どんぞこ

「えーっと、ここ……の筈なんだけど」

 そう言って万兎羽は立ち尽くす。虎丸も彼に追いついて、彼の視線の先に目を遣る。

「原因の山寺って、ここだったんだな」

 山の中腹、目的地には廃寺がある。ただ、その在り様を、『廃寺があった』と言うべきなのか、『廃寺だったものがある』と言うべきなのかは定かでない。

 とっくのとうに寺で無くなったと言うのに、さらに追い打ちをかける様に、その建物すら念入りに破壊されていて、もはや廃寺ですら無くなっている。まるで上から押し潰したかのように、木々の骨組みはぺしゃんこだった。

 万兎羽は、辺りを見渡して、呆れたように言う。

「惨いもんだな。打ち壊しったって、何もここまでしなくても。でも、一体どうやって壊したんだか。上から岩でも投げ込んだんじゃなきゃ、こんな風にはならないと思うけど」

「あ、いや、これは、仏様がどうとかじゃなくて、龍之進が叩き潰したんだ。屋根から風穴を突き通したから、そこから崩れちまったんだな」

 虎丸は、春の終わり頃、ここで付喪神たちとやり合ったことを思い出して、ふと笑った。そんな彼に、万兎羽は顔を顰める。

「こんな時に、何を馬鹿な冗談言ってんのさ。いくら潰れかけとは言え、家一つ叩き潰せる人間が居るもんか。ほら、さっさと仕事に取り掛かるよ」

「そうだな、あいつは人間離れしてる。で、俺は何をすればいいんだ?」

「とりあえず、入り口を探さないと。どっかに、洞窟があるって言うんだよ。この寺はその上に建てられてるんだと。まずはそれを見つけてからだ」

「上に建てたって言うなら、洞は下か? 小さい寺だし、縁の下も限られてそうだけど」

「下ねえ……小さいとはいえ、この潰れたお社を掘り返せって言うのは、重労働だなあ」

「龍之進が居れば、すぐなんだが」

「君のお兄さんに対する全幅の信頼は何なんだよ」

「信頼って言うか、事実なんだけどな」

「はいはい。一応発掘に取り掛かる前に、微かな望みに縋って、まずは辺りを一周してみるか。もしかしたら、本殿じゃない場所に隠してあるかもだし」

「分かった。けど、こんなに草ぼうぼうじゃあな。一目見て回るのも大変そうだ」

「俺は左側から回るから、君は逆側からで。まあ、なんか見つけたら呼んでよ。狭い境内だし、反対側からでも聞こえるでしょ」

「おう」

 万兎羽の指図に従って、虎丸は潰れた社の右側に回り込む。

 春の暮から伸びざらしだった草木だが、夏の勢いを借りて、さらに丈が増している気がする。それらを掻き分け進みながら、虎丸は辺りを見渡す。

 付喪神を追って来た頃は朝方だったからか、明るい日の光に照らされて、寂しくはあれど清々しい雰囲気の場所だったような印象がある。けれど今は、日が暮れているせいか、それとも、社が空しく崩れ落ちているせいか、薄闇の中で廃寺は酷く不気味に見えた。

 廃寺は、街へ降る山道を面に、高くなっていく山を背に、山腹の少し開けた場所に佇んでいる。境内そのものも、緩やかではあるが奥に向かって勾配を描いている様だ。

 小作りの山寺でさして探す場所があるでもなく、結局、目ぼしいものも見当たらず、社の裏手に回り込むことになった。

 そこは、角度を増していく山壁と潰れた社に挟まれた様な狭い裏庭だった。とはいえ、絵馬かけだったらしい木組みが、草に呑まれて傾いている以外は、取り立てて目立つものも無い。

 見渡すと、先に白髪頭の背中が見えた。万兎羽だ。どうやら、彼は既に左側から回りこんでいたらしい。

 しかし、彼はとっくに仕事を終えて虎丸を待っていた、と言う訳ではないようで、少し上体を傾けて、何かを覗き込んでいるような姿勢だった。まだ少し距離はあるが、いきなり近づいて驚かせても、また文句を言われそうなので、虎丸は歩み寄りながら彼に呼び掛けた。

