らいてん

 遠くでくぐもった雷鳴が聞こえた。

 その音に誘われて窓から空を覗けば、夕焼けの赤い空に、黒雲が立ち込めて来るのが見える。途端に辺りに湿った香りが沸き立ってくる。夕立が街に近づいてきている。

 それを見て、まったりしていた客たちの中から、家の近い者たちが、雨の降り出す前に帰ろうや、と席を立つ。反対に、今にも家路につこうとしていたが、帰り道で降られるのは嫌だから、もうしばらく腰を据えようなどと踵を返す者もいる。

 やがて、ぽつりと一粒雫が、地面を打った。それを合図に空は決壊し、瞬く間に辺りには、ざんざんと大雨が降り籠めた。

 見事な土砂降りで、景色は雨に煙って、玄関先から一寸の先も見えない程だ。その先から、慌てた声や、駆けていく足音だけが聞こえてくる。

「雨宿りに来る人がいるかもな……」

 蛇介のそんな言葉をなぞる様に、ずぶ濡れの人達がばたばたと駆け込んでくる。蛇介はにっこりと笑って、彼らを応対する。

「いらっしゃいませ」

「いやー、振られちまったね。こんな格好で悪いけど、藤野屋さん、雨宿り良いかい?」

「ええ、もちろん。今、手ぬぐいでも持ってきますから、少しお待ちください。ああ、傘はその辺に」

「助かるよー」

 蛇介は手ぬぐいを用意しながら、龍之進を呼び寄せた。

「おい、龍」

「なんだ?」

「物置に縄があっただろ? あれ持ってきて、そっちの梁からあっちの梁まで掛けといてくれ」

 龍之進は大きく頷いて、走っていった。

 蛇介は入り口で待っている客たちのもとに戻り、手ぬぐいを手渡した。

「おお、ありがとうね」

「いえいえ、お気になさらず。今、兄に物干しを用意させるので、そちらにお召し物など干してください」

「いやあ、何から何まで悪いね」

 そうして蛇介はやって来た客たちを、席に通していく。そんな彼にひょっこりと台所から顔を出した虎丸が、伺いを立てた。

「今来た人たち、雨で冷えただろ。白湯くらいなら、すぐ用意できるけど……」

「ああ、そうだな。頼むわ」

「三男君、ありがとうねー」

 賑やかに笑いかけてくる客たちにぺこりと頭を下げて、虎丸は台所に引っ込んでいく。

 龍之進が掛けた縄に、濡れた上着などが思い思いに掛けられ、店内は色とりどりの暖簾が掛かった様な有様になった。男などには、着物をすっかり脱いで半裸になる者もいて、それを見て、楽し気な笑い声が上がった。

 着物や傘、そして軒の端から滴る雨の、ぴちょんぴちょんと滴る音が、また輪をかけて愉快だった。

「夕立の音を家の中から聞くと、笑い声みたいで良いよねえ」

 客の一人がそういったのに、龍之進は天井を見上げて言った。

「夏の雨はいい。命を生かす雨だ。冬の雨は良くない。冷たい雨は、動物を多く殺す」

「そうだね。夕立じゃあ、ずぶ濡れになっても凍える心配はないもんね。むしろ、風呂に入らずに綺麗になって、儲けもんだ」

「でも、お洗濯には不向きだねえ。家に干しっぱなしだったことを思い出したよ。気が滅入るなあ」

「ああ、それは不運だねえ。あ、お団子、頂戴」

「俺、焼きおにぎりー」

「あ、はい、承ります。龍、お前も話してないで手伝え」

「うむ」

 蛇介と龍之進が、お通しを運んだり、注文を受けたりと、着物の暖簾を潜りながら店内を駆け回っていると、ふと声が上がった。

「あれ、あんたどうしたの。そんなところに突っ立って。ほら入りなよ。藤野さん、新しいお客さんが来てるよー」

「ああ、はい!」

 客の一人に呼ばれて、蛇介は入り口に駆け寄る。

 戸口には客が一人立っていた。急な雨に、手持ちのもので何とか手を打ったという感じで、裾や袖をたくし上げて結び、頭には風呂敷をぐるぐる巻きにしていた。おかげで人相がさっぱり伺えない。

