第四章 野分のまたの日再会騒動

うせもの

 雨が降った。風も吹いた。風雨が荒れ狂い、暗雲が渦巻いた。

 秋風も冷たくなる時分、野分が街を踏み越えていった。

 とは言え、ただの野分だ。多くの人が多くの年月の中で、他愛なくやり過ごしてきただけの四季の移ろい、今年も変わらず、やって来ては去って行くだけの、少し厄介な来訪者。

 だったはずのその秋風だが、町外れのおんぼろ茶屋には、致命的な破壊を齎して行った。

 雨の続いたある夜分、寝息を立てていた三人の上に、ぽつんと一つ雫が落ちたかと思うと、たちまち落ちてくる水量は増え、三人が飛び起きて雨漏り受けのたらいを用意した頃には、漏れ落ちて来る水は外の雨と変わりが無いほどになっていた。水を受けるだけでは焼け石に水の有り様に、三人が途方に暮れていると、今度は床や壁からミシミシと不穏な音が鳴り始めた。

 これはいかんと、蛇介は勘定道具を一式に金銭の一切を引っ掴んで、虎丸は一狼を抱き上げて、龍之進は二人に倣ってとりあえず手近にあった枕を抱えて、それぞれに厳しい風雨の吹き晒す外へと飛び出した。丁度三人が外へ飛び出した途端、めきめきと音を立てて、藤野屋は傾いて行った。

 塵も積もれば何とやら。生兵法が祟ったか、素人の付け焼刃の修理の上から、付喪神やら化け猫やらとの乱闘を経た藤野屋は、ついに野分にとどめを刺されたのだ。

ぺしゃんこになるだけは免れたが、今にも崩れ落ちそうな微妙な均衡の藤野屋は、戻って寝直すことができる程、建物の様相を呈していなかった。

 風に煽られ、雨に濡れながら、虎丸が呟く。

「とにかく、雨を凌がねえと……。どっか、宿を取るか」

「この時間じゃ開いてねえよ。てか、この天気じゃ、やってねえよ……」

 蛇介が力なく答える。

「権太の所に行くか? 奴なら、一泊くらい軽く了承するだろう」

 龍之進が思いついたように言う。

「迷惑じゃねえかな。こんな時間に」

「とはいえ背に腹は代えられねえや。権太さんの家って、網代飯店か?」

「いや、奴のねぐらは海の方だ。飯屋は商売専用らしい。奴の本職は漁師だからな」

 龍之進の言葉に、虎丸と蛇介は海の方を向く。遠目からでも、白く泡立つ凶暴な波が良く見えた。

「……この風雨の中、海の方には近づきたくねえな。高波に攫われてお陀仏だ」

「そうだな……他に頼れる人……いつも澄まし汁を頼むお爺さん、三丁目のおばさん、つくねが好きなお兄さん……ああ、でも皆長屋暮らしだ。広くないって愚痴も聞いたし、泊めてもらうのは難しいな」

 虎丸の言葉に、蛇介も唸り声をあげる。

「うーん、俺も軽く考えてみたが……親しい客はいるが、まず住所を知っている奴が少ねえな。取引先も小さい店ばっかだし、泊めてもらうのは難しそうだ」

「木こりはどうだ? 一人暮らしだと言っていたし、小屋もいくつか持っていたはずだ」

「ああ、お前が仲良くなった奴な。けど、そいつの家、山ん中だろ。土砂崩れが怖えよ」

 そこまで言って、蛇介が盛大にくしゃみをした。もう下着までずぶ濡れだ。虎丸の腕の中で、一狼も不服そうに唸っている。しばらくの沈黙を経て、蛇介が不承不承という体で言った。

「こうなりゃ最後の手段だ。あそこなら、来るものを拒んだりしねえだろ」

「あそこ?」

「市民の味方の、警察様だ」

 龍之進と虎丸は顔を見合わせた。

 

 屯所に押しかけた濡れ鼠の三人組と仔犬一匹を、お人好しの警官兄弟は二つ返事で受け入れた。

 小さな街に会わせた規模の小さな屯所の造りは、質素だった。西洋風の煉瓦仕立ての二階建てで、一階を入ってすぐは警官の仕事用に作られているらしく、受付の備え着いた応接用の部屋や、机や書類棚が揃った事務室などが揃っている。そして、事務室から奥は、居住用の造りになっていて、小さな台所と居間がある。警官たちは、そこに住み込んで働いているらしい。

