はんげき

「もう我慢ならねえ、限界だ」

 ある朝とうとう虎丸は、ホカホカと湯気を立てる魚の雑炊で満ちた鍋を見つめて、心の内を吐露した。

 そして彼は一度深呼吸をすると、眦に力を込めて鍋をきっと睨みつける。

「今日はその魚で煮つけを作るつもりだったんだ! 市場回って買った一番いい奴だったんだぞ、それを勝手に使いやがってどうしてくれる! てめえのせいで、ここんとこの献立計画がどんだけ狂ったと思ってんだ、この外道が!」

 爽やかな朝、その叫びは藤野屋を貫いた。

 普段はそこまで声量が無いはずの虎丸の怒号に、蛇介は椅子から、龍之進は階段から転げ落ちた。

「……まさかあの料理の主も、献立を狂わせた咎で人斬りに外道と罵られようとは、つゆも思うまいな」

 何とか状況を把握した龍之進は、階段下まで滑り落ちたまま、起き上がる事よりも先にまずしみじみとそう言った。

 それから二人が台所に入ると、鍋の取っ手を握りしめて立っている虎丸が見えた。力を入れ過ぎた彼の拳は真っ白になり、小さく震えていた。代わりに血の登った額が赤黒く染まっている。

 そんな彼に、蛇介は探りを入れるように話しかけた。

「……えっと、つまり、お前は犯人が勝手に料理をすることで、自分が使う材料が足りなくなることに怒ってたのか?」

「ああ、昼飯や夕食は良い。俺も台所に居て、主要なのは片っ端から使ってくから、余ってるもんは使われてもそう困らねえ。けど、朝食のは俺らが寝ている間に好き放題されるから、仕舞っといた大事なもんを使われることも多くて、ここのところは朝起きて在庫確認するのが憂鬱になって来てたんだ……。今までは我慢してたが、もう無理だ、堪忍袋の緒が切れた。今すぐこの鍋ひっくり返してえ」

 蛇介の水向けに、かなりの早口で虎丸は捲し立てる。

「やめろ、掃除が大変だから。一旦落ち着いて、その鍋をそーっとその流しに置け。よし、良いぞ、そのままゆっくりこっちに来い。向こうの部屋で話を聞くから」

 怒り心頭と言った様子の彼に、蛇介は宥めるように話しかける。

「しかしぶっちゃけ、くだらなくないか? 結構心配してたのに、お前の悩みがその程度とは少々拍子抜けだな」

「黙れ馬鹿之進、火に油を注ぐな。ああいう怒り方してる奴は、経験上一番危な……」

「ぶ」

 蛇介が咎めるより早く、軽率なことを言った龍之進の口は塞がれた。豪速で投げられた鍋が彼の頭を直撃し、そのまま台所から退場させた。もんどりうって吹っ飛んでいった龍之進が居なくなった後には、尾を踏まれた虎のような顔をした虎丸と、蛇に睨まれた蛙のような蛇介が残った。

「よし、よし、よーし、分かった、俺はお前に全面的に賛成する。確かにあいつが悪い、分かる分かる、お前は悪くない。だから一息吐こう、話せばわかる」

 蛇介は虎丸に全力で媚びながら、彼を包丁や割れ物で溢れる台所から連れ出した。


「まあ、確かに計画を乱されては気分は悪いだろうが、それで実害はあるのか? お前は特に問題なく飯を作っていたように見えたが?」

 鍋の後片付けを終えて戻って来た龍之進は、虎丸の横に腰を下ろした。ついさっき起こった出来事をもう忘れたかのような態度に、蛇介は随分はらはらしたが、虎丸は怒りをぶり返すことは無く、静かに答えた。

「まず、献立は全体の相性とか、栄養分の組み合わせや量なんかも大事だから、主菜なんかが丸っと変わると、一から考え直さなきゃいけねえんだ。それに、使う材料の順番とか、いろいろ考えてやってるのに、全部台無しだ」

「うーん……、それは具体的にどんな感じなんだ? 俺は料理のことはさっぱりだから、いまいちピンと来ねえ」

 蛇介は虎丸の機嫌を窺うように尋ねる。

「……例えば俺は今日、あの魚を煮付けにして、昼飯にしようと思ってた。わざわざ生きてるのを買ってきて、直前に締めようと思ってたんだ。それなのに朝のうちに捌かれちまったし、味付けも全く違うから用意した調味料も無駄になった。野菜も、早く使い切ろうと思ってた古いのは手つかずで、新しい物から使われた。おかげで中途半端な切れ端がたくさん残ってる」

