体つきをしていた。

 そんな猫を見て、亀蔵は破顔して嬉しそうに言う。

「まあ、可愛らしゅうございます。私、猫に目がなくて……抱き上げたらいけませんかしら。せめて、撫でるだけでも」

 その傍らにしゃがみ込んで、町中の猫でも相手をするように、目線を合わせようとする。

「馬鹿! そいつはただの猫ではない! さっきの姿を見ただろう!」

 すっかり事態を忘れたような弟に、鶴吉が怒鳴った。

「ああ、左様でございました。この子は先程の化け物で……あら、つまり兄様は、猫をお苛めになったということで……?」

 叱られた亀蔵は、しゅんと頭を垂れようとしたところで、ふと気づいたように兄を見上げる。弟の杳茫とした瞳にじっと見つめられて、鶴吉はたじろいだ。

「し、仕方ないだろう! 猫だろうと化け物は化け物だ、退治して何が悪い!」

 そこまで言って、鶴吉は思い至ったという顔をして、亀蔵を説き伏せる様に、自分に言い聞かせるように呟いた。

「そうだ。こいつは店を何件も襲って、怪我人を出した化け物だ。このまま野放しにする訳にもいかない。人外の力を持っているんだ、そのうち人を食うかもしれない。今ここで、きちんと始末を付けねば……」

 そして、鶴吉は猫を睨みつけると、木刀を振り上げた。そんな彼に、猫は毛を逆立てて威嚇するものの、既に応戦する力も逃げる力も無いらしい。

 鶴吉は木刀を振り下ろす。しかし、その切っ先が殴りつけたのは、猫の頭蓋ではなく、土間の濡れた土だった。

「いけません、兄様」

 いつの間にか、猫は亀蔵の腕の中にいた。自分よりも大きな生き物に絡め捕られた恐怖からか、猫は手足を突っ張って、激しく暴れている。しかし彼は、引っ掛かれるのをものともせずに、柔かい手つきで猫を撫でていた。

 やがて、彼が自分を傷つける気がないことが伝わったのか、猫は大人しくなった。腕の中から、不安そうな顔で亀蔵を見上げている。

 そんな弟の行動を見て、鶴吉はもともと厳しい表情をさらに顰めた。

「どういうつもりだ。その猫を此方に寄越せ、亀蔵」

「お渡ししたら、如何なさるおつもりで? 兄様」

「当然、殴り殺す」

「左様でございますなら、お渡しすることはできませぬ」

 のらりくらりとした弟の態度に、鶴吉は額に青筋を浮かべた。

藤野屋の三人も、固唾を呑んで、鶴亀兄弟の遣り取りを見守った。

「いい加減にしろ! 猫を好くのは構わんが、愛づるならば躾が行き届いた猫にしろ。その畜生は、人の秩序と安全を脅かす化け物だ」

「いいえ、私は何も猫が好ましいから庇いだてる訳ではございません」

 亀蔵は立ち上がると、兄と目線を合わせて微笑んだ。

「人であれ獣であれ化け物であれ、罪を犯せば問答無用というようなやり方は、承服しかねるのでございます。何故、この様なことをするに至ったか。それを知らずに幕引きでは、あまりに尻切れ蜻蛉ではございませんか」

