なきごえ

 明くる日は一日、どんよりとした曇天だった。

 今にもまた決壊しそうな暗雲に覆われて、昨日の雨の名残も乾かぬ街は陰鬱だ。蒸れた土の匂いの垂れ込めるのも、雰囲気に拍車をかけている。

 今日も今日とて客の流れをさばき切り、いつもの閉店の刻が迫る藤野屋は、閑散としていた。

 日が出ていればとっくに傾いて、橙色が屋根の端々に溜まる頃合だと言うのに、空模様は朝から変わらず暗いままだ。

「せっかく夏だって言うのにな」

 蛇介が暖簾越しに外を眺めて呟いた。

「確かにな。涼しくなるのはいいけど、こう暗いと気が滅入る」

 独り言に返事があって驚いた蛇介が顔を上げると、いつの間にか隣に虎丸が立っていた。彼は勘定に追われていた蛇介を労うように白湯を差し出し、自分もその隣に腰掛けた。

「こういう、今すぐ降り出しそうなまんまの空模様は嫌だよな。いっそ降ってくれれば良いのに」

 虎丸の言葉は蛇介にもよく分かった。

 今にもどうにかなりそうなものは、やたら緊張感やら、焦燥感やらを掻き立てるから良くない。どうにかなりきったものなら、まだ諦めがつくし、いっそ清々しいというのに。

「だよな。で、なんか話か?」

 蛇介が問いかけると虎丸は軽く頷いた。

「材料の数確認してたら、思ったより減りが早いのがあって……」

「なんだ、また付喪神か?」

「いや、そうじゃなくて、よく注文されるやつがな」

「ああ、なるほど」

「いくつか、この調子で売れてくと、もう暫くで底が着きそうな食材があるから、近い内に買い足したくて……」

「そうか、何がどれくらい必要か、あとで書き出しといてくれるか?」

「おう。あと相談なんだけど、暑くなったら物が腐りやすくなるから、ちょっと手間だけど、少しずつこまめに買い足す方がいいと思うんだ」

「え、食べ物って暑くなると腐るのか」

 虎丸に、何言ってんだこいつ、と言う困惑と訝しみの入り交じった目で見られて、慌てて蛇介は弁解した。

「あ、いや、違う。ふざけてる訳じゃねえよ。生まれてこの方料理とか、そういうのに触れた事がないから、本気で、常識からわからねえ」

 その狼狽っぷりを暫くじっとりと見つめてから、虎丸はふっと息をついて、軽く笑った。

「……そうか。なら、仕方ねえのか。揶揄われたのか、本気で言われたのか、判断しかねてな。怒るべきか、真面目に答えるべきか少し悩んだ」

「いや、こっちこそ」

「簡単に言うと、暑いと肉とか魚はすぐ痛むし、虫とかも湧くんだ。野菜もだけど。それに湿気も良くない。黴とか変な茸とか生えてきたりもするし……」

「ああ、茸な……それは良くない」

 蛇介は、脳裏に真っ白な毒茸の入った鍋を思い浮かべて深く頷いた。

「でも、今より買い出しの頻度を増やさなきゃだし、忙しくなるって言うか、負担になるかもしれなくて……。乾物とか、日持ちするものを中心にした献立にする手もあるけど、でも、せっかくだから旬のものを使いたいとも思うし、どうしたもんか、相談しとこうと思って」

「買い出しは手間じゃねえよ。売り物には妥協しないでいこうぜ。真っ当なやり方で稼ぐなら、商品の質にはこだわんなきゃな。季節に合わせて、その時期一番美味いもの。いい物はよく売れる。単純明快、小細工無しの正攻法だ」

「……どうしてかな。真っ当じゃない、複雑怪奇で細工は流々の搦手ありきに聞こえる言い方だ」

「ははは。荷物持ちは龍にやらせりゃいい。あいつにすりゃ、買い出しくらい、何往復でも朝飯前だろ。生憎、俺は食材の目利きはさっぱりだから力になれねえが、その分朝の支度なんかの、お前らの分担を俺に振り分けりゃ、市場を回る時間も捻出できるだろうし」