 また、少し不思議なのが、その客は軒下に入るでもなく、雨に濡れるままに佇んでいた。

「どうぞ中へ」

 蛇介に促されえて、その客は一歩店の中に入ってきた。そして、蛇介が手拭いを差し出すには目もくれず、雨雫を振り払うように、大きく身を震わせた。

「うわっ、ちょっ、お客さん!」

 犬猫を思わせるような仕草で、飛び散った水しぶきが、側にいた人間に降りかかる。思いっきり水を被った蛇介は、不快感に外面の微笑みが崩れかけたのを、何とか堪えた。

 しかし、その客はそれに取り合うこともなく、近くの席に腰を下ろす。

 芯まで濡れそぼった着物が、一度身を震わせた程度で乾き切る訳もなく、客の足元にはじわじわと水たまりが広がっていく。椅子も机も濡れていることだろうが、文句をつけるのも機会を失して、蛇介は内心舌打ちをした。

 どことなく異様なその客に、周囲の視線が集まっていく。

「えっと、ご注文など、なさいますか?」

 蛇介が尋ねると、その客は初めに店の壁に掛かった品書きを見、それから辺りを見渡して、やがて壁に貼られた一枚の紙に目を留めて、それを指さした。そこには、茄子のかば焼きの宣伝文句が書かれている。その端には完売、と書き足されているのだが、どうやら客はそれを見逃しているらしい。

 蛇介は、申し訳なさそうに答えた。

「すみません、そちらは売り切れてしまっておりまして……他のお品はいかがですか?」

 客はそれを聞いて、もう一度その張り紙を振り返り、それから蛇介を見直して、ぽつりと言った。

「……ごはん」

 その声は思ったより高く、着物などから男だろうかと想像していた蛇介は、はて、と首を傾げた。予想外だったという以上に、なんとなく聞き覚えのあるような気がしたのだ。記憶を探りながらも蛇介は、応対を続ける。

「えっと、お食事ですか? ご飯……でしたら、日替わりの定食などはいかがでしょうか。あとは、おにぎりやお粥なんかもありますよ」

 しかし、その客は蛇介の売り込みに、微かに首を傾げるだけで、それ以上応えようとしない。あくまでも笑顔で話を続けながらも、蛇介は困り果てた。

「蛇介、新しい客の注文はまだか?」

 丁度そこへ、手が空いて暇になったのか、龍之進が寄ってきた。

「ああ、まだだ。もう少しお待ちして……」

「臭うな」

 しかし、蛇介のすぐ側まで来た龍之進は、わずかに眉を寄せて、そう言った。

「ん? ああ、湿気ってるし、匂いが籠ってるのかもな」

「いや、違う。そう言うのではないな。そういう部屋全体の話ではなくて、この近くに来たら急に臭ってきた。……山で嗅ぎなれた臭いだ」

 龍之進は、辺りを探る様に、数度鼻をひくつかせてから、しっかりと頷いた。

「やはり、獣臭い」

 そして、彼は濡れ鼠の客に焦点を結んだ。そして一歩進み出て、龍之進はごく自然な動作で、出し抜けにその風呂敷に掴みかかった。

 蛇介が、彼の不躾な行動を認識して咎めるより早く、全ては起こった。

 大きな音がした。と、思った時には、その客が座っていたはずの大机が跳ね上がり、天井に叩きつけられていた。重い天板に、重厚な脚や支えのついた家具だ。少し持ち上げるにも、大の大人が二人は必要そうな重量がある。それが軽々と宙に浮く異様な光景に、店内の全ての視線が集まった。