 鶴亀兄弟は、藤野屋三人組を居間に通すと、さっさと動き始めた。

「とりあえず手ぬぐいだ。冷えるとまずい、体を拭いて着替えろ。服は私と亀蔵のものを貸そう」

「暖炉に火を入れます。それに当たって暖をお取りください」

「亀蔵、それが終わったら湯を沸かしなさい。温かいものを飲んだ方が良いだろう」

「承りました」

「寝間着代わりのもので悪いが、着替えだ。少々丈は合わんかもしれんが、我慢しろ。濡れた服は、このたらいに入れて置け」

 双子の対応は口を挟む間もない程の息の合い様で、藤野屋三人組がようやくお礼を言えたのは、すっかり着替えも終えて、亀蔵の入れた苦すぎる茶を配り終えられた後だった。

「ありがとうございます。すみません、何から何まで」

 蛇介がそう言って、頭を下げる。虎丸も合わせて礼をし、ふんぞり返っている龍之進にも頭を下げさせる。

「いえいえ、困ったときはお互い様でございますから。ねえ、兄様」

「ああ。寝る場所だが、二階に私たちの部屋がある。丁度三部屋で、寝台も三つあるから、使うと良い」

 鶴吉の提案に、蛇介は恐縮したように首を振る。

「そんな、滅相も無い。私たちは床で結構ですよ」

「いや、うちは西洋風で、土足だからな。畳も無いし、床で寝るのは止めた方が良い」

「しかし……それでは、鶴吉さん達の寝場所が無くなってしまいませんか」

「いや、見ての通り、長椅子が二つある。私たちはここで寝よう」

 たしかに、鶴吉の指示した通り、今まさに藤野屋三人組が腰掛けているものが一つと、向かい合わせに鶴亀兄弟が座っているものが一つ、計二つの布張りの長椅子が居間には設えてあった。

 そこで、すっかり寝こけている一狼を撫でながら、ふと虎丸は疑問を抱いた。

「あれ……そう言えば、万兎羽は居ないんですか?」

 これだけ慌ただしくしているというのに、鶴亀兄弟の後輩、嫌味な後輩警官の彼は姿を見せようともしない。けれど、部屋が三つ、寝台が三つというなら、彼もここに住んでいるのだろう。眠っているのだろうか。けれど、彼が在宅なら、そもそも鶴吉の提案が意味をなさない。警官三人、藤野屋三人の計六人に対して、寝台三つに長椅子二つ。一人があぶれることになる。ならば、彼は不在なのだろうか。

 虎丸の質問に、鶴亀兄弟は顔を見合わせる。そして、何処となく困った顔で、亀蔵が答えた。

「あの子はおそらく、他所に泊まっています。巡回に出てそのままですし、途中で雨脚が強くなって帰れなくなったのでしょう」

「え? 大丈夫なんですか? どこかで立ち往生でもしてるんじゃ……」

 それなりに強い風雨の中、後輩が帰ってこないという状況を、この人の好い警官兄弟が放置しているというのは違和感がある。虎丸が訝しげにしていると、鶴吉がやや不機嫌そうに言った。

「奴は無断外泊と朝帰りの常習だ。身内の恥を晒す様だが、天気が特異なだけで、いつものことなのだ」

「巡回中に最後に分かれたのも、その、万兎羽の……ご友人のお家の近くですし、危険は無いと思います」

 亀蔵がやや言葉を濁した理由に思い至った虎丸は、何故鶴亀兄弟が気まずそうにしているのかも理解できて、同情するような気持ちになった。

 鶴吉が切り替える様に話題を変えた。

「ところで、店の方は大丈夫なのか? 不躾な話だが、住む場所も財産も無くなってしまったという話なら、先行きはどうなる? 冷たいようだが、私たちにできる協力にも限度がある。目途は立っているのか?」

 その現実的な話に、虎丸はちらりと蛇介を窺う。すると、その視線に気づいたのか、蛇介は軽快な目配せを返してきた。どうやら藤野屋の優秀な勘定係は、この事態をどうにかできると踏んでいるらしい。