「そうか、ありがとうな」

「礼には及ばねえよ。俺ら全員の事なんだから」

「……ああ」

「そう言えば、龍はどこ行ったんだ?」

 蛇介は思い出したように辺りを見渡した。思い返せば随分前から、あの背丈に反して、やたらと大きい存在感というか、圧迫感というかが感じられない。

「ああ、龍は今出かけてる。ちょっと頼み事をしたんだ」

「頼み事?」

「おう。少し、使いを。そう遠くないし、すぐ帰ってくると思うけど……。あ、悪い、これ以上客は来なそうだと思って、さっき勝手に頼んじまったんだ」

 説明をする内に、独断で彼に外出をさせてしまったことを、不手際に感じ始めたのか、虎丸は軽く頭を下げた。

 龍之進は蛇介と客の対応をする事が多い為、今手は足りているか、一人欠けても平気か、と彼に伺いを立てるのが筋だったと思ったのだろう。

 そんな気配りが行き過ぎて、いっそ気にしいともいえる虎丸の配慮に、蛇介は苦笑した。

「良いんだよ、お前の見立て通り、暇だしな」

 銭勘定もすっかり終わっている。帳簿を閉じて、蛇介は再び暗い空を見上げた。

「そう言えば、大陸の方だったか、『雲は龍に従い、風は虎に従う』みたいな感じの言葉があるそうだ。お前と龍とで、何とかこの曇り空を吹き飛ばせないもんかね」

「ふうん……蛇は?」

「ん?」

「蛇は何か無いのか?せっかく、龍も虎もあるなら」

「ああ、うーん……これという諺とかは思い当たらねえけど……あ、でも、雷の神様が蛇の姿をしてる、みたいな話があったか?あとは、蛇は水神に繋がることが多いとか」

「へえ、雷と水となると、……雷雨かな」

「雲と風と雷雨か……三人揃って嵐だな」

「吹き飛ぶどころか、悪化したな」

「全く、ろくでもねえな」

 軽口に二人が笑っていると、近づいてくる足音が聞こえた。聞きなれた歩調に次いで、大きな声が三人目の帰宅を告げた。

「ただいま帰ったぞ!」

 風呂敷包みを背負った龍之進が、ひょっこりと顔を出す。

「注文の品、確かに貰ってきたぞ!」

 そう言って彼は荷物を机に下ろし、風呂敷を解いて、中から木箱を取り出した。

「なんだ? 注文の品って」

 首を傾げる蛇介に、虎丸と龍之進は顔を見合わせて、それから二人して、少し悪戯心を含んだ得意げな笑みを浮かべた。

「実は、俺と虎の取り分から少しずつ出し合ってな。ほら見ろ!」

 そう言って龍之進は、ぱかっと木箱の蓋を開けた。ぷわっと籾殻の粉が舞い、箱の中には紙に包まれた塊が三つ収まっていた。

「なんだこれ」

「あ、この不言色のが蛇介のだ」

 虎丸がその内の一つを取り出して、軽く中を覗いてから、蛇介に手渡す。

彼は、何が何やらといった顔でそれを受け取り、包み紙を剥いだ。

「おお」

 厳重な包装の下からは、ほんのり赤みがかった黄色の茶碗が現れた。その表面には黄金色の線で、網目のような模様が広がっている。暖かい黄色の陶器の上に、滑らかな金色の輝きが鮮やかで、蛇介は思わず感嘆の声を漏らした。

「凄いな、なんだこれ」

「ふふん、『金繕い』と言う奴だ。な、虎」

 龍之進が教わった言葉を自慢げに披露した。そんな彼に話を振られて、虎丸も笑う。

「おう。割れた瀬戸物を漆で継いで、金粉で飾る修理方法なんだ。前、付喪神たちに割られた奴のうち、三つ厳選してな。俺らの使う分だけで精一杯だったけど、せっかくだから、直そうと思って」