「おい、こっちは何もなかったぞ。そっちは何かあったのか?」

「ん? ああ、ちょっとね」

 そう言いながら、万兎羽が振り返る。少し近づくと、彼の後に低い石組が見えた。

「古い井戸があったんだ。もう枯れてるけど、下に向かって開いてる穴って意味では、蛍の洞窟に通じているかも、と思ってさ」

「井戸……そうか。それで、何かありそうか?」

「うーん、暗くて良く分かんない」

 特に気負いもなく歩を進めながら、ふと虎丸は思った。蛍は、何処だろう? ついさっき、山道の半ばで、花火と散るほどの大群に襲われて以降、一匹も見ていない。この寺が発生源と言うのなら、もっと、うじゃうじゃ居ても良さそうなものなのに。

 虎丸の歩みの先には万兎羽と古井戸。彼我の距離は、大人の背丈一人分という所だった。

 その瞬間、突如万兎羽の背後の古井戸から、光の煙が沸き立った。赤と黄緑の混交、風も無いのに沸き立ち蠢くそれは、蛍だ。

 虎丸は目を見張る。一気に明るくなった周囲に、万兎羽も異変を察したのだろう。彼の振り替える動きが、虎丸には酷く遅く見えた。蛍の群れが万兎羽を飲み込む。光の中で、彼の体が、後ろに傾き、井戸の石枠を超えようとするのが見えた。

 虎丸は咄嗟に地面を蹴って、彼に向かって手を伸ばす。虎丸が伸ばしたのは右手だった。丁度、引き摺られる体に取り残されるように、万兎羽の右手が虎丸の方に伸びている。その手を、虎丸は掴んだ。後は、万兎羽が握り返せば、引き戻すことが出来る。

 けれど、万兎羽の右手は、僅かに指先が戦慄いただけで、虎丸の手の中からすり抜けていった。虎丸は一瞬の驚きに、万兎羽を見る。光の逆光で、彼の表情は見えなかった。

 虎丸は、もう一歩地面を踏みこみ、蛍の群れの中に飛び込んだ。手足に、ずきりと鋭い痛みが走る。蛍が噛みついてきている。しかし、その痛みに拘らっては居られない。

 虎丸は蛍を振り払って、万兎羽に飛び掛かった。もう、二人の体は殆ど井戸の大穴の上に投げ出されていて、ここから体勢を立て直すのは無理だ。だから、虎丸は咄嗟に、万兎羽の頭を両腕で抱え込んだ。彼の頸椎と頭蓋を保護する様に抱き込み、体を捩って、彼の体の下に自分を割り込ませる。

 全ては一瞬のことだった。次の瞬間には、二人は井戸へと真っ逆さま。そしてまた随分長い一瞬の間、宙に浮いたかと思うと、剝き出しの井戸の底に強かに叩きつけられた。背中から落下した虎丸は、肺を殴られたかのような衝撃で息が詰まる。

「おい! ちょっと、大丈夫?」

 切羽詰まった万兎羽の声が、何処か遠く聞こえた。声の調子をみるに、彼は無事なようだ。何とか息を取り込もうと喘ぎながら眼を開くと、自分を覗き込む彼の背後、井戸の円い口から蛍が下りてくるのが見えた。声がまだ出ない。虎丸は何とか手を持ち上げて、危険を指し示す。

 万兎羽が振り返り、舌打ちをした。彼は懐から何かを取り出し、蛍に向かって掲げる。すると、蛍は怯んだように井戸の半ばで動きを止めた。じりじりと恨めしそうに飛び交いながらも、それ以上は降りてこない。

 何とか呼吸が整ってきた虎丸は身を起こす。

「……平気なの?」

「おう」

「一応、不本意だけど、お礼は言っとく。下敷きになってくれ、なんて頼んだ覚えは無いけど」

「別に、見ての通り、俺は頑丈だ。こんな傷でも死んでないんだから、井戸に落ちたくらいじゃ死にはしない。どっちかが先に落ちるなら、俺の方が適任だと思っただけだ」

「あっそ」

 それから、虎丸は万兎羽に目を向けた。彼は蛍に何かを掲げたままだ。それは小さな巻物だ。万兎羽はそれを解いて、何かが書いてある面を蛍に向けて掲げている。左手で。

 特に所在なく投げ出された彼の右手に目を遣って、虎丸は少し責める様に言った。

「治ってるって、言ったのに」

 それが何を指しているのか、明言はせずとも伝わったのだろう。万兎羽は虎丸を見向きもせずに、ぶっきらぼうに答える。

「……嘘は行ってない。傷口は塞がってるし、自然にしてて癒えるところまでは癒えてる。ただ、元通りにはならなかっただけ」

 その端的な言葉は、虎丸にも良く分かった。治ることと戻ることは違う。それが同じことならば、虎丸の虎模様だって残らなかった。虎丸は嫌がられる問だと分かって、絞り出すように聞いた。

