しずけさ

「ああ、えっと、藤野屋の次男さん」

 ある昼、切らした墨を買い足しに街に出た蛇介は、随分のんびりとした口調で呼び止められて、辺りを見渡した。

「こんにちは、この前ぶりですね」

「……あ、えっと、もしかして亀蔵さん、ですか?」

 ゆったりとした足取りで近寄って来る男に気づいて、蛇介は恐る恐る尋ねた。

「ええ、そうですよ」

「これは、どうも。すみません、一瞬分かりませんでした」

「ああ、そうですよね。同じ顔の兄も居ることですし、初めに名乗るべきでした」

「いえ、見分けが付かなかった訳ではなく……前とだいぶ、御恰好が違いましたから」

 蛇介はその先の言葉を少し迷ってから、濁すように言った。

 それもそのはずで、亀蔵は服こそ依然と同じ警察の洋装だったが、上着を脱いだシャツ姿に警帽も被っておらず、きっちりとした印象が崩れて、かなり粗雑な風体になっていた。

 そして何よりも、彼は泥んこだった。袖や裾を捲り上げた手足には、まだ乾ききらない泥が滴るほどで、片手に携えた鋤も相まって、街中に居ながらも、たった今田植えから帰って来たばかり、とでも言わんばかりの有様だ。

 蛇介の言葉に暗に込められた意味を察してか、亀蔵はぼんやりと笑った。

「おや、これは失敬を。すっかり失念しておりました。こんなお見苦しい姿で、お恥ずかしい限りです」

「いえ、お気になさらず。しかし、何があったんですか?」

「ええ、実は市民の方からご相談があって、この前の雨で溝が詰まってしまったとか。それで、お掃除のお手伝いに行って来たところでございます」

「それは、お疲れ様です。大変ですね、警察の方も」

「そうですね。でも警官などは、頼られてなんぼ、というものですから。お役に立てるのも嬉しゅうございます」

 路傍でそんなことを話しながら、蛇介は居心地の悪さに身じろいだ。亀蔵はまったく気にしていないようだが、流石に泥だらけの男が往来に突っ立っているのが目立つのか、ちらちらと視線を感じる。

「……あの亀蔵さん、差し出がましいようですが、その辺で井戸でも借りて、軽く洗われた方がよろしいかと」

 そして蛇介は、きょとんとしている亀蔵の背を軽く押して、近場の共同井戸まで促した。

「お手数をかけてしまって、申し訳ありません。蛇介さん」

「いえ、お気になさらず。ところで亀蔵さん、裸足のようですが、お靴はどちらに?」

「ああ、初めから裸足です。汚れると思いましたので、履いてきておりません」

「そうですか……足の怪我にはお気をつけください。まあ、とにもかくにも、こちらでその汚れは流してしまいましょう」

「はい」

 そこで亀蔵は、蛇介に促されるままに、組み上げた水で手足を清めた。

 そしてすっかり小綺麗になると、彼は井戸端の小岩に腰掛けて、濡れた手足を乾かすように伸ばした。その様は、甲羅干しをして首を伸ばす亀を思わせる。蛇介は、その辺りで立ち去ろうと思ったのだが、一拍判断が遅かったのか、亀蔵ののんびりとした世間話に絡めとられてしまった。

「水が冷たくて気持ち良いです。気付いていませんでしたが、随分熱くなっていたようです」

「あ、はい。夏ですからね」

「でも、泥まみれでは、それは人目を引くのも道理でございますね。私ときたら、こういう事にはてんで疎いものでして」

「そうなんですね」

「身嗜みなど、あまりに気が付かないものですから、いつも兄様のご機嫌を損ねてしまうのです」

「ああ、鶴吉さん、神経質そ……いえ、厳格そうですよね」

「ええ、お洋服の着方など難しいのに、兄様は釦を掛け違えることがないのですよ」

「亀蔵さんは、よく間違えていそうですね」

「はい、もう、毎朝。あんまり、もたもたしているので、いつも兄様に雷を落されるのです」

「それは、お兄様も大変そうですね。……あ、そう言えば、亀蔵さん、この前いらっしゃった時、お守りを忘れていかれましたよ。山吹色の、何か、みず? ふけん? 守りと書かれた物なのですが」

「ああ、藤野屋さんに落としてしまっていたのですね」

「探していらっしゃったんですか?」

「探せ、とは言われていました」

「……でも探していなかったんですね?」

「見つかればいいなあ、とは思っていました」

「そうですか」

「ことが落ち着いたら、探しに行こうと思っていたのは本当です。後輩から貰った大切なものですから」

「はあ、えっと、大切な物なら今からでも、お待ちいただければ、ひとっ走り取ってきますよ」

「いえ、それは申し訳ないですし、そのうち取りに参りますね。ご飯も美味しかったですし、また食べに行きたいですから」

「気に入って頂けたなら、嬉しいです。是非ご贔屓に。それではお待ちしておりますね」

「はい。たしか、虎丸君が料理人なのでしたかしら。料理上手でいらっしゃいますよね。私など、何を作っても悉く焦がしてしまいますから、羨ましいものです。……何がいけないのでしょうね?」