「ふむ、それは確かに面倒なのか? よく分からんが」

 龍之進も得心のいかない顔で腕を組んだ。

「食材は基本、一度切っちまうと味がどんどん悪くなる。調味料だって、ずっと置いときゃ劣化していく。だから、どんな風に使うか、どれくらいで使い切るか考える必要があるんだ。つまり、こういう事が続くと、全体的に飯が不味くなる」

「なるほど、それは由々しき問題だ。飯が不味くなるのは一大事だ……もしや、最近虎の戦績が奮わなかったのはそのせいか?」

 虎丸は少し気まずそうに目を逸らす。

「……言い訳するようで嫌だけど、しばらくは相手の料理の残骸処理みたいなことが続いたからな。あと、これは藤野屋全体のことだけど、まあ、飯もそうなんだけど、材料がどうしても足りなくなりゃあ、買い足すのに余計な金がかかっちまう。でも、料理の研究はしなきゃだし、俺らが食う飯だって作んなきゃなんねえから、思ったより出費が嵩んでる」

「なに?」

 虎丸の説明に、蛇介の目の色が変わる。

「蛇介がくれた一か月分の食費が、この一週間弱でかなり減っちまった。あり物だけで作ったり、安いものを選んで買ったり、切り詰めてはいるんだけど……それでも、消費が速いし、新しい物もどんどん使われちまうから、長く取って置けなくて……」

「なるほどな……」

 蛇介は顎を撫でる。

「悪かった、虎」

 そして唐突に謝った。

「俺は事態を軽く見過ぎていた。まいったな、些細な出費も見逃さねえつもりでいたが、料理は専門外だから、どういう金の動きがあるのか掴めてなかった。俺にもう少し学がありゃあ、こんな間抜けな失敗はしなかったのに。悔やんでも悔やみきれねえ」

 つらつらと脈絡なく自己反省を述べる蛇介に、龍之進と虎丸は一拍の間の後、揃って首を傾げる。彼は言葉を区切ると、顔を上げた。ぎらついた瞳に、正面に座っていた虎丸は少しだけ怯んだ。

「この俺が管理する財布から無駄金を出させるなんて、許し難い。こいつは愉快犯じゃねえ、藤野屋の全力でもって叩き潰すべき、極悪人だ」

 蛇介の凄みに一瞬圧されたものの、志を同じくする虎丸は深く頷いた。

 そんな二人の様子を見届けて、龍之進は立ち上がる。

「よもや料理の主も、小金をくすねた罪で詐欺師に極悪人と罵られようとは、露ほども思わんだろうな。だが分かった。お前たちを煩わすというのなら、そいつは俺の敵だ。必ずや引きずり出して、殺さぬまでも一二発は飛び切りのをくれてやろう、顔面にな」


 三人はその後、軽く海まで打ち出でて、遠くの船を眺めながら作戦会議と洒落込んだ。わざわざ外を選んだのは、盗み聞きや監視を避けるためだ。

「古い食材を目の点きやすい所に置いたり、新しいのを隠したりしてるんだけど、何故か見つけ出されちまうんだ。外から見えないように気を付けてんだけどな。本当、どうやってんだか」

 足元を横切ったヤドカリをつついて虎丸は言った。

「まあ、ここまで来たらもう、犯行の仕方や動機から推理してくのは止めようぜ。悔しいが、まるで見当もつかねえし、先が全然見えねえ」

「なら、どうするのだ?」

 蛇介の言葉に、龍之進は気の無い相槌を打ちながら、浜に打ちあがった海藻を振り回す。

「前に龍も言ってたが、確かに日中はどれだけ警戒しても、ずっと張り付いていられる訳じゃねえから、何処かしら隙が出る。だから、昼間は諦めよう。二兎を追う者は一兎をも得ず、店の仕事も犯人探しも並行でやろうとしたら、必ずどこかがお粗末になる」

「昼を諦めるという事は、つまり勝負は夜か?」

 龍之進は海藻を勢いよく放り投げると、二人を振り返った。

「ああ、そうだ。それなら、三人ともここに居るし、他の仕事にかまけず犯人探しに専念できるだろ? 一応聞いとくが、夜は眠くなっちまうとか、夜更かしはできねえとか、餓鬼みてえなこと抜かす奴は居ねえな?」