 随分長く感じたが、やがて当然そうあるべき様に、机は落下し始める。

 天井はそう高くないが、それでも大きさと重さのある物が、それだけの高さから落ちれば、十分な被害が考えられる。そして自分たちは、ちょうどその真下に入り込んでしまっている。それに思い至った蛇介は、持ち前の素早さで咄嗟に飛びのいた。

 しかし、蛇介は目を見張った。自分の隣で、同じような位置取りをしている龍之進は、微動だにせず、ただ一人天井に目を向けることもなく、目の前の客だけを見据えていた。一瞬の間に、彼のいつもの底知れぬ笑みを湛えた横顔が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 危ない、とは思った。袖を取れば、引っ張り寄せられるとも思い至った。しかし蛇介がそう考えた時にはすでに、彼の頭のすれすれにまで、机は迫っていた。そして、間に合わないと思ったものに手を伸ばせない程度には、蛇介は賢すぎた。

 降りかかる重量に、無残にも龍之進の首がへし折れる。そんな絵がありありと見える程、絶望的な状況だった。客たちの間から、引き攣った悲鳴が聞こえた。

 しかし、龍之進はのんきな態度で片手を掲げたかと思うと、虫でも払うかのような雑さで、降り来る机を弾き飛ばした。まるで重さなど感じさせない扱いで、簡単に軌道を曲げられた大机は、着物の暖簾や他の机を巻き込みながら真っ直ぐに吹っ飛び、壁に叩きつけられる。その時に轟いた不穏な重低音だけが、忘れ去られた机の質量を、空しく主張していた。

 誰しも状況を飲み込めずにいた。息を吸い損ねたような、吐き損ねたような顔をして、誰もが声もなく静止していた。

 その沈黙の中で、濡れ鼠の客と龍之進は静かに向き合っている。その対面は一触即発というよりはむしろさり気無い。たった今机が宙を舞うほどの激突があったのだとは思えぬほどに、二人は自然な立ち姿をしていた。

 蛇介の冷静さは、周りの客たちよりも早く戻ってきた。暴力沙汰こそ自分で演じたことはないが、彼もそれなりの修羅場を潜った経験はある。きちんと平和に真っ当に生きてきた人に比べて、事態への順応が早かったのは当然だ。

「皆さん。ゆっくり、落ち着いて、俺のほうに来てください。一人ずつ、玄関に近い人から、外へ……」

 しかしながら、蛇介は自分を逃がす達人であるほど、裏返して他人を逃がした経験はなかった。こんな場面で、『玄関』や『外』などの言葉を持ち出せば、度を失った客たちがどんな行動に出るか、想像できなかったのが手痛い落ち度だった。

 ふと、一番入り口近くにいた一人の客が、土砂降る表へと、ぱっと飛び出した。蛇介の台詞で、今自分がすぐにでも逃げ出せる立ち位置にいる、と気づいてしまったのだろう。

 一人が逃げ出せば、あとはもう歯止めは効かない。周りの客も、他人を押しのけ、我先にと玄関に向かって押し掛けた。勝手口もあるはずだと踏んだのか、それとも、ただこの場から逃げ出したかったのか、台所にも人が流れ込んでいく。

 恐怖した人波相手には、どれだけ声を張り上げても、一人として聞く耳を持ってくれない。

 落ち着いてください、と叫ぶ蛇介の声も空しく、甲高い悲鳴や罵倒が、瞬く間に店内を荒らす。食器が割れる音、吊るされた着物が裂ける音、干された傘が折れる音。

 降って湧いた狂騒に触発されたのか、ずぶ濡れの風呂敷頭の客は、手近な長椅子を掴み上げた。これも丸太を縦割りにして足をつけた程度のもので、軽量化の工夫もまるでなく、当然の重量がある。

 しかし風呂敷頭は、それを本当に、その辺に転がる板切れでも取り上げるような容易さで、片手で頭上に掲げて見せた。尋常でない怪力だ。異様な光景に悲鳴が輪をかけて大きくなる。