「どれくらい、悪いんだ」

「なんで言わなきゃなんないの」

「この状況を切り抜けるためにも、お前がどれだけ動けるのか、知っておかなきゃ駄目だろ」

「……ちょっと麻痺が残って、握力が大分弱くなった」

「どうすればいい? 井戸は、登れないだろ」

「登れたとしても、意味ないでしょ。あれが待ち受けてるんだから」

 それもそうだ。井戸の底で、行く手には蛍。しかも、万兎羽が巻物を掲げ続けているところを見るに、それが蛍を撥ね退けているのだろうが、少しでも逸らしたらお終いなのだろう。

「それは、なんだ?」

「ただの絵だよ。真神の姿絵。神主どもから巻き上げてきた」

「真神……あの神社の、犬の神様か?」

「そう、奴らの天敵。けど、ただの絵だ。その内、偽物だって気づかれる」

 万兎羽の言う通り、蛍たちがじりじりと高度を下げて来る。虎丸は、自分の腕に目を遣って言った。

「なあ、あいつらは何なんだ。あれが蛍じゃないのは分かったけど、じゃあ、なんなんだ?」

 腕には、噛み跡が残っている。しかし、それは虫食いの痕や、獣の口型とは違う。明らかに、人の歯型の痕だった。

「さあね。名付けられてはいないもの、象られてはいないもの。そういうものだと思うよ。ただ、真神の力で封じられる何かではある」

「退治の仕方は無いのか? 追っ払う方法とか」

「あるよ。真神を祀って、封じてもらえばいい」

「……つまり、俺たち自身でどうにかすることは、できないってことか?」

「そうなるね」

 万兎羽の言葉は、淡々としていた。蛍がにじり寄って来る。虎丸は藁にも縋る思いで、井戸の中を見渡した。けれど、のっぺりとした石壁が無情にも見返してくるだけだ。

 その時、ふと虎丸は肌寒いものを感じた。もう、とっくに日が沈んでいる。風が冷えるのも当然だ。しかし、そこで虎丸は違和感を抱く。風は、井戸の上から吹き込んできたのではなかった。今、確かに体の横から風が吹きつけてきた。

 虎丸は、井戸の壁面の風の出所と思わしき部分を撫でる。やはり、手のひらに微かだが冷たい隙間風が当たった。しかも、石組みの一部が頼りなくぐらついている。

 虎丸は井戸の底に転がっていた手近な石を掴み、隙間風に向かって叩きつけた。ぐらついていた石が叩き出されるように、向こう側にすっぽ抜け、そこから周囲の石組もいくつか崩れ落ちる。たちまち、大人でも這いつくばれば通れそうな穴が現れた。しかも、穴は行き止まりではなく、向こう側に伸びている。

 大きな音に驚いたのか、万兎羽が振り向いた。虎丸は穴を指し示して声を上げる。

「万兎羽! こっちに横穴がある!」

「……分かった。どうせ八方塞がりだ。一か八か行ってみよう」

 虎丸は頷いて、穴の中に潜り込んだ。万兎羽も続いて、穴の入り口を塞ぐように絵巻を引っ掛けて、その隙間から潜り込んできた。そのまま二人は狭い横穴を匍匐前進で進む。

 暫くすると、穴は開け、小さな空間に出た。

 壁も床も土づくりだが、自然の洞ではない。正方形の形にくり抜かれていて、人の手を感じさせる小さな間だった。部屋の中央には、真上から一筋の淡い光が垂れている。

 そして、その光に照らし出されるように、大人の胸の高さほどしかない小さな社が建っていた。土台の上に、神社を小さくしたような建物が乗っている。その観音開きの扉はしっかりと閉じていた。土づくりの間だが、社の下部分だけは板張りされている。