「当然だ、盗賊の舞台に昼夜なし。むしろ日の下よりも、闇夜の方が居心地が良いくらいだぞ」

「俺も誰かを斬る時は、人気の無くなる夜をこそ選んでた。お天道様を忍ぶのは得意だぜ」

「もちろん、俺も夜は得意だ。夜の下町にゃあ、カモがうようよ居たからなあ」

 三人は、悪人面で笑み合った。

「んじゃ、具体的にだけど、まあ、そんな凝った作戦もいらないだろ」

 言いながら蛇介は、近くに落ちていた枯れ枝を手繰り寄せ、砂に藤野屋の見取り図を描いていく。そして一階台所の勝手口にバツを付けた。虎丸と龍之進も、それぞれ彼の描く絵の左右にしゃがみ込む。

「あえて勝手口の方に見張りを付けるのは止めようぜ。相手は外からくるだろうし、誘い込む為にもな」

「勝手口近くで見張って、近づいてきた瞬間確保ではいけないのか?」

 龍之進は首を傾げる。

「いや、それだと、最悪通りがかっただけの人違いの可能性もあるし、実際に犯行に及んでるところを捕まえたいな。それに、どうやってやってんのかも確認したい。防犯のためにもな」

「建前だろ、それ。興味本位が実際だろ」

 虎丸は蛇介の本心を見抜くように目を細めて言った。蛇介は悪戯気に笑う。

「強く否定はしない」

「ったく……。勝手口の閂は降ろしておいていいのか? 下手に開けっ放しにしたら、罠だって言ってる様なもんだよな」

「ああ、普段はちゃんと戸締りしてるんだろ? だったらそれも再現して置こう。こっちはいつも通り、何も身構えてない状態だって思わせなきゃな」

「じゃあ、何処に隠れる? 大部屋から台所を覗く感じか?」

 龍之進が蛇介の描いた見取り図を指さして言った。彼の示した砂の上の大部屋を示す部分は、大きな空白になっているが、実際には大きな机や椅子がいくつも並んでいる。そこに隠れるつもりなのか、と龍之進は考えたようだ。しかし蛇介はそれに渋い顔をする。

「うーん、ただ、まじで相手の動向が分からねえからな……。表口から堂々と入ってきてる可能性も万に一つはあるからな。大部屋で鉢合わせても笑えねえ」

「その時は俺がぶんなぐって捕まえるぞ」

「お前、足の速さに自信は?」

 蛇介の突然の質問に、龍之進は分かりやすく苦虫を噛んだような顔になった。基本的に堂々とした彼には珍しく言い淀む。

「む……な、なぜ俺の唯一の弱点を知っている……」

「ああ? いや、別に知ってて嫌がらせ言った訳ではねえんだが……。相手の方が足が速かったら、逃げられてそれで終わりだろ? って言いたかったんだ。見つからなければ捕まえられなくても次があるが、こっちが罠を張ってるってばれたら一巻の終わりだ。相手は二度と姿を見せないだろ」

「脚力には自信があるのだがなあ、跳躍力にも足腰の踏ん張りにも……。なのに走るとなると、てんで駄目なのだ……。足元を踏み割るか、上に飛ぶかするばかりで、前に進まん……」

「聞けよ俺の話」

 全く関係の無いことを言いながら、眉を寄せて首を垂れる龍之進の頭を蛇介ははたく。それでも黙りこくる彼の肩を、虎丸が軽く支える。

「凹むなよ、龍之進。別に足が遅くても、困ることなんて何にもないし、お前には他に長所があるんだし……」

「山暮らしだったからだろうなあ、お前。平らな場所を走んのは苦手でも仕方ねえだろ」

 このままでは話が進まないと思ったのか、蛇介も虎丸の励ましに乗る。龍之進は二人の言葉に、拗ねたように答えた。

「平地は柔らかすぎる。山は俺がどれだけ踏ん張っても、砕けることなどなかった」

「山でも平地でも、地面を割るのは人間技じゃねえ」

 虎丸は思わずそう零す。

「まあまあ、足を速くしてえなら、今度何とかしてやるよ。俺は逆に素早さには自信があるからな」

 蛇介はそう言って笑った。虎丸はふと首を傾げる。

「そうなのか? なら、もしもの時は蛇介が捕まえて、それを龍之進が押さえれば、鉢合わせても平気なんじゃねえか?」

「いいや、俺の専門は逃げ足だ。捕まえて取り押さえるってことになったら、赤ん坊相手にも負けられる自信がある。相手がどれだけ非力な赤ん坊でも、俺は足止めにもなんねえ」