 慌てふためく客の群れに弾き出された蛇介は、何とか部屋の壁に張り付くようにして、呆然とそれを眺めていた。ああ、さっきの机が跳ね上がったのは、あの客が蹴り上げたか、弾き上げたかしたせいだったんだな、など見当はずれの納得をする。

 ここに至って蛇介は、どうやらあの風呂敷頭が、巷で噂の食い逃げらしいと見当がついた。

 あの怪力。権太の家を襲って、蛇介を吹っ飛ばした食い逃げの特徴に当てはまる。それ以前に、思えばあの覆面姿がもう露骨だ。急な雨では、あんな格好をしている者だってざらだから、気づき損ねた。声に聞き覚えがあったのは、町でぶつかった時に一言だけ聞いていたからだ。

 風呂敷頭は持ち上げた長椅子を、目の前に立ちはだかる龍之進目掛けて振り下ろした。

「危ない!」

 蛇介はとっさに叫んだが、その心配はまたも杞憂に終わった。龍之進は余裕の面構えを崩しもせず、その大振りな攻撃を、腕を構えて事も無げに受け止める。

 流石の食い逃げも、自分と拮抗する怪力の持ち主に会ったのは初めてなのか、たじろぐような素振りを見せた。龍之進が腕を払うと、風呂敷頭も握力を緩めていたのか、支えを失った長椅子は、ごとりと床に落ちた。

 蛇介の方も、龍之進の怪力は知っていたつもりだったが、それはあくまでも、重いものを運んだりするのが得意なんだな、程度に思っていたし、彼がここまで強いとは思っていなかった。

 しかし、考えれば龍之進の前身は山賊だと言うのだから、むしろ物を運ぶより、暴力沙汰の方が得意なのかもしれない。

 龍之進の、普段は苛つかされることもある不敵な笑みが、この時ばかりは頼もしく思えた。身の安全が保障されれば、蛇介の頭の周りも早くなる。

 そう大所帯でもない藤野屋だ。満員御礼となっても、客数は限られる。いつの間にか、客たちは殆ど居なくなっていた。最後の一人がちょうど、転ぶようにして出て行った。つんざくような悲鳴も、雨の中に消えていく。誰かが、警官を呼びに行ってくれるかもしれない。

 それに気づいて、蛇介は少しほっとした。客の狂騒は予想外だったが、少なくとも店の中で、怪我人や人死には出さずに済んだ。店の面目は保たれる。

 家具と食器の破損は頭が痛い。直すにしろ、買い替えるにしろ、相当の出費だ。逃げ出していった客どもの、顔と頼んだ品は記憶しているから、それは後でしっかり取り立てるとして。もうひと稼ぎ、金策を考えないと冬越えに懐が寒すぎる。

 そういえば虎丸はどうしただろう。大部屋で何が起こったか、きちんと把握できているだろうか。訳も分からず客が流れ込んできたのなら、相当困惑しただろうが、まあ、出て来ないということは、上手く逃げたのだろう。

 蛇介は悠長にそこまで気を回してから、ふと疑問を覚えた。

 龍之進と風呂敷頭の間には、またも膠着が訪れている。龍之進はどういうつもりだろうか。逃げるつもりはなさそうだが、風呂敷頭を捕まえる気なのだろうか。それにしては、何かと血の気の多い普段の言動に反して、いやに大人しく、攻撃を受けるままに留まっている。

 蛇介が訝しんでいると、不意に龍之進は口を開いた。

「おい、蛇介」

 しかし、そこから会話が続くことはなかった。龍之進が言葉を発したのに刺激されたのか、風呂敷頭が辺りのものを手当たり次第に、彼に向かって投げつけ始めたのだ。落ちている食器や箸、そんなものに混ざって、椅子や机なんかも、何もかもしっちゃかめっちゃかに宙を舞い始める。

