はくじょう

 真神神社の境内。参道にはちらほらと屋台が並び、本殿前の広場では、祭囃子と共に舞が披露されている