 彼は鶴吉の質問に応えつつ、虎丸達にも言い聞かせるように、丁寧に話し始めた。

「幸い、とっさに有り金は引っ掴んで持ってきたので、金銭的な余裕はあります。もともと、あの建物は立て直すつもりで金も貯めていましたし、以前の蛍の件で懐も温まりましたから、そこは問題ないと思います。あと、明日の朝、嵐が弱まっていたら、家に戻って様子を見てきます。完全に倒壊した訳ではないので、家財道具を運び出せる目算が高い。そうすれば、買い替えの代金も抑えられる。龍之進が居ますから、大机やら長椅子やらの店に必要なものも、簡単に移動できます。虎丸が居れば何処でも商品は作れるし、俺が居れば店の体裁は整います。あとは、家がどうにかなるまで、屋台めいたことでもしながら金を稼げばいい。一番金のかかる建て替えをどうにかできれば、食材費なんかはつけにしても、返せる見込みはある」

 そう捲し立てられて、思わず虎丸も鶴亀兄弟も感心に頷いた。龍之進は鼻から碌に聞く気が無いようで、一狼の尾を弄って遊んでいる。

「そうか、それだけはっきりと決まっているなら安心だ」

「はい。……とはいえ、家計が厳しいことには違いないので、厚かましいお願いですが、暫く居候させてもらえると嬉しいです。宿代が浮けば、相当楽になるので」

「ああ、それは構わん。先ほど言ったように、万兎羽は開けがちだから、気兼ねなく居ると良い」

「ありがとうございます」

「あの、お礼と言っては何ですが、飯炊きくらいはさせてください」

 虎丸がそう言うと、鶴亀兄弟は少し嬉しそうな顔をしたが、不謹慎だと思ったのか、軽く会釈をするに留めた。胃袋を掴んでいるというのは本当に強みだと、蛇介はほくそ笑んだ。

「あとは、大工を手配できりゃあ、万全なんですが……」

 蛇介の言葉に、亀蔵が良いことを思いついたという風に口を挟んだ。

「それでしたら、丁度今、街に腕の良い流しの大工さんが居らっしゃっているそうですよ。街の方々が噂していらっしゃいました。向こうの方の……定食屋さんの隣のお宿にお泊りだそうですよ」

「へえ、そうなんですか。そりゃあ、渡りに船だ。相談してみることにします」

 そうして、無事に寝床を確保して、藤野屋三人組は窮地を脱した。

 二階に上がり、鶴亀兄弟の目が無くなったところで、蛇介は二人に、特に龍之進に迂闊なことを言ってぼろを出さないよう、口を酸っぱくして言った。

 こうして、束の間ではあるが、警官と悪党が一つ屋根の下という不思議な暮らしが始まることになった。


◇◇◇


「……なんで居んの? 化け物らしく人でも食って、とうとう捕まった?」

 そのうんざりとした口調の嫌味な台詞は、白髪の後輩警官、土御門万兎羽のものだった。

 その言葉を向けられた主は、台所で朝ご飯の味噌汁を味見している虎丸に向けられたものだった。

 翌朝、昨日までの嵐と打って変わった晴れ空に似つかわしくない物言いだが、状況を鑑みれば仕方ない。何しろその台所は藤野屋のものでは無く、警察の屯所の台所だ。彼からすれば、行きつけの店の料理人とは言え、帰宅したところ、赤の他人が台所に居たことになる。