 鶴吉は、言葉を呑んでから、大きく溜息を吐いた。

「人間相手ならば私もそうする。しかし猫の事情など、どうやって斟酌しろと言うのだ。言葉が通じる訳でもあるまいに」

 その台詞で、ふと蛇介は思い至って申告した。

「あ、でも、そいつ、単語ですけど何回か喋っていましたよ。『すみません』とか『ごはん』とか」

「ああ、言うよな、化け猫は喋るって」

「何だと?」

 鶴吉はそれを聞いて、眦を釣り上げた。

「おい貴様、口を利けるのか。利けるならば今ここで喋ってみせろ、さあ!」

 そして猫に詰め寄り、捲し立てる。しかし、猫はただ目と口を剥いて、威嚇を示しただけだった。

「兄様、左様に高圧的に迫っては、語れるものも語れません」

「なんだか、滑稽な絵面だな」

 真剣に猫から事情を聞き出そうとしている兄弟に、龍之進が言った。それに蛇介と虎丸は苦笑した。

「どっちも大真面目な分、余計にな」

「俺らが付喪神と話してたのだって、外から見れば可笑しかったろうな」

 そんな三人の外野の視線を気にすることもなく、亀蔵は猫の背を撫ぜて問いかけた。

「どうぞ猫さん、何故斯様なことをなさったのか、私共に教えていただけませんか」

 猫は、己を覗き込む亀蔵を見上げている。思惑ありげに沈黙する猫の、その金色の玉のような瞳の中には、彼の顔がはっきりと映りこんでいるのだろう。

 やがて猫は、一声鳴いた。どこか人の声を思わせる鳴き声は、荒れた部屋の中に伸びていく。

 次の瞬間、まるでその声に応える様に、また劈くような声が轟いた。赤子の声によく似たそれは、今なら分かろう、猫の絶叫だ。けれど、その音のもとは、亀蔵の腕の中でもなく、一つでもなかった。不安を煽るような高く長く震える声が、輪唱の様にどこからか響いてくる。

 蛇介は間抜けな声を上げて身を縮めると、怯えたように辺りを見回す。虎丸も強張った顔で視線を彷徨わせた。

 あの化け猫の仲間が、まだ他にもたくさん居るのなら。鶴吉が亀蔵を自分の側に引き寄せて木刀を構える。

「床下、だな」

 一人じっと動かないでいた龍之進が、しばらくあってそう断定した。

 その瞬間、亀蔵の腕の中にいた猫がぱっと飛び出した。そのまま猫は、土間から板間に飛び上がると、外れた床板の隙間から床下に潜り込む。

「逃がすか!」

 鶴吉がその後を追って、土足で板間に飛び乗り、その床板を蹴飛ばした。しかし、その下を覗き込んだ彼は、ぴたりと動きを止めた。泣き声もふと止まる。

 龍之進も彼に倣って板間に上がる。そして同じように床下を覗き込んで、おお、と小さく声を上げた。亀蔵と虎丸は顔を見合わせて、それから思い切って彼らに続いた。蛇介もおっかなびっくり、その後を追う。

 無人の空き家とは言え、先の二人ほど思い切れず、板間に土足は躊躇われた三人は、膝をついて四つん這いで、二人の視線の先を覗き込んだ。

「おや、これはまた可愛らしい」

 そして亀蔵が弾んだ声で言った。

 床下には、三匹の子猫がいた。やっと目が開いたばかりというような、あどけない子猫だ。身を寄せ合って細かく震えている。

 そして、その子猫たちの側に着地した三毛猫は、よろけるような足取りで子猫たちに歩み寄ると、慈しむように彼らの鼻先を舐め始めた。子猫たちも、先ほどまでの絶叫はどこへやら、甘えるような声を出して、その三毛猫に擦り寄った。おそらく親子なのだろう。

 そして三毛猫は、自分を見下ろす人間どもを見返して、また一声鳴いた。言葉でこそなかったが、それは雄弁極まる振舞だった。

「亀さん、その箱……」

 ふと虎丸は子猫の傍らに、小さな木箱が落ちているのを見つけ、手の届きそうな位置にいる亀蔵の名を呼んだ。

「箱? ああ、これですね。はて、なんでしょうか?」

 亀蔵はその箱に手を伸ばす。そばの子猫たちは、上から伸びてきた大きな生き物の手に怯えるように、三毛猫の腹の下に潜り込んだ。その様子に、申し訳なさそうに詫びながら、亀蔵は箱を取り上げた。