 虎丸の言葉に返す様に、かたん、と台所から物の擦れ合うような音した。

「付喪神どもめ、自分の悪さをほじくり返されて、肩身が狭いと言う感じだな」

 龍之進の軽口に、蛇介が苦笑した。

 虎丸がその横で、残りの二つの包みを解いていく。若苗色と真朱色の茶碗が一つずつ出てくる。柔らかい薄緑にも、少しくすんだ紅の色にも、金色はそれぞれ違った味わいで溶け込んでいた。

「蛇介が不言色で、俺がこれ、龍之進が真赭だ。一番お前らの雰囲気にあってると思って、直すのはこれにしようって決めたんだ」

「つうか、俺にも金払わせろよ。いくら俺がケチでも、こんな計らいに反対するほど無粋じゃねえぞ」

「いや、こっそりやって驚かそうかって話になったから……」

口を尖らせる蛇介に、虎丸は申し訳なさそうに言い淀んだ。

「この俺の色は『まそお』か?」

「おう」

 龍之進が首を傾げるのに虎丸は頷いた。蛇介もそれに同調する。

「確かになんか似合うな。俺のこれは? いわぬいろ? って言ってたな」

「おう。お前いつも暗い色ばっか選ぶけど、案外明るいのも似合うと思うぜ」

「ふーん、でも言わぬ色って、どういう意味だ?色が喋らないってことか?」

「いや、梔子の実で染めた様な色の事だよ。『くちなし』から、口が無いって事で、不言色」

「へえ、洒落が聞いてんな。けど、俺から口を取ったら、何も残らねえぞ。黙ってる俺ほど、役に立たないもんはねえ」

「……変わった自信だな」

「真朱はどうだ? 真朱にはどんな意味がある?」

 龍之進が自分の茶碗を掲げながら尋ねる。

「とにかく朱いって感じかな」

「奇も衒いもないな」

「お前はとにかく、朱色の類のさっぱりした色が似合うと思うぜ」

 少しへそを曲げかけた龍之進だったが、似合うと言われて持ち直したらしく、今度は虎丸の茶碗に目を向けた。

「虎丸は薄緑だな?」

「お前のは分かりやすいな、若苗色。すごく、らしい」

「それに、苗という字は猫に似てるしな。虎は確か、猫の仲間なのだろ?」

 大袈裟に頷く龍之進に、蛇介が口を挟む。

「逆だぞ、それ。苗が猫に似てるんじゃない。苗が先」

「ああ確か、なーえ、って鳴くから、猫を表す字に苗が入ったんだっけか」

その注釈に、虎丸が思い出したようにそう言ったが、蛇介は軽く首を振った。

「いや、鳴き声なのは正解だけど、大陸の方の、『ミョウ』って読みが似てるかららしい。けど確かに『なえ』って読みでも、結構鳴き声っぽいな」

「なるほど、みゃーみゃー言うもんな。でも、猫って甘えてる時は可愛いけど、怒った時は割と怖いよな。目とか声とか」

「ああ、それはちょっと分かるかも……」

「しかし、せっかく茶碗も新調できたし、夜は混ぜご飯にでもするか。飯を主役にするとして、魚と茗荷があるから……」

「あ、そう言えば、帰り道権太に会ったのだ」

 唐突に脈絡なく龍之進が言った。

「奴の店が再開したらしい。良ければ今日にでも飯を食いに来ないかと、つい先程言われた。虎丸への詫びも兼ねて、来たら奢るからと」

「タダ飯か」

 龍之進の説明に、蛇介の目が輝いた。

「あとはまあ、うちの飯を是非虎丸にと」

「龍之進の知り合いだったはずなのに、すっかり虎丸の友人になってるな、権太さん」

「ああ、料理のこととか、結構話が合うんだ、権太さんとは」

「しかし、あいつは多分お前らより年下だぞ。さん付けなど、する必要はないと思うがな」

「へえ、そうなんだ……いや、まあ、何となくそうかなとは思ってたけど、ここまで呼び慣れちゃうと今更な」

「ま、それはいいとして。でもせっかく招待してもらったなら、今夜はお呼ばれするか。奢りだからって言うのは抜きにしても、同じ飯関連の店と付き合いがあって困るこたぁねえしな」