 万兎羽は立ち上がり、その小さな社に近づいた。

「……なるほどね。ここが旧真神寺の旧真神神社って訳だ。多分、この板張りの下が蛍の洞なんだろうね」

 虎丸も彼に近づき、辺りを見渡す。

 部屋を満たす光は静かで淡く、清廉な雰囲気があった。蛍の怪しく眩い光ではない。光の源を辿って天井を見上げると、天井の一部が四角く切り取られているのが分かる。恐らく、この部屋への本来の正しい入口はあそこで、梯子なんかを使って降りてくるものなのだろう。その天井の四角い穴は、板切れなどで殆ど塞がれているが、その隙間から暗い空と薄雲に隠れた円い月が見えた。

「ここ、もしかして本殿の下なのか」

「そうだね。位置的にも、本殿裏の井戸から横穴を辿ってきた訳だし、間違いない」

 そう言って万兎羽も顔を上げた。彼の瞳に月が映る。

 その横顔を見て、虎丸は気付いた。そうか。万兎羽の目に灯るあの光。胸を空くような不思議な光。あの夜空の霞む月にそっくりだ。

 月を見上げる万兎羽の瞳が輝いて見える。月光を弾いているのだろう。けれど、彼の瞳自体が光を発しているようにも見える。

どこか神秘的な空気が、土の間を満たした。虎丸は思わず息を殺す。

 万兎羽が月を見た。そして、月も彼を見た。月と彼の間で、何かが交わされている。今天球の真円とこの白髪の男は繋がっている。そんな風に感じられた。誰も入り込む余地が無いほどに、彼とあれは一対一だ。

 こんな土壇場で悠長に月見が出来る筈はないのだから、恐らく彼がそうしていたのは、ほんの一時だったのだろう。ややあって、万兎羽は月から目を逸らして、虎丸を見た。

「まあ、さっきは助けられたし、お礼につまらない占いでもしてあげる」

「え?」

「君の犬は戻って来るよ」

 万兎羽がそう言った瞬間、びりっと何かが破ける音がした。何かではない。ここで破けるものがあるとしたら、万兎羽が横穴の入り口を塞ぐのに使った巻物だろう。蛍があれを突破してやって来る。虎丸は穴に向かって身構えた。

 しかし、万兎羽はまるで緊張感が無く、世間話でもするかのような調子で言った。

「ねえ、何が嫌だったんですか?」

 それは、虎丸に向けられた台詞ではない。口調も優しく、言葉遣いも丁寧だった。振り返ると、彼は小さな社に向かって話しかけていた。

 何か意味のあることなのだろう。虎丸はただ黙って、それを見守った。辺りは静かだった。横穴の奥が明るくなってくる。蛍が近づいてきている。

 その瞬間、辺りに遠吠えが響いた。そして、それに続いて、子供のような老人のような、音とも揺れともつかない不思議な声が聞こえた。

『おれは、ここが好きだったのだ』

 何処から聞こえているのか、まるで見当もつかない。右と思えば左、上と思えば下、後ろと思えば表から聞こえてくるようだ。

『あたらしい社は、匂いがやかましいし、色もはですぎる。おれはここくらい、ほどよい所がおちつくのだ。山から下りるのもいやだ。おれは、山を走り回るのが好きなのだ』

 しかし、その不思議な声に、万兎羽は平然と言葉を返す。

「じゃあ、藤野屋はどうですか」

 突如出てきた店の名前に、虎丸は顔を上げた。そんな彼に気づいてはいるのだろうが、万兎羽は淡々と続けた。

「あそこなら、町の外れですし、山にも近いですよ。虎丸君なら、毎日散歩に付き合うと思いますよ。店もいい感じにせせこましくて、地味ですし、きつい香の匂いなんかしませんよ」

「今、俺らの家をせせこましいって言ったか?」

 彼の言葉尻に噛みつきながらも、万兎羽が自分の名前を憶えていたことに、虎丸は少なからず驚いた。万兎羽は虎丸の文句は無視して続ける。

「新しいお社の匂いが薄れて、色褪せるまで、藤野屋で暮らせばいいじゃないですか。絵具や香なんて、雨風に晒されて数十年も持ちませんよ。山まで帰る道のりも、ゆっくり覚えていけばいい」