 木箱の表面は、やや土に汚れているが、『ミケのご飯』と書かれているのが窺えた。

「ミケさん。猫さんのお名前かしら」

「その名前なら、十中八九はそうだな。見せろ」

 鶴吉が弟の手から箱を取り上げる。そして無造作な手つきで、その蓋を開ける。

「……茶碗と、この紐は首輪か?」

 木箱の中には、古びた茶碗と鈴のついた紐だけが入っていた。それを横から覗き込んで、亀蔵が言う。

「ご飯のようなものは見当たりませんね」

「食物をこんな所に入れるものか。おそらく餌や水を盛る用の器だな」

「ここ、爺さんが一人住んでて、亡くなったって話でしたよね」

 蛇介は二人の会話を聞いて、思い至った。

「ああ、確かに、左様な話だったな」

 鶴吉が頷く。蛇介の横では、子猫の首根っこを掴もうとした龍之進の手を、虎丸が叩き落としている。

「この猫、その爺さんの飼い猫だったんじゃないでしょうか」

「けれど、こういう長屋ですと、動物を飼うのは禁止しているところも多いのでは?」

 蛇介の思い付きに、亀蔵は首を傾げた。それに蛇介は頷く。

「ですから、こうやって床下に隠して、こっそり飼っていたんでしょう」

「なるほど」

「すると、誰もその老人が猫を飼ってると知らなかった訳か。それで死後面倒を見るものも現れず……」

「それで、ミケさんは一人この家に残されたのですね」

 鶴吉が蛇介の言わんとすることを察して、言葉を続けた。さらに亀蔵がその後を続ける。三人の会話の後ろで、龍之進は三毛猫に引っ掛かれている。蛇介が頷く。

「出入りはできたんでしょうね。けれど、猫はこの家を縄張りにしていたんでしょう」

「猫は家に付く、というからな」

「けれど、お爺さんが亡くなってから、ミケさんはお腹を空かせたでしょうね」

 亀蔵が同情するような口調で言う。彼の視線の先には、虎丸がおっかなびっくり撫でている猫がいる。その横で、子猫たちは龍之進に向かって毛を逆立てていた。

「亀蔵、あの猫は生まれてからどれくらいだ?」

「恐らくはひと月、ふた月といったところかと。丁度乳離れも済んで、そろそろお乳以外のご飯が必要になるころですね」

「爺さんが亡くなったのって、どれ位なんでしょう」

「権太さんが仰るには、半年は経っていないはず、とのことでした」

「なるほど。なら、子供が生まれたのは、老人が亡くなってからだな」

 兄と藤野屋の会計に尋ねられた亀蔵は、納得がいったように顔を伏せた。当の猫は、虎丸の膝の上に登ろうとしている。猫として扱えばいいのか、化け物として扱えばいいのか、虎丸は酷く慌てている。そして龍之進は猫の尾を掴もうとして、やはり牙を剥かれていた。

「一人ならともかく、子供を養うために、ご飯が必要だったのでしょうね」

「しかし、それで、どうして食い逃げになるというのだ?」

「それは推し量るしかございませんが、お爺さんと一緒に暮らしていたミケさんにとって、野生の動物の様に狩りをするより、人から食べ物をもらうという方法の方が、馴染みがあったのやもしれませんね」

「『食』って字が入ってる店ばっかり襲われた理由も分かりましたね。ミケはこの木箱の字を覚えてて、それが食べ物に関するものだって理解してたんでしょう」

 蛇介が木箱の蓋を手に取って、目の高さに翳す。そこで鶴吉が首を傾げた。

「しかし、人に化けたのはいったい何故だ? あれは化け物の類で間違いはないのだな?」

「ええ、そのように見えます。長く生きた猫は化け猫になると言いますけれど……」

「おい」

 三人の会話を遮って、龍之進が声を上げた。

 虎丸の膝に乗り上げた三毛猫の尻を、けったいな格好で覗き込んで、龍之進は言った。

「この猫、尾が二つに裂けている」

 そう言う彼の顔を、鬱陶しそうに振り払う親猫の尾の先は、一見ひと房に見えるのだが、揺れると確かに二つにぶれるのだ。

「猫又ってやつか」

「長生きをしたせいなのかは確かめようもないが、とにかくこの猫は妖怪なのだな」

「けれど、人に化けられるのは、昔からじゃないかもしれませんね」

 断言する蛇介に、鶴吉は訝しげに眉を顰めた。

「何故そう思う?」

「だって、人に化け慣れてるにしちゃあ、随分お粗末な人間っぷりじゃありませんか。言葉も、簡単な単語以外喋りませんし、おまけに顔半分はあの有様です。それに、人間の振りに慣れてるなら、金のことが分かってなくちゃあならないでしょう。払うにしろ踏み倒すにしろ、金の仕組みをちゃんと理解してれば、毎度店をぶっ壊すほど暴れなくたって良かった筈ですよ」

「……まあ、そうなるか。金を払わなければ罪になると分かっていれば、もっと人目に付かないように逃げるとか、できたはずだものな。それこそ、飯を食った後、こっそり猫の姿に戻って……いや、それなら、はなから猫の姿で店先に行った方が、施しを受けられそうな気もするがな。どうせ、うちの弟のような輩が幾らでも居るのだし」