「ん、ああ、お帰り。昨日の嵐でうちが壊れかけちまったんで、暫く居候させてもらうことになったんだ」

「はあ?」

「お前、朝飯は食って来たか?」

「いや、まだだけど……」

「なら丁度いい。せめてものお礼に、飯でも作らせてもらおうと思ったんだ。大根の味噌汁、嫌いじゃないか?」

「ああ、平気。むしろ好きだから、ありがとう……じゃなくて」

「あ、そうだ。部屋と寝台借りたぞ。悪ぃな。でも、意外と綺麗で感心した」

「うん、汚いのは嫌いだからね……じゃないよ! 誰の許可でうちに入り浸ってんの! しかも勝手に部屋まで上がり込んで!」

「鶴吉さんと亀蔵さんが良いって」

 丁度そこへ、見計らったような間の良さで、鶴吉が台所に入って来た。

「なんだ、万兎羽。五月蠅いぞ」

「あ、おはようございます。てか、鶴ちゃん先輩、勝手に俺の部屋にこんな奴上げないでくださいよ!」

「仕方ないだろう。市民が困っている」

「だからって、幾ら先輩でも、俺の部屋を勝手に人に貸し出す権利は無いでしょ」

「碌に使いもしていないのだから構わんだろう。それに、お前は蛍の件で藤野虎丸に借があるだろう。そもそも、部屋の領有権を主張したいなら、きちんと帰ってこい。話し合いの場に居合わせなかった貴様の負けだ。諦めろ」

「うぐ……」

 矢継ぎ早に言いくるめられて、万兎羽が肩を落とす。鶴吉はさっさと身を翻して、出て行ってしまった。ため息を吐く万兎羽に、意外な警官たちの力関係を盗み見てしまった虎丸はおずおずと言う。

「大根の味噌汁と、白身魚と野菜の余りで作った五目がゆ。付け合わせに、ほうれん草の白和え。食えねえもん、あるか?」

「無い……白和えは結構好き」

「おう、大目に盛っとく。食って元気出せ」

 そんなひと悶着を経て、警官三人と悪党三人は異例の食卓を囲った。


 食後、警官たちは巡回に出て、残された藤野屋三人は早速、藤野屋復活のために動き出した。

 三人は一先ず、昨夜あの後我が家がどうなったのか、様子を見に行くことにした。

「おお……もうちょい潰れてるかと思ったが、思ったより何とかなるもんだな……」

 それが、家を一目見た蛇介の感想だった。虎丸と龍之進も同意を示して頷く。藤野屋は、傾いては居るものの、それ以上傾いたり倒れたりする事無く、昨夜のままの絶妙な均衡で残っている。

「これなら、中の物もどうにかなりそうだな」

 そう言って、龍之進が家の戸に手をかける。それを蛇介が慌てて制す。

「待て待て! お前の怪力で乱暴に開けると最後の一押しになるかもしれねえ。俺がやる」

 そう言って、蛇介が龍之進に代わって戸に手を掛けた。やはり木組みが変形しているのか、簡単には動かない。

「どうせ作り変えるんだ。外しちまった方が良いな。虎丸、ちょっと手ぇ貸せ」

 そうして、蛇介と虎丸は、少しずつ慎重に力を加えて、戸を全て枠から外した。解放された玄関から中を見ると、どうやら一階には雨漏りも少なかったようで、家具も無事だった。