「……えっと、私には何とも」

「そう言えば、虎丸君の髪って金色、なのですよね」

「ええ。そうですよ。金……と言うか、銀と言うか、少しくすんだ色ですけれど。あれ、ご覧になりましたよね?」

「そうなのですね。いえ、実は私、少し目の見え方に欠陥がありまして、色がきちんと見えていない時がある様なのです。私が金色と言ったときに、彼が随分戸惑われた様ですから気になっていて」

「なるほど。いえ、あいつも嫌がってはいませんでしたし、お気になさらないでください」

「それは良うございました。あ、それともう一つ、伺いたいと思っていたことがあったんです」

「なんですか?」

 亀蔵はそろそろ手足が乾いたのか、無造作に捲っていた裾を下しながら言った。

「蛇介さん、御兄弟と血は繋がっていらっしゃいますか?」

 今までの益体もない話と全く同じような調子で、亀蔵は他意も含みも無いように尋ねた。かなり配慮に欠ける話題ではあるが、亀蔵からすれば本当に他愛のない世間話のつもりなのかもしれない。

 けれど、その裏を蛇介は疑わずにはいられない。血の繋がらない赤の他人の三人組。家族芝居の理由を掘り下げられれば、その奥には後ろ暗い秘密が隠れている。

 蛇介は一瞬引き攣りかけた頬の筋肉を引き締めて、努めて笑顔を保ちながら、しかし、少し不機嫌を演出して聞き返す。過敏になり過ぎても怪しいし、あっけらかんとし過ぎていてもおかしい。あくまでも、無神経なことを聞かれて気を悪くした藤野家の次男として、蛇介は尋ね返した。

「……どうして、そんなことを?」

 蛇介が言葉の裏に滲ませた警戒心を、彼の意図通りに受け取った亀蔵は、しまったと言うように目を泳がせた。

「すみません、不躾でしたね。その……お顔が、あまり似ていらっしゃらなかったので……もしかしてと思ってしまって」

「似ていない兄弟くらい幾らでも居ますよ。世の中、貴方達みたいな双子ばかりじゃないんですから」

「ええ、ええ、そうですね、申し訳ありません」

 きつくなった蛇介の口調から、逆鱗に触れてしまったことを察したのか、亀蔵は申し訳なさそうに項垂れた。

 しかしそこで、どう話を続けようかと、目まぐるしく回る蛇介の脳裏に一つの閃きが起こった。彼は内心ほくそ笑みながら、一つ溜息を吐く。そして、数秒、重苦しい雰囲気が充分に浸透したのを見計らってから、どこか悲しく見える様に顔を作って、吐露するような調子で言った。

「申し訳ありません、少し感情的になってしまって。実は、片親が違ったりはするらしいんです。子供の頃のことなので、はっきりとは分からないんですけれど……」

 ここでこう言うことで、この先万が一龍之進や虎丸がぼろを出したり、言う事が食い違ったりしても、良い言い訳の備えができると踏んだのだ。

 蛇介の思惑通り、亀蔵はおろおろと狼狽えながら頷いた。

「そうなのですね。すみません、ご家族のことに土足で踏み込んでしまって……」

「いえ、亀蔵さんが気づかれたという事は、いつかは分かることですし。それに、親が違う兄弟だって珍しくも無いですしね。私が気にし過ぎているだけかもしれません」

「本当に申し訳ありません……」

「こちらこそ、大人げない態度を取ったうえ、こんな身内ごとまで聞かせてしまって……。上手いこと水に流して忘れてください。気にしないでくれ、というのも図々しいお願いですが、是非今後とも変わらず店をご贔屓いただければ、嬉しい限りです」

「ええ、近いうちに必ず伺います。今日は何から何までありがとうございました」

 そして雰囲気がやっと和らいだ辺りで、亀蔵はゆっくりと身支度を整え始めた。そして、そこで思い出したように蛇介を見上げて、相変わらずぼんやりとした顔で微笑んだ。

「ああ、そうだ蛇介さん。あのお守り、良いご加護がありますから、何かあったらお使いください」

「あ、はい。ありがとうございます」

 そう言って亀蔵は、のんびりと立ち上がり、深く頭を下げると、ゆっくりと歩き去って行った。その後ろ姿が充分に遠ざかって、見えなくなったところで、蛇介は今更思いついたように呟いた。

「……お守りって、『使う』もんじゃないだろ」


 その頃藤野屋の台所では、虎丸と龍之進が蛇介の帰りを待っていた。ひと仕事終えて、板間に腰掛けている龍之進は寛いでいて、一方火の番をしている虎丸は、ちらちらと勝手口に目を向けたり、正面口の方を気にしたりする素振りを見せている。