「それは誇れることなのか?」

「ちなみに虎は?」

「足の速さか? 平凡だな、俺も身軽って方ではねえ。相手次第って感じだ」

「まあだから、万が一逃したとき、追いつけない龍、追いつけるか分からねえ虎、追いつけるけど捕まえられねえ俺。つう訳で、初日は顔を合わせずに相手の行動を確認したい。その上で絶対に捕まえられる方法を考えよう」

「なら、結局何処に隠れる? 二階に続く階段か? それとも、一階の庇の上にでも張り付くか? でも、どちらも場所次第では相手から見えそうだし、台所が見えにくいな?」

 蛇介の言葉に龍之進は不服そうに聞いた。考えられる手が行き詰まったように感じたのだろう。蛇介は深く頷いた。そして彼は二面に分かれた二階と一階の見取り図の間に枝を突き立てた。

「おう、だから屋根裏に隠れよう」

「屋根裏?」

 砂に立つ枝に一度視線を集めて、虎丸と龍之進は蛇介を振り返った。

「店を直したとき、もともと一階と二階の間に多少の隙間があっただろ? 天井や二階の床の穴を塞いだ時に気付いたんだが、今でも二階の畳と床板を外せばそこに入れるな? それだったら、いつも通りに眠るみたいに二階に引っ込んでから、こっそり戻れる」

 二人分の顔に見据えられて、蛇介は不敵に笑い、虎丸に問いかけた。虎丸もにやりと笑ってそれに答える。

「おう。何だったら、畳は嵌めてるだけだし、床板も少しの手間で外せる。ただ、俺ら三人が一辺に台所の天井裏に潜んだら、絶対底が抜けるぞ。全員結構体格良いし」

「そうだな、俺は筋肉量があるから重いし、虎も大概がたいは良いしなあ。蛇介はひょろそうだけど、長いからなあ」

「長いってなんだ、身長だろ? 確かにあの狭い部分に、俺は収まり難いだろうな。ずっと入ってたら腰が曲がる。だから、天井裏にはまずお前ら二人で潜め。俺は二階の窓から外でも見張ってる。かつ、時間で交代していこう。なんだかんだ、三人全員貫徹は効率が悪い。それに、長期戦になることもあり得る。少なくとも俺は、一日で終わるとは思ってない」

「ふむ、なるほど。また楽し気な計画だ。一応確認するが、捕まえられそうなら初日に捕まえても良いのだな?」

 龍之進は開いた左掌を、右の拳で強く殴った。

 さざめく波の音が、穏やかに穏やかに開戦を告げる。

 作戦立案を終えると、龍之進はそのまま海岸線に沿って船着き場まで、荷下ろしの仕事に出かけて行った。

 残された二人は砂浜を引き返し、藤野屋に向かう。潮風に押されて家路をたどりながら、蛇介は虎丸に小さく耳打ちをする。虎丸はそれに徐に頷いた。


 家に戻ると虎丸は台所に入り、蛇介は大部屋で帳簿を広げる。務めて普段通りを演じながら暫くすると、虎丸が隣の部屋にいる蛇介に呼びかけた。

「なあ、なんか上から鼠の鳴き声みたいなのがする。ちょっと見てきてくれねえか」

「まじか、分かった」

「悪ぃな、お前も忙しいのに。ちょっと今、手ぇ離せなくて」

「気にすんな、飲食業として害獣は後回しにできねえからな」

 そう言うと、蛇介は二階へ上っていった。

 藤野屋の二階は、閑散とした広い畳の大部屋になっている。もともとの藤野屋自体かなり大雑把な作りで、細かく部屋が沢山ある様な設計では無かった。その上作り直す時に、三人が仕切りを作るのを面倒がったせいで、新藤野屋二階は一階丸々ぶち抜きの大部屋になるに至った。そこに三人分の質素な寝具などが、ぽつんと小山を作っている。

 蛇介は部屋の隅や押し入れなどを重点的に、入念に調べていく。そして、ある程度くまなく調べ終えると、首を傾げるような仕草や、足元を踏みしめるような動作を挟んで、畳に手をかけた。