「うむ! ちなみに刺身がおすすめらしいぞ! 取れたての奴を捌くと!」

「そうか、それは美味そうだ。じゃあ夕飯は権太さんのところってことで、茶碗は朝飯までお預けだな」

 そう決めると蛇介は帳簿を片付け始め、虎丸は茶碗をまた一つ一つ包んで木箱にしまい直した。

 そうして藤野屋閉店後、三人は夜の迫る街へと繰り出した。

 権太の家族が営む店は、海の傍ら、浜へと下る坂道を背に建っている。

 潮騒が絶えず微かに響く様な穏やかな立地だが、店自体は、その粋な調べをかき消す程に賑やかな客の喧騒に溢れ、曇りの陰気さにも負けない活気に満ちていた。

 『網代飯店』と書かれた大きな一枚板の看板が、提灯に煌々と照らされている。

「おっ、権ちゃん、藤野さんちの三兄弟が来てるよ!」

 客の一人が店を見上げる三人を見つけて、奥の方に呼びかけた。すると、呼び掛けに答えて、わらわらと客たちが出てきた。

「おおっ、てことは三男君来てる?」

「本当に虎柄だ」

「ありがたやーありがたやー」

「えっ」

「なにごとだ?」

 何故か虎丸を囲いこんで、手を合わせ始める者たちがいるのに、蛇介と龍之進は首を傾げた。

「おっ、お前らよく来たな! いらっしゃいませ」

 客たちにやや遅れて、権太が現れた。彼は三人を見つけて破顔した。

「あの、あれ、なんです?」

 蛇介は、人に囲まれて困惑している虎丸と、本気が洒落か、彼を拝む人の群れを指して尋ねた。

「ああ、あれな。いや、虎丸の噂が独り歩きしてて、会ったこともないのに、言いたい放題な奴らがいたからよ。それで思わず『金の御髪に虎の文様なんて、滅多にないもんだし有難いだろ、崇め奉っとけ』って言っといたら、いつの間にかな」