「うわあっ!」

 蛇介はとっさに頭を庇うと、雨あられと降り来る鈍器の間を走り抜け、一番身に馴染んだ居場所である勘定台の下に、長身を折り畳むようにして滑り込んだ。その間に手足を破片で切ったり、なんだかよく分からないもので打撲を被ったりはしたが、何とか無事だ。

「おい、蛇介」

 がっちゃんがっちゃんという破壊音の隙間から、再び龍之進の己を呼ぶ声が聞こえて、蛇介は怒鳴り返した。

「なんだよ! 俺を巻き込むな!」

「巻き込むな、は無いだろうが。お前も当事者だぞ」

「うるさい! 俺にはお前みたいな自衛の術がないんだから、こっちに来られたら、堪ったもんじゃないんだよ!」

「ああ、まあそうか。いやな、こいつをどうすべきか、聞いておきたくてな。あんまり店の中で暴れるのも、お前らに怒られそうだし自重していたが、ここまでくれば関係ないか? 俺はこのまま大人しくしていた方がいいのか? それとも、ぶん殴って取り押さえたりした方がいいか?」

「ああ……」

 どうやら、龍之進が自分から仕掛けずにいたのは、彼なりに店を慮っていたかららしい。

 しかし、風呂敷頭は無我夢中なのか、蛇介と龍之進が堂々と会話をしているのに、まるで頓着せず、龍之進に投擲攻撃を続けている。取り押さえる、という単語が出てきた時点で、身を翻して逃げ出しても良さそうなものなのに。なんだかまるで、二人の会話が耳に入っていないかのようだ。

 蛇介はそれだけ不思議に思いつつも、龍之進に返事をした。

「多分、そいつが例の食い逃げ犯だろうし、まあ、捕まえられるなら、捕まえた方が良いかもしれねえけど……」

「そうか、よし。なら、勢いあまって壁の一つや二つ、ぶち抜いてしまうやもしれんが、応戦するぞ!」

「それは絶対にやめろ、そのまま上手く店から追い出せ!」

「なんだ、支離滅裂な。難しい注文を付けるな」

「当たり前だろ! 事情を汲め!」

「まあ、分かった。頑張ろう。しかし、となるとお前にそこに居られると、ちょっと邪魔だな。絶妙に入り口に近い位置で」

「ああ、そうか……」

 龍之進の指摘も尤もだ。勘定台は、帰り際の客が円滑に会計できるよう、入り口に近い場所にある。上首尾に入り口まで追いやっても、それこそ蛇介が巻き込まれる。

 幸い、入り口に近いということは、このままちょっと駆け抜ければ、すぐにでも逃げ遂せられるということでもある。そう思って、蛇介はさっそく勘定台の下から這い出そうとした。

 しかしその瞬間、狙い澄ましたように、鋭利な木片が蛇介の目と鼻の先に刺さった。

「ひっ」

 蛇介は慌てて首を引っ込める。机か椅子の足だろうが、折れた所がぎざぎざになって、殺傷力が高まっている。壊れたものが増えているのだろう、振ってくるものも破片が多くなって、その分危険性が増している。短い距離でも、なんの防御もないまま走るのは無謀すぎる。

「いや、ちょっと待て。どうする、これ……」

 蛇介が頭を悩ませていると、不意にひょこっと玄関から、虎丸が顔を出した。しゃがんでいるのか、丁度勘定台の下の蛇介と目が合う。

「虎!」

 蛇介が小さく声を上げたのに、彼は人差し指を口に当て、静かにするように合図をした。

 おそらく勝手口から外に出て、正面に回ってきたのだろう。虎丸は、背後から大きな鍋を取り出した。そしてそれを、音が出ないように蛇介に向かって滑らせた。

 手元に滑ってきた鍋に、蛇介は得心をする。鉄製で大きく、少し浅めのそれは、ひっくり返して被れば、破片の雨に対して丁度いい笠になる。

 蛇介は鍋で頭を隠すと、勘定台の下から這い出した。そして身を低くして、虎丸の方に向かって一目散に走り抜ける。鍋に何かが当たってがんがん鳴る音で、耳が痛かったが、怪我をするより幾らもましだ。