『おれは、まがいなりにも、真神のわけみたま。血のかおるにんげんに、かた入れなどせん』

「曲がりなりにも、ですよ」

『うるさい!』

 そうして不思議な声との応酬を終えると、万兎羽は突然虎丸に水を向ける。

「ねえ、虎君。君は犬を飼うなら、大事にするよね。毎日おいしいご飯を用意するし、毛並みも整えてあげるよね。一緒に山を散歩するのだって、どんと来いだよね」

 虎丸は目を瞬いた。話の流れがまるで見えない。けれど、そこで虎丸は、昨夜の自分と龍之進の境内での会話を思い出す。万兎羽もそれを聞いていたと言った。なら、この脈絡のない台詞は、その話を受けてのことなのだろう。ならば、返事は決まっている。

「当たり前だ。三食きちんと体に良くてうまい飯に、間食だってつける。朝晩必ず散歩に行って、遊び相手になるし、夕には湯に浸した手拭いで体をふいて、櫛で毛並みを整えてやるんだ。夜は絶対家の中に入れるし、噛む用のおもちゃも木を削って作る。暑い日は団扇で仰ぐし、冬には寒くないように服だって……」

 話している内に、知らず知らずに言葉に熱が乗り、止まらなくなる。万兎羽は、うんざりしたように片手を挙げて虎丸を制した。

「分かった分かった。それくらいで十分だよ」

「……黒豆にしてやりたかったことが、いっぱいあるんだ。あいつに、してやりたいことが、いっぱいあるんだ」

「だそうですよ。あなただって、ご眷属を通して、あの話は聞いてたはずだ。手水場の、茶色い犬」

『……ふん』

 次の瞬間、小さな土の間に強烈な風が吹き荒れた。

 虎丸も万兎羽も思わず腕で頭を守る。風を真に受けて瞑りそうになる目を、何とか開いて辺りを見と、閉じていたはずの社の小さな戸が開いている。奥行きも大して無さそうな社なのに、その戸の中は真っ黒で何も見えない。そして、どうやら突風はそこから吹き出ている様だ。

 風はますます勢いを増し、土の間の中で渦を巻きだした。横穴から、ずるりと蛍の大群が沸き出てくる。しかし、それは今までの様に襲い掛かってくるような動きではなく、風の流れに巻き込まれて、引きずり出されたようだった。蛍を取り込んだ風は徐々に軌道を縮め、社の前に吹き溜まっていく。

 そして、風に巻き上げられた砂埃がそう錯覚させたのか、風の中に躍動する巨大な犬が見えた様な気がした。その犬が、追い込まれた蛍の群れに飛び掛かり、光の塊を丸吞みにすると、そのまま社の中へと消えていった。ぱたんと、社の戸が閉まる。

 そして、言い残すように一言、不思議な声が響いた。

『仕方ないから、みとめてやる。おやつを必ず、わすれるなよ』

 風が止まる。虎丸は、静まり返った土の間で呆然と立ちすくんだ。

「……なんだ、今の」

「別に、何でもないものだよ」

「何でもないって、でも今、風の中に犬が……」

「犬? あれのこと?」

 そう言って万兎羽はとぼけた様に、社を指した。虎丸もその動きにつられて、そちらに視線を遣った。すると、社の戸が再び開き、その中から一匹の仔犬が飛び出してきた。それは、灰色で大柄の、あの仔犬だった。

「あっ、お前、お前! 良かった! 生きてたんだな!」

 虎丸は仔犬に駆け寄る。凶暴で懐かない犬だったのに、大人しく吠えもしないと思ったら、仔犬は口に何やら古びた木の塊を咥えていた。万兎羽も近寄って来て、犬の側に屈みこむ。

「ああ、やっぱりお持ちだった。ご神体なんて、そうそう動かしもしないものが無くなるなんて、おかしいと思いましたよ。貴方が持ち出したんですね」

 そう言って万兎羽は仔犬に手を差し伸べる。仔犬の方も心得たように、咥えていた物を彼の手の中に落とした。そして、虎丸に近寄り、一声鳴く。虎丸は仔犬を抱き上げる。犬は抵抗しなかった。虎丸は犬を抱いたまま、万兎羽の手の中を覗き込んだ。そこには、小さくて味のある、木彫りの犬が乗っていた。