「うちの虎が知らぬ間に大明神になっているだと?」

「蛇介もなってるぞ。韋駄天の仲間で瞬足のご利益があると、子供たちの間で大人気だ」

「道理で、最近子供に指さされると思ったら……」

「俺は何かないのか?」

「あー……」

「いや、俺も虎も別に本当に神様って訳じゃ……」

 龍之進の台詞に蛇介が苦笑していると、権太が彼にこっそりと囁いた。

「当人には言いにくいけど、龍之進は近場の子供に、鈍足と水難の呪いをかけてくる妖怪扱いされてる……」

「ああ、びりっ欠になるのと、溝に嵌るところを見てた子がいたんだな……」

「おい、何をひそひそしている?」

「何でもない、何でもない。それより、ほら、早く入れよ。皆も、そろそろ虎丸を離してやれよ」

 龍之進の問い詰めから逃れるようにそう言って、権太は三人を店へと招き入れた。

「待ってろ、今お品書きを持ってくる。疑ったお詫びと、再開記念のお礼だ。目一杯食ってってくれ」

「ああ、遠慮せず食い尽くすことにする」

「尽くすのは勘弁してくれ」

 権太の心づくしか、三人は店の中でも大きな机に案内された。

 席に着くと、権太が品書きを手に、一人の女性と連れ立ってやってきた。

 小柄でふっくらとした中年の女性は、どことなく目鼻立ちが権太に似ていた。彼女は少し窶れていたが、柔らかく微笑んで言った。

「いらっしゃいませ。息子がお世話になったそうで。今日はぜひ楽しんでいってくださいね」

「女将さーん」

「あ、ごめんなさいね、本当はもっとお礼とか言いたかったんですけれど、失礼します。権ちゃん、あとよろしくね」

 そう言って頭を下げて、彼女はぱたぱたと走り去って言った。

「優しそうな母ちゃんだな」

 虎丸に言われて、権太は照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。

「お前らが来たって言ったら、どうしても挨拶するんだって。悪いな。これ、お品書き。何でも頼んでくれ」

 網代飯店は、開かれた雰囲気の大衆居酒屋で、客層は漁師や職人のような、働き盛りの活力的な者が多い。食事はしっかり腹に溜まるような品が揃えられ、酒を楽しむ趣も、藤野屋とはまた異なった魅力のある店だった。

 既に大分出来上がった先客たちが、陽気な歌を歌っていたり、大声で笑いあっていたりして、騒々しいという言葉がぴったりだが、不思議とそれは耳障りと言うよりは、心地よく気持ちを浮き立たせてくれる。

「藤野さん達だよね、権ちゃんから聞いてるよ。食い逃げ以来塞ぎ込んでたって言うか、ぴりぴりしてた権ちゃんが、すっかり元に戻って良かったよ。息子が本調子になったおかげで、女将さんも気を持ち直してきたみたいでね」

 飲み食いしながら話しているうちに、意気投合した客たちが三人の座る机の周りに集まりはじめ、やがて宴会のような様相を呈し始めた。

「そうそう、ここはいいお店でしょ?俺らも再開を心待ちにしてたから、嬉しくてね。なんだか藤野さん達が、権ちゃんを立ち直らせてくれたとか聞いたから、俺らからも、ありがとうね」

「俺らは何もしてないけれど、でも、確かに権太さん元気になって良かったな」

「まあ、お前の説教が聞いたのかもだけど……、でも確かに、一番は権太さん自身の心の持ちようですからね」

「この刺身うまいな、まろやかで舌触りがいい」

 話しつつ刺身を口に運んで、虎丸が軽く目を見張った。それに権太が嬉しそうに食いついた。

「おっ、分かるか?締め方も捌き方も拘ってるからな」

「やっぱり、そういうの大事なんだな。こつとかあるのか?」

「一番大事なのは、やっぱ素早さだな。とにかく手早く締めて、捌き切る。鮮度が命だからな。でも丁寧に、身が潰れたら元も子もねえ」

「なるほど……」

 二人が料理談義に花を咲かせていると、お盆を持った権太の母親がやってきた。

「権ちゃん、お台所の海苔巻き運んでくれる?」

「ああ、分かった」

 入れ替わりに権太が御勝手に下がっていく。女将は料理を机に並べながら、三人に話しかけた。

「藤野屋さん、お久しぶりね。覚えてるかしら」

「はい、一度息子さんとご一緒に、うちに来てくださいましたよね」

「ええ、そうなの。藤野屋さんのお茶菓子は美味しくって、また行きたいなと思っていたんだけど、その後あんな事があったから……」

「食い逃げ……、大変でしたね」

「恥ずかしい話、あれ以来すっかり気が滅入ってしまっていたんだけど、最近権ちゃんが家にいて励ましてくれるから、大分楽になって」

「それは良かったな」

「権ちゃん、初めは食い逃げを捕まえるって息巻いてて、親思いは嬉しいけれど心配だったの。それを藤野さん達が諭してくれたらしくて、有難いわ」

「いえ、俺らは本当に大した事は……こうしてお招きいただいて、こっちの方こそ有難いです」

「ゆっくりしていってね」

 権太の母親はにっこりと笑って、また台所へ戻ろうと踵を返した。ところで何かを思い出したらしく、再び振り向いて言った。

「そう言えば知ってるかしら。うちもそうだけど、襲われたお店には『食べる』って字が入っているの。『飯屋』とか、『ご飯』とか、『お食事処』とか。偶然かもだけど、だから最近縁起担ぎに、看板とかを変えているところもあるのよ。藤野屋さんも気をつけてね」