 これで上手くいく。しかし蛇介がそう思ったとき、龍之進の怒声が響いた。

「待て貴様! どこに行く!」

 蛇介は、目の前の虎丸が、自分の背後を見て目を見開くのに気づいて、振り返った。

 そこには、風呂敷頭が浮かんでいた。おそらく跳躍したのだろう。四肢を広げた風呂敷頭が、襲い掛かるように降ってくる。鉤爪のように曲げられた五指が、蛇介の顔に迫ってくる。

 ほんのさっきまで、風呂敷頭は龍之進に気を取られていたはずだ。その集中を逸らしてしまったのは、鍋を被って走る蛇介や、金髪の虎丸が、それだけ目についたということだろうか。

 あの怪力で。蛇介は思った。顔を、頭蓋を掴まれたら、自分の頭は簡単に潰れるのではなかろうか。

 その思考を遮るように、突如ぐいっと首根っこを引っ張られ、蛇介は辛くもその魔の手からすり抜けた。彼の顔を掴み損ねた手が、土間の土を抉る。風呂敷頭は、しなやかに四つ足で着地すると、逃した獲物を見るような仕草で蛇介を振り返った。

 蛇介を引き寄せたのは虎丸だった。彼は尻餅をついた蛇介をそのまま引きずって下がると、彼を庇うように、風呂敷頭を威嚇するように、包丁を取り出して構えた。

 しかし、風呂敷頭は刃物をものともせず、あるいは刃物を取り出されたことで、余計に逆上したのかもしれないが、再び二人に飛び掛かってきた。

 それは本当に獣じみた動きだった。手足をばねに一気に肉薄してくる動きに、虎丸も対処が遅れた。その一瞬の間に彼に取れた行動は、隣にいた蛇介を突き飛ばして、距離を取らせることだけだった。

 そのまま、縺れ合って虎丸と風呂敷頭は表に転がり出て、揉み合いになる。しかし、武器を持っている分、まだ虎丸の方が有利なはずだ。龍之進も、下手に刃物を交えた取っ組み合いに割り込むのは危険と判断してか、手を出し損ねているようだった。

「刺せ! 虎!」

 蛇介は叫んだ。手足なら、多少刺したところで死ぬことはないはずだし、この状況なら、相手に怪我を負わせたところで、咎められる謂れはない。それに虎丸は、元人斬りだ。足を洗ったとはいえ、慣れたことで、簡単なことだろう。蛇介はそう思った。

 しかし虎丸は、なぜか包丁を取り落とした。もちろん刃物を構えたからと言って、本気で刃傷沙汰を起こす気は無く、動揺したのかもしれない。だが、それにしても不自然なほど、簡単に包丁は彼の手を離れた。

 素手の揉み合いになれば、軍配は怪力の風呂敷頭に上がる。龍之進がそこに飛び込もうとしたが、勢い余って外に飛び出し、ぬかるんだ泥で盛大にこけた。こんな時でもなければ笑えた間抜けっぷりだっただろうが、土壇場では致命的な遅れだった。風呂敷頭の鉤爪が虎丸の顔に迫る。

 蛇介は咄嗟に辺りを見回した。戸口の辺りまで、色んなものが散乱している。なんでも良いから、とにかく何か。そんな時、彼の眼の端に、鮮やかな黄色が映り込んだ。手の届く位置だ。蛇介は、それが何かを確認する暇もなく、とにかく必死でそれを掴んで、風呂敷頭に投げつけた。