「そうですね、猫さんがお食事にいらしたら、いくらでも差し上げたくなってしまいます。しかし、とにかくそれも含めて、人に化ける力の長短を使いこなせなかったということかしら。化けられるようになったから、とりあえず見様見真似で人を真似てみた、なんてところかもしれません」

「しかし、何はともあれ、事情は大体分かって来たな。つまり、この猫は腹を空かせて、人に化けて、食事に有り付こうと飯屋を訪った。しかし、金銭の価値を知らなかったために、自ずから期せずして食い逃げとなった」

 鶴吉は腕を組んで、理解を示すように頷いた。

「一時期、見回りをしていた時に姿を見せなかったのは、私たちを警戒していたのでしょうね。こうして、いつも同じ制服を着ていますから、『警官』についての知識は無くとも、見分けは付きやすいでしょうし。それに事件の現場にはいつも駆けつけていましたから、ミケさんの方でも、私たちがこの騒ぎに関わっている人間で、目の前で騒ぎを起こしたらまずい、と察しがついていたのでしょうね」

「それで鼠や小鳥なんかを取って食ってたのか……」

 亀蔵の言葉に、蛇介は噂を思い返した。道端やこの部屋に落ちていた、小さな動物の死骸。あれは、警官を避けたミケの腹の足しだったのだろう。

「けれど、飼い猫のミケさんにとって、必ずしも獲物を捕らえるのは簡単ではなかったでしょうね」

「食い残しが多かったことを思うと、人間の食事に慣れていて、生の肉の味に慣れなかったって言うのも、あるのかもしれません」

「だから、どうしても我慢しきれず」

「そんな折、藤野屋に……」

 亀蔵と蛇介の言葉の応酬が、図らずも愉快な拍子をとったところで、鶴吉は再び疑問を呈した。

「しかし、何故いきなり藤野屋を襲ったのだろうな? 今までは看板に『食』とか『飯』とか書いてあった店しか襲われなかっただろう? それはこの木箱を見れば理由も分かる。しかし、藤野屋の屋号には……おい、なんだその何かに気づいた顔は。やってしまったという顔は」

 鶴吉に詰問されて、思い当たる節があった気まずさに蛇介は、視線を泳がせた。

「……すみません、丁度ここ二、三日『茄子の蒲焼丼定食、限定十食まで』って張り紙してました……」

「定食……十食……。そのせいじゃないか貴様ら!」

 蛇介の台詞に、しっかり文字を当てはめてから、鶴吉は眦を釣り上げる。その隣で、亀蔵が不思議そうに故首を傾げた。

「けれど、『食』とか『飯』って字が狙われるって言うのは、分かっていらしたんですよね?」

「権太さんの御母堂に教わりました……。でもうちには関係ないって忘れてました……」

「ああ、その様なこともありますよね」

「ありますよね、ではない! この迂闊者め!」

「まあまあ、仕方ありませんかと、兄様。食い逃げを迅速に捕まえられなかった私たちの方にも、問われる責任はありますよ」

 弟の、のんびりとした正論に、鶴吉も言葉に詰まる。そして一つ溜息をついて、彼は改めて、虎丸と龍之進に構われている猫に向き直った。

「……まあ、そう言われては一言もない。しかし、とまれかくまれ、これで下手人も、大体の事情も分かった訳だ。これで心置きなくこの猫を……」

 しかし、緊迫感のある彼の台詞を、のんきな口調で亀蔵が引き継いだ。

「引き取ってくれる方を、探さなくてはなりませんね」

「どうしてそうなる!」

「え、でも、私共の宿舎では、動物を飼うのは禁止されておりますから……」

「違う! 何故生かして野に放つことを考えているのだという話だ! この場で処分するに決まっているだろう!」

「そんな、どうしてですか?」

「どうしてもこうしてもない! こんな化け物を野放しにすれば、いずれ死人も出かねんぞ!」

「けれど、ミケさんは腹ぺこだったから、食い逃げをしていらっしゃったのでしょう? でしたら、きちんとお世話をして下さる方が見つかれば、もともと飼い猫なのですし、これ以上人を襲うこともないはずです」

「そもそもそれだって、推測でしかないだろう! 結局猫は喋らんし、危険は排除すべきだ!」

 鶴吉が怒鳴る。しかしそこで、今までぼんやりしてはいるものの、至って穏やかな表情をしていた亀蔵が、初めて少し陰りのある表情を見せた。

「でしたら、人に預けて様子を見ればよいのです。怪我をなさった方は居ます。けれど、まだ、どなたも亡くなってはいません。命まで奪うのは、また同じことが起こった時で良いはずです」