「うちの屋号には『食』は入っていませんよ、藤野屋ですから」

「ああ、そうだったわ、恥ずかしい。でも豆知識として」

 権太の母は、蛇介の指摘に恥じ入るように笑った。その顔が、権太の照れ隠しの顔によく似ていて、虎丸と蛇介は微笑ましく笑った。

 もちろんそんな空気は読まず、龍之進が口を挟む。

「おい、それより権太の母親、酒はあるのか」

「ええ、ありますよ、色々。何がいい?」

「おっ、長男君、酒好きかい?」

 すると、『酒』という単語に反応してか、すっかり出来上がった酔っ払いの客たちが嬉しそうに声を上げた。

「もちろんだ、種類は何でもいい。とにかく辛くて強いのであれば」

「あ、俺も貰っていいですか?」

「次男君もいける口か!」

「蛇なんて名前についてますからね、蟒蛇ですよ。飲み比べでもしてみます?」

「おお、いいねいいね、権ちゃん、こっちにも酒!」

 それに蛇介が乗っかって、さらに場は湧き出した。権太は近くに寄ってきて注文を受けると、黙々と刺身やお浸しを摘んでいる虎丸に声をかけた。

「おう。虎丸は飲まねえか?」

「料理酒以外、あんま飲んだことねえな。機会がなくて」

「こう言うのは勢いだよ! 三男君もこれを機に!」

「やめろ強制すんじゃねえ、こう言うのは楽しんで飲んでこそだろ」

「そうですね。でもまあ、無理しない程度に飲んで見るのも悪くないかもしれません。この辺りとかなら、慣れてなくても飲めるんじゃないか」

 蛇介に進められて、虎丸も品書きを覗き込む。その様子に、酔っ払いの一人が笑った。

「仲のいい兄弟だねえ、微笑ましいよ。でも、兄弟で上二人は酒飲みなのに、末弟は飲んだことないなんて、変わってるな。一緒に飲んでるんじゃないの?」

「……まあ、兄弟と言えど全員いい大人ですし、いつもつるんでる訳ではありませんから」

「おお、これは美味いな、いい酒だ!」

「長男君強いね!」

 そうして魚を中心とした食事に舌鼓をうち、喧騒を肴に酒を傾けるうちに、三人の夜は更けていった。


「ふう……、楽しかったな」

 三人が店を出たのは、もう大分夜も深まった頃だった。いつの間にか暗い雲も吹き飛び、満ち始めて膨らんだ月が紺碧の空にぽっかり浮いていた。

 潮の香りを孕んだ夜風が、酒と騒ぎに火照った頬に心地よかった。

 龍之進は大きく伸びをして、腕を振り回した。

「久しぶりに深酒をした。いい気分だ!」

 表情は酔いが回っているようには見えないが、心做し声が大きくなっている。

「今日は来てくれて有難うな。是非また来てくれ」

「ありがとう、権太さん。凄く美味かった。特にあの、つぶ貝の甘露煮が好きだな」

「そうか! そう言って貰えると嬉しいな、あれは母ちゃんが昔から作ってくれた奴なんだ」

「出汁が良く効いてて……あと、あの味の深みは何を使ってるんだ?」

「教えてやりたいところだが、そこは商売、しっかり線引きしなきゃな。秘伝なので教えられねぇ」

「それは、残念だ」

「ま、精々うちに通って、暴いてみてくれ。そこまで送ってくよ」

 豪快に笑う権太は、なかなか目端効いた商売上手だった。

「酒はいいがな、うちでは出さんのか?」

「うちは茶屋だぞ。そもそも権太さんのところとうちじゃあ、客層が違う」

「藤野屋で酒を出し始めたら、うちとは商売敵になっちまうから、勘弁して欲しいね」

「上手く住み分けて行きたいですね」

「しかし、蛇介はお前、随分と酒豪だな。見た感じそうは思えないのに」

「いやあ、それほどでも。虎はどうだった?酒は気に入ったか?」