 虎丸は、独り言のようにぽつりと呟いた。

「蛇介、遅いな」

 それに、龍之進が伸びをしながら答えた。

「そうだな。すぐ帰って来ると言っていたのだが」

「また変なことに、首突っ込んでたりしないよな」

「さあ、どうだろうな。あいつは俺にはがみがみ言うくせに、自分も結構落ち着きがない」

「うん、積極的ではないにしろ、割と無鉄砲だから心配だ」

「まあ、お前に据えられた灸が効いているようだし、滅多なことはしなかろう」

「だと良いけどな」

「で、お前は何を作ってるんだ? 美味そうな匂いだが、今は何の注文も出てないだろう?」

 龍之進は、ぴょんと弾みをつけて立ち上がる。台所には甘辛い香りが、ふんわりと漂っている。匂いのもとは、虎丸が団扇でぱたぱたと扇いでいる、金網に乗った食材だ。

「ああ、ほら、店を始めてしばらく経ったけど、そろそろ人気の物とか、逆にあんまり売れない物とか、分かって来たから」

「ふむ、それで?」

「そうなると、食材にもよく使うものと、余るものが出て来るだろ。だから、余ったものを美味しく使い切れる様な品を作れないもんかと思って、空き時間に色々試してる。これは茄子の蒲焼。俺らの昼飯も兼ねて」

「かばやき?」

 龍之進は、虎丸の隣に立って、彼の手元を覗き込んだ。薄切りにされた茄子が、程よく炙られて、じゅうじゅうと音を立てている。

「たれで照り焼きにした料理のこと。大抵は魚の場合が多いんだけど、今回は茄子。旬の野菜だしな。これを飯に乗っけて食ったら美味いぞ」

「ああ! それはいいな! 今すぐ食べるか!」

「いや、まだ出来てないし、昼には早いし、蛇介も帰って来てないから……」

「今すぐ食べるか!」

「……味見、一口だけだぞ」

「うむ!」

 虎丸は言外の期待に折れて、茄子の一つを小さく切って小皿に乗せてやる。龍之進はそれを軽く冷ましてから口に放り込んだ。それでも熱かったのか、彼はしばらく口から湯気をぱっぱと吐き出していたが、やがて十分に冷めたのか慣れたのか、咀嚼を終えて飲み込んだ。

「美味い!」

「そうか」

「柔らかくて、舌触りがいいな。味も俺好みだ!」

「それは良かった。茄子は結構、好き嫌い別れるんだよな。だから売れ残ってる。さっぱりしてて食いやすいと思うんだけど」

「ああ。しかし俺も、ろくでもない野菜だと思う一人だった。甘いのだか苦いのだかはっきりしないし、微妙に青臭いし、ぶよぶよしているし、形も変で色も毒々しいし。ところがどうして、なかなかやるじゃないか。見直したぞ、茄子」

「嫌いだったのかよ。いや、逆にそこまで嫌いだったなら、よく躊躇いなく食ったな」

「匂いが良かったからな」

「でも確かに、これなら味が濃い目だから臭みも消えるし、食感も水気が飛んでふんわりするから、茄子が苦手な人でも食べてもらえるかもしれねえ」

「そうだな。ところで、もう一口」

「あとは昼飯の時」

 ちらっと目配せを送る龍之進に、虎丸は首を振った。

「ただいまー」

 ちょうどその時、勝手口の戸が引かれた。蛇介が心做し疲れた顔で、入ってくる。

「おう、おかえり。遅かったな」

「あー、ちょっと思わぬ足止め食らってな。なんだ、めっちゃいい匂いすんな」

 蛇介は、辺りの香りに鼻をひくつかせて、ぱっと顔を明るくする。

「そうだろう、そうだろう! 昼飯は茄子の蒲焼だぞ!」

 何故か龍之進が自慢げに言う。虎丸は、そんな彼に軽く笑って言った。

「じゃあ、蛇介も帰ってきたし、そろそろ昼飯の準備始めるか」

 大抵三人は、店の営業の合間に、台所で昼飯を食う。忙しい日は、揃って休む訳には行かないので、それぞれ個別に時間をずらして掻き込むが、余裕のある時には、何となく顔を突き合せて食事するのが習慣になっている。

 やがて、茄子が焼き上がると、龍之進が炊きたての米を、真朱色と不言色と若苗色の茶碗に盛って、火元に立つ虎丸の所に持ってくる。それに順番に虎丸が茄子の蒲焼を乗せて、さらにたれをかける。その傍ら、蛇介が用意されていた味噌汁を盛り付け、漬物を小皿に入れて添える。

 そして、正午の鐘が鳴る頃には、三人は板の間に座って、昼飯を前に両手を合わせていた。

「いただきます」

「うん。美味いな! これ」

 蛇介が一口食べて、そう言った。

「これは新しく売るのか?」

「んー……どっちかって言うと、在庫処分みたいなもんだから、お品書きに加える程のもんではないかな。売れるなら、また作ってもいいんだけど」

 虎丸の返事に、蛇介は少し考えてから、思いついたように売った。

「じゃあ、お試しで売ってみっか。ちょっと安めにいくつか売ってみて、人気が出るようなら、定着させればいい」

「なるほど、お試し売り切り品、として売るのか」

「ま、売り切り品って言うと聞こえが良くねぇな。ここはこうしようぜ」

 そうして蛇介の腹案に沿って、翌日藤野屋の入口には一枚の紙が、でかでかと張り出された。

『茄子の蒲焼丼定食、限定十食まで』

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