 しかし、手を離れ、真っすぐに飛んでいくそれが、何だったのかを視認した途端、蛇介は絶望した。

 それは、『不見守り』と書かれたお守り袋だった。亀蔵の忘れ物だ。おそらく、勘定台に置いていた忘れ物箱が、あの騒ぎの中落っこちて、中身があんな所に転がっていたのだろう。だが、布と糸でできたお守り袋が、その中身のお札だか何だかが、いったいこの状況で何の役に立ってくれるというのだろう。御利益だか御加護だかが、食い逃げの暴行を解決してくれるはずがない。

 ああ、もうお終いだ。龍之進が起き上がって、あの風呂敷頭に攻撃を食らわせるまで、虎丸の顔は原形を保っていてくれるだろうか。

 そのお守り袋はくるくると宙を舞い、風呂敷頭の着物の、たくし上げた袖の折り目に挟まった。攻撃どころか、相手の気を引くことさえできない様な、あっけなく無意味な悪あがきだった。

 けれど、その瞬間、風呂敷頭は動きを止めた。振り上げた手もそのままに、混乱したように、あたりを見渡す。そして、虎丸への追い打ちも中断して立ち上がると、きょろきょろと首を動かし、手を伸ばして宙をかき回すような素振りを始めた。

 虎丸は何が起こったのか分かりかねたが、それでもこれを好機と、立ち上がって慎重に風呂敷頭から距離を取った。

「おい、何をした、蛇介。奴め、急に虎丸から離れたぞ」

「わ、分かんねえ……俺はただ、近くにあったから、例のお守りを投げただけで……。と、とにかく虎、今のうちにこっちに来い」

「あ、ああ……」

 蛇介に促されて、虎丸は二人のもとに駆け戻ってきた。風呂敷頭が、その動きに反応して襲ってくるということは無かった。遠巻きに三人は、風呂敷頭を観察する。

 風呂敷頭は、相変わらず手を伸ばして空を搔いている。なんだかそれは、暗闇を手探りで歩いている仕草に似ていた。

 そして、風呂敷頭はついに、ふらふらと覚束ない足取りではあるが、町の方へと歩き出した。

「追うか?」

 その様子を見て、龍之進が尋ねた。蛇介が悩むように答える。

「いや、でも……このまま居なくなってくれんなら、俺らとしてはその方が良いからな」

「あ、でも、亀蔵さんのお守り、あいつが持ってっちまうぞ」

 虎丸が思い出したように言う。

「いや、まあ、それは許してくれるだろ。仕方ねえよ。ていうか、警官が捕まえてくれりゃあ、それでいい話で……」

「だが、捕まえられるのか?」

 龍之進は首を傾げた。

「あの食い逃げを、警官がどうにかできるのだろうか?」

 その質問に、蛇介と虎丸は顔を見合わせた。二人の脳裏には、あのきんきん声の兄と、のんびり屋の弟の双子の姿が思い浮かぶ。

「それは、確かにそうだな。この街に、龍之進と同じくらい力のある奴が、そうそう居るとは思えねえし……あの二人が、そんな怪力だとも思えねえ」

「警官はあの二人だけじゃねえだろうけど、それでもこんな片田舎に駐在している人数なんか、たかが知れてるよな」

「そしたら、あの食い逃げはこのまま野放しか……なら、この被害はずっと続くのか?」

 虎丸が不安そうに言った。

「そうなると、また奴が来る危険もあるし……このまま被害が拡大して、警官が増員されるとかになっても、俺らにしたら居心地の悪い話だよなあ」

 蛇介も唸る。

「……俺はあれが、警官とかの手に負えるものだとは思えん。だが、存分に暴れて良いと言うなら、俺がどうにかしてやれる」

 龍之進はそう言うと、ふらふらと遠ざかっていく風呂敷頭の後ろ姿をちらりと見やってから、もう一度二人を見返して、確かな返事を催告するように尋ねた。

「追うか?」

 虎丸と蛇介は、はっきりと頷いた。

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