「いつも料理に混ぜて使ってるから、そのまま飲むのは慣れねえな。味もそうだし、喉がかっと熱くなるし……あ、でも、お湯で割ったのは、香りが良くて美味かった」

「酒はあの燃えるような感じがいいんだがな」

「龍の境地には至れそうにねえな」

 軽口を叩きながら、四人は大通りまで連れ立って歩いていく。ほろ酔いに浮き立つ心地が、足取りまでも軽くしていた。

 しかし、そんな浮かれ気分は、細道を曲がったところでへし折られた。

 唐突に、不気味な絶叫が四人の耳を劈いた。

 四人は足を止め、音の出処を探るように辺りを見渡した。

 繰り返し繰り返し聞こえてくるそれは、赤子の泣き声に良く似ていた。

 しかし、力いっぱい破裂して、それでいて長く尾を引くような消え方をして、どことなく不安を煽るような恐ろしさがあった。

「これ……赤ん坊の夜泣き、だよな」

 同意を求めるように蛇介は呟いた。

「……だと、思うけど」

 虎丸が恐る恐る頷いた。しかし、それに権太が僅かに戸惑うような恐れるような声で言った。

「でも、この辺りに赤ん坊のいる家は、無いはずだけど……」

 その言葉に、蛇介と虎丸は、すっと背筋が微かに冷えた心地がした。そんな三人を脅かすように、再び大きな泣き声がした。

「ふむ、どうやらあっちだな」

 しかし、龍之進は何処吹く風、音の流れる本を見定めて、躊躇なく細い路地に飛び込んで行った。

「あ、おい! こら、龍!」

「待てよ!」

 蛇介達は、こんな時にも自由気ままな彼の後を、慌てて追いかけた。

「この家のようだぞ」

 やがて、四人は路地の奥の、古びた長屋の裏にたどり着いた。確かに、泣き声は途切れつつも、その長屋の端の部屋から聞こえて来るようだった。

「あ、ここ……」

「権太さん、知り合いの家か?」

「ああ……、爺さんが一人で住んでたんだが、ちょっと前に寿命でぽっくり逝っちまって、それ以来誰も住んでないと思ってたけど。子連れの人でも越してきてたのかな」

「そうか……まあ、妖怪とかでなくて良かったな」

「なんだ虎丸、お前、妖怪なんか信じてるのか」

「…………」

「おい、なんで黙るんだ。いや、なんでお前ら顔を見合わせるんだ?」

「しかしまあ、赤ん坊というのは、よく泣くものだな」

 未だに泣き声の響き続ける路地裏で、龍之進は関心した様に言った。

「そりゃ、赤ちゃんは泣くのが仕事だからな。でも、こんな夜中じゃ、親御さんも大変だな……」

「ふむ、人助けだ、ひとつ泣き止ませてやるか」

「えっ、ちょっ」

 龍之進はそう言って、さっさとと家の表に回って行っわしまった。

「いやいや待て待て、知らん野郎共に家に押し入られるのは迷惑だから……おい待てって!」

「ちょっ、龍之進!」

「おい、お前絶対酔ってるだろ!」

 彼の突飛な動きに対応し兼ねて一拍の後、慌てて三人はその後を追った。

 しかし、虚しく三人は間に合わず、表に出た時には既に、龍之進は戸口を開け放った後だった。

「えっ、開いてる……? お前、まさか、閂とか壊したのか」

「いや、何も壊していない。最初から開いていた」

「え?」

「おい権太」

 龍之進は部屋を指さして言った。

「何もいないぞ、生きている物は」

 そこは空寒い程に、もぬけの殻だった。人の気配が薄れきった部屋の中には、食いさしの鼠の死骸が転がっていた。

 不気味ななき声が何処からかまた一つ、大きく長く轟いた。

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