「よし、龍之進は大きいものから運び出してくれ。まずは客用の机や椅子から頼む」

「うむ、心得た!」

「虎丸は台所から、食器や調理道具なんかを頼む。それらがどうにかなりゃあ、営業再開も早まるぜ」

「ああ」

「あとはまあ、運び出せそうなものや使えるものは運び出して、外の空き地に纏めておいてくれ。けど、無理はすんなよ。家が崩れて生き埋めになるなんてことが無いようにな」

「もちろんだ」

「じゃあ、俺は流しの大工とやらに打診に行く。店のことは頼むぜ」

 そうして、大工の手配に行く蛇介と、家財道具の運び出しを行う虎丸と龍之進の二手に分かれて、それぞれ動き出した。

 蛇介を見送って、虎丸と龍之進は早速仕事にかかる。

「気を付けろよ、龍之進。お前のことだから、持ち上げるのは簡単だろうけど、どこかにぶつけたりしない様にな。少しの衝撃でも、崩れるかもしれねえから」

「ああ。虎の方こそ気を付けろ。俺は埋まっても自力で這い出してこれるが、お前は埋まったら死ぬかもしれないからな!」

「まあ、俺も頑丈さには自信がある。下敷きになっても死にはしないと思うから、その時は掘り起こしてくれ」

「うむ、任せろ」

 そんな軽口を叩きながら、龍之進は家具を、虎丸は鍋や食器をひょいひょいと運び出す。

「鉄なべや釜はともかく、土鍋や食器が無事なのは嬉しいな。割れちまっているのも覚悟していたが……」

 運び出した食器を点検しながら、虎丸は呟いた。それから、器具の中に『ふじの』の焼き鏝や『春夏冬中』の札を見つけて、一人微笑んだ。

「もしかして、お前らのおかげかな」

 そうして、日が高くなるまで二人はせっせと荷物を運び出した。三人の真朱色、不言色、若苗色の金継ぎ茶碗も無事で、二人で思わず万歳をしたりした。

 ちらほらと藤野屋の常連たちが顔を見せ、店の有様を見て目を剥いたりもした。虎丸が事情を説明すると、手伝いを買って出てくれる者も少なからず現れた。

 一階のめぼしい物を運び出すと、二人は恐る恐る二階に登ってみる。軋む音は大きいが、思ったよりも踏み心地は安定していた。二階は雨漏りが酷く、布団や着物はずぶ濡れだったが、洗って良く乾かせば何とかなりそうだった。

 それから、虎丸は余り水濡れが酷くない畳を選んで、一枚だけ剥がして持ち出した。これで西洋風の居候先でも、六人目の寝床を確保できる。

 運び出しを終えて、今度は日のあるうちに洗濯にかかる。龍之進が井戸から大量に水を運んで、虎丸が一つ一つ丁寧に洗い始める。

 そうしているうちに、談笑しながら近づいてくる蛇介の声が聞こえた。恐らく大工を連れて来たのだろう。力仕事を終えて、退屈していた龍之進は、どれ、顔を見てやろうと表通りの方に顔を出した。思った通り、蛇介と、蛇介ほどでは無いが長身で逞しい男がこちらに向かって歩いてくる。蛇介は龍之進に気づくと駆けよって来た。

「そっちはどうだ? 順調か?」

「ああ、大概は運び出した。今は虎丸が洗濯をしている。洗えば布団も着物も使えるそうだ」

「おお、そりゃあ助かるな。正直そこは買い替えも検討してたから、費用が浮くなら有難いぜ」

「そっちのあれが例の大工か」

「そういう人の呼び方を本当にやめろ」

 龍之進は蛇介の肩越しに歩み寄ってくる男を眺めた。漸く声を掛け合うくらいの距離まで来た男は、龍之進にぺこりと頭を下げた。

 大工らしく、豪快そうな雰囲気の壮年の男だ。癖の強い髪が特徴的で、若々しさは薄れているが、老いとは程遠い。がっしりとした体やはきはきとした動きは、活力を感じさせる。

「どうも、手前は流しの大工で、春日羊太郎と申します」

「これは、ご丁寧にどうも。こいつはうちの長兄で、龍之進ともうします」

「よろしくな」

「ああ、お兄さんで。三兄弟と言う事だったので、弟さんかと思いました」

 羊太郎は、少し驚いたようにそう言った。恐らく身長からそう思ったのだろう。

「弟は向こうに……今、雨に濡れちまった布団やらの洗濯をしているそうです」

 蛇介がそう説明していると、丁度虎丸の声がした。

「なんだ、蛇介、帰って来たのか」

「ああ。丁度いいや、こっちに来いよ」

 蛇介はそう声をかける。ぱたぱたと足音がして、虎丸が前掛けで手を拭きながら顔を出す。

「おう、お帰り。噂の大工さん、見つかったの……か……」

 しかし、虎丸は顔を上げると、ぴたりと足を止めた。ゆっくりと、彼の瞳が零れ落ちそうなほどに見開かれていく。

 ただ事ではない様子に、蛇介は眉を顰める。

「どうした? 虎丸?」

「……虎丸?」

 しかし、蛇介の呼びかけに反応したのは、虎丸でも龍之進でもなかった。流しの大工、春日羊太郎が、蛇介と龍之進を押し退ける様にして、虎丸に駆け寄る。

 羊太郎はがしりと虎丸の肩を掴んで、その顔を覗き込んだ。

「その髪……その傷……目鼻立ちも間違いねえ。それに、名前も」

 彼は、絞り出す様な、恐れる様な、震える声で言った。

「あんた……虎坊か」

 その言葉に、虎丸は同じように頼りない声で、紹介されもしない、その男の名を呼んだ。

「羊太郎さん……」

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