 鶴吉は、弟の態度が変わったのに気づいてか、いからせていた肩を下ろし、しかし真剣な声色で言った。

「また同じことが起こった時、人が死なないとお前は保証できるのか」

 亀蔵は、その言葉に目を伏せる。

「それは……」

「人を傷つけるようなものなど、殺してしまった方が安心だ。私は人に対してだってそう思う。いわんや猫をや。分かるな」

「けれど……死罪など、取り返しのつかないことでございます。やり直せる方法があるのなら、例え遠回りでもそちらを選びたいと、私は思います」

「その猫を預けるものにだって、危険が及ぶかもしれない。それをお前は許容するのか」

「それは、しかし……化け物であれ悪者であれ、やり直し、人と和することが出来るなら、その可能性があるのなら、その危険は私たちが背負うべきものでは、ないでしょうか」

「善良なものが安心して暮らせることの方が大切だ。責任があるからこそ、私たちの手で始末を付けるべきではないのか」

 鶴吉の意見は厳しいが、正しい。そして、亀蔵の思想は優しいが、危うい。

「あの……」

 そんな拮抗する双子の会話に口を挟んだのは、思いがけないことに虎丸だった。彼はその膝の上に乗っていたミケを抱き上げると、蛇介に手渡し、言い合う彼らの間に割って入った。猫の抱き方を心得ぬ蛇介が後ろで慌てている。

「俺は、亀蔵さんが言うのに賛成です。だから、ミケがまた食い逃げをして、人を傷つけるかもしれない危険は、俺たちも協力して防ぎます。五人も居れば、そんなに重い荷物じゃない」

「それは……どういう意図だ」

 鶴吉が警戒するように言う。化け物退治に異論を唱える者が、しかも警官が守ろうとしている市民の側から現れるというのは、なかなかどうして奇妙な構図だ。

 事の成り行きを見守っていた蛇介と龍之進も、顔を見合わせた。

「俺も……、亀蔵さんの言う通り、殺しちまうのは、嫌です。ミケは化け物かもしれないけど、人を食っても、殺してもいない。それに、腹をすかした子供のために、飯を手に入れたいって思いは、悪意と呼ぶ様なものじゃない。ミケは悪者じゃないと、思うんです」

 一言一言を選ぶような喋り方は、決して力強いものではなかったが、話者の面構えには、頑とした決意が窺えた。

 鶴吉は、そんな藤野屋の料理人を扱いかねる様に、その兄弟たちへと目を配らせた。貴様らの身内だろう、どういう事だ、と口ほどに語る視線に、蛇介は気まずい思いで目を逸らした。

 龍之進は軽く首を傾げていたが、それから口を開いた。

「俺はいいぞ、どうでも。こうして正体も分かった訳だ。大切なのは首根っこを押さえることだからな。あとは、鶴蔵の方が言うようにここで息の根を絶っても、亀吉の言うようにどこかに繋いでおいても、俺にとってはさして変わらん。まあ、だから、虎丸が亀に乗るというなら、俺もそれで構わん」

「鶴『吉』と、亀『蔵』だ! それから、私の弟を亀と呼ぶのは本当にいい加減にしろ!」

「私は別に構いませんよ、兄様。町の方々に『亀さん』と呼ばれるのも、気に入っておりますし」

「こいつの呼び方が問題なのだ! いいか、言葉というのは、字引に乗る意味だけで終わるものではなく、様々な含みを伴って……」

 長広舌を振るいだしそうな鶴吉を無視して、龍之進は隣の蛇介に尋ねる。

「それで、蛇介はどう思う?」

「はあ? 俺?」

「藤野屋は三人だからな。多数決で決着がついて……ん? 俺がどっちでもいいと言う以上、実質虎丸と蛇介の一騎打ちか? これは割れたら、俺は身の振り方に困るな?」

「いや、一騎打ちって……。別に戦わねえよ。まあ、俺は慎重だからな。できる事なら不安の根っこは僅かでも取り除いときたいが……いや、落ち着け虎丸、睨むな。俺は確かにそういう質だが、そこまで強固な意見ではねえ。だから今回はお前を押し退けてまで通しはしねえよ」