「なんだ、これ」

「真神の分霊のご神体。真神を祀るために必要なもの、だと思われているもの」

「だと思われて?」

「ご神体の形なんて、本当はどうでもいいんだよ。無くなったら、新しく作ってもいい。大切なのは、きちんと御霊が移り住んでくれること」

「ふうん、良く分からねえけど」

「分かる必要もないよ。君はそちらの犬を、きちんとお店にお連れして、丁重にお迎えすることだけ忘れなけりゃいいの。飼い主なんだから」

 万兎羽の言葉を聞いて、虎丸は思わず小さく噴き出した。万兎羽が怪訝そうに虎丸を見る。

「何? 急に」

「いや、なんか、お前って、本当に亀蔵さんの後輩なんだなって」

「は?」

「だって、亀蔵さんもミケさんに、敬語使うだろ? お前は亀蔵さんと違って、人間に対しては失礼だけど、亀蔵さんと同じで動物には丁寧なのが、なんか面白くて」

「……なんだ、そんなこと。くだらない」

「もう、蛍のことは片付いたのか? そのご神体が戻ってきたことで」

「まあね。ちょっと予定外のこともあったけど、これで蛍は封じられる。まあ、二、三日は残党が出るかもだけど、直に収まるよ」

「そうか、じゃあ帰って、蛇介と話し合わねえと……あれ? でも、どうやってここから出ればいいんだ? お前の腕じゃ、あの天井の穴からでも、井戸からでも、這い上がるのは難しいだろ?」

「大人しく待つのが吉だとさ。大方、先輩たちが、こっちに向かってるんだろう」

「そうなのか?」

「君は帰って良いよ。もう用は無い。人の下敷きになって落っこちた割には元気そうだし、問題なく井戸も這い上がれるだろ」

 そう言って万兎羽は、土の間の隅に腰を落ち着けた。虎丸は、天井の穴と万兎羽を見比べた。そして腕の中の仔犬に目を落として、暫く考えてから、彼の隣に腰を落ち着けた。

「……ちょっと、何? 気持ち悪いんだけど」

「いや、俺もこいつを抱えて壁をよじ登るのは難しそうだし、一緒に待っていようかと思って」

 万兎羽は居心地が悪そうに身じろぎをしてから、大きく溜息をついた。

「まあ、勝手にすれば?」

「おう」

 土の間に静寂が落ちる。人を噛む蛍が消えたのは良いことなのだろうが、いざ居なくなってみると、薄暗い中にあの眩しさが少し惜しい気もする。

 暫くして、仔犬がまた一声鳴いて、虎丸の袂に鼻を寄せた。

「ん? ああ、腹が減ったのか。そう言えば……」

 虎丸は懐から、竹皮の包みを取り出す。結びを解くと、中から小さな三色おはぎが顔を出した。

「すっかり忘れてた。屋台の残り物で作った奴。昼飯代わりにしようと思ってたんだ。すっかり乾いてるし、潰れちまってるけど……」

 仔犬が嬉しそうな声を上げる。それに被さるようにして、隣から腹の虫が聞こえてきた。虎丸は万兎羽を見る。万兎羽は気まずそうに目を逸らして、言い訳がましく言った。

「……仕方ないだろ、夕飯もまだなんだから」

 虎丸は、手の中のおはぎを見て、それからもう一度万兎羽に視線を移すと、恐々と尋ねた。

「一つ、食うか?」

 万兎羽は差し出されたおはぎを暫く見つめて、それから虎丸を見る。そして、ひったくる様に、餡子のおはぎを手に取って口に放り込んだ。暫く咀嚼して、嚥下する。そして彼は、少し驚いたように言った。

「……美味しい」

「本当か?」

「思ったより、甘くない」

「ああ、甘いの嫌いなんだっけか。うちは、砂糖はあんまり使わねえんだ」

「……ちょっと、固いけど」

 うっかり手放しで褒めたのを、取り繕う用に悪態を吐く彼がなんだかおかしくて、虎丸は笑った。

「まあ、作ってから時間経ってるからな。今度、出来立て食いに来いよ。もう少し、美味いと思う」

 残りのおはぎは、いつの間にか仔犬の口の中だった。

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