 言わずもがな、全ては監視者を想定しての小芝居だ。自然に屋根裏に潜む準備を進めるため、二人が帰りがてら企てた計画通りとなる。

 蛇介は畳を一枚外し、下から現れた床板の留め具を外して持ち上げる。直ぐに太い木組みが張り出した隙間が見えてくる。床張りを担当したのが何かと気が付く虎丸なせいか、板と畳は丁寧に隙間なく並べられており、光の差し込まない床下はとても暗い。

 蛇介は小さい蝋燭をいくつか用意すると、一つに火を灯して暗闇に降りる。蝋燭の浅緋色の光に浮かび上がる床下の空間は狭く、さらに組み木が幾重にも交差していて、長身の蛇介には一人でも窮屈に感じられた。虎丸が立てる幽かな調理の音を頼りに、蝋燭を等間隔で設置しながら、何とか彼は台所らしき場所の上まで這っていく。

 そして、天井の羽目板を一つずらして、下に虎丸が見えることを確認した。虎丸も頭上でした音に反応して顔を上げる。天井の隙間から二人は目を合わせると、双方互いにのみ分かるくらいの仕種で頷き合った。

 蛇介がずらした天井板の隙間は小さいが、充分に採光の役目を果たした。忍び込んできた日光に、薄ぼんやりと暗がりが照らされる。自分が並べた蝋燭の道しるべが、二階の床の入り口から一階天井の目的地まで、きちんと繋がっていることを確認して蛇介はほくそ笑んだ。これで夜でも、これらに火を付けながら辿っていけば、台所をひっそりと覗くことができる。

 そう算段を立て、蛇介は再び二階へ戻ろうと踵を返した。そこで蛇介はふと違和感に気付く。

 階下からの光で俄かに明るくなった天井裏には、隅の方に蠟燭の光では気付かなかった不思議な箇所があった。台所の真上に一部分にのみ、板で四角く区切られ閉ざされている空間があったのだ。材木の古さから見て、旧藤野屋の名残らしい。

 現在の藤野屋は、旧藤野屋のまだ使える部分はそのまま活かして修理した姿だ。よっぽど腐っていたり、壊れていたりする箇所は取り換えたが、昔の姿が残っている箇所があっても不思議ではない。けれどなんとなく、その妙な構造は新旧問わず無意味な気がして、蛇介は興味を惹かれた。

 蛇介は傍まで這って行き、その仕切りを調べる。表面をなぞり、拳で軽く叩くと、その仕切り板はだいぶ薄く、簡単に外れそうなことが分かった。蛇介は板の隙間に指をかけ、慎重に取り外す。

 途端、ばさっと音がして中から何かが溢れてきた。

「なんだこれ……布?」

 それは、藤色の大きな布の塊だった。ぐしゃぐしゃに丸められてその狭い空間に押し込まれていたようで、それが抑えを失って勢いよく崩れ落ちたのだ。

 広げてみようにも、天井裏のこの狭さと暗さでは分が悪いと、蛇介はその布の塊を小脇に抱え、今度こそ二階へと這い出した。

「天井裏に収納でもあったのかねえ。それを修理の時気付かず塞いじまったのか……」

 言いながら蛇介は持ってきた布を畳の上に広げていく。

 するとそれが、大きな一枚ではなく、大きめの数枚だったことが分かった。服飾関連に疎い蛇介でも、それが登り旗や暖簾として作られたものであることは一目で察せられた。形があからさまに分かりやすかったし、何よりもその濃い藤色の布には『ふじの』という白い染め抜きがあったからだ。

「蛇介ー、鼠いたかー?」

 階下から虎丸の呼び声が聞こえる。だいぶ長く降りてこない蛇介が気になったのだろう。

「ああ、屋根裏にでっかいのがな。退治しといたぜ」

 蛇介は予め決めて置いた台詞で返す。準備が滞りなく終わった合図だ。

「それと、なんか面白いもん見つけたんだが、何かに使えねえかな。後で見てみてくれよ」

 虎丸に聞こえる様大声で言いながら、蛇介は暖簾たちを畳んで抱え上げる。そこで彼はふと首を傾げた。

「結構綺麗だな、これ」

 旧藤野屋の備品。今日発見されるまで数十年放置されていただろうに、その布は多少褪せてはいるものの、表面には埃や塵が見受けられなかった。しかし、特に疑問に思う程の事もなく、蛇介はそれらを押し入れにしまい込んだ。

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