「蛇介はめっきり虎丸に弱くなったな。あの説教以来」

「別に、睨んではねえよ。俺だって鶴吉さんの言うことも尤もだと思うし、反対されるなら仕方がねえとは思ってる」

「そうか」

「仕方がねえから、どうしようか悩んだ」

「……その『どうしよう』は、反対されたら困るとか、悲しいとかってことだよな? どうしてやろうか、なんて意味はないよな?」

「と言う訳だ、鶴の方。まあ、そっちの弟もこっちの弟もこう言う訳だ。俺はそれで構わんぞ。不穏な動きを見せた時に、息の根を止めてやればいいのだろう? 前の時もそうしたしな」

 鶴吉は眉根を寄せ、口を尖らせて不機嫌の顔を作った。そして、隣の亀蔵を見た。そんな兄に、亀蔵は縋るような目を向けた。鶴吉はしばらく間をおいて、大きく溜息をついた。

「好きにしろ」

 鶴吉はふんとそっぽを向くと、そのまま戸口に出て行った。亀蔵はほっとしたような顔をして、そして、藤野屋の面子を振り返って言った。

「兄様はいつも、私が見落としてしまう大事なことを指摘してくださいます。私はいつも、気持ちばかりが先行して、子細の気を配るべき点を見落としてしまうのです。ミケさんの命を預かることに、大きな責任が伴うことを心して、より安全な方法を考えなくてはなりませんね」

 多数決の前で劣勢の鶴吉が、しかたなく折れたとも見える図だが、鶴吉の危惧したことはきちんと弟に伝わり、二人の意見は折衷され昇華されるのだ。

 ただ正しいだけでもなく、ただ優しいだけでもない、厳しさも危うさもできる限り削り落とした結論へ向かう。思うと厳しい兄と、ぼんやり者の弟で、難しい兄弟仲にも思われたが、これはこれで凹凸嚙み合った一揃いなのかもしれなかった。

 悠長にそんなことを考えていた蛇介の耳に、亀蔵と虎丸と龍之進の会話が入ってくる。

「それでは、私がミケさん親子を引き取って下さる方を探しますので……」

「はい。その間、ミケたちは藤野屋で預かればいいんですね?」

「おお、うちで飼うのか? 猫の類は食ったことがない。一匹くらいは試してみても……」

「駄目だ」

 その会話に、蛇介は目を剥く。

「ちょっと待て! うちで飼うってどういう事だ!」

「だって、さっき亀さんが言ってただろ? 警官の宿舎じゃ猫は飼えないって。だったらここには警官と藤野屋しか居ないんだから、消去法だろ」

「ふざけんな! 胃袋四つも家に入れて、飯代はどうすんだよ! まさかうち持ちじゃねえだろうな!」

「うち持ちになるだろ。生き物を飼うってそういう事だ」

「もちろん私も、お給金から僅かながら出させていただくつもりです」

「でも、俺も賛成したんだから、全額亀さんに払わせるのはおかしいだろ」

 なおいきり立つ蛇介に、亀蔵が頭を下げる。

「なるべく迅速に引き取り手を見つけますので、それまで、どうか」

 虎丸も、しばらく考えてから、深く頭を下げた。

「お前が金を大事にしてるのは知ってるし、そのおかげでうちの家計が成り立ってるのも承知してる。でも、残飯や使わなかった材料を食わす位いいだろ? それに俺の飯を分ければ、基本は賄えるはずだ。だから、それでも足りない分だけは、頼む」

 それに加えて龍之進が、にやりと笑って後押しをした。

「蛇介、虎丸は思うより頑固らしいぞ」

 蛇介は並んだ金色と黒色のつむじを見つめて、深くため息をついた。そしてふと視線を戸口に向ける。半壊して開けた壁の向こうに、表で鶴吉が木刀を振っているのが見えた。手持無沙汰で素振りをしているその姿には、やけくその気配も伺えて、蛇介はがっくり肩を落とした。

 聞き分けのない弟を持つと、兄というのは苦労をするらしい。虎丸の方が兄貴らしいとかほざいていた権太に、この我儘っぷりを見せてやりたい。そしてそれに対する自分の寛容さを見せつけてやれば、彼の意見も変わることだろう。どうやら俺の采配は間違っていなかった様だぞ。

 明後日の方向に自分を励ましながら、蛇介は渋々二人の願いを聞き入れた。

 いつの間にか雨は上がり、雲間から夕日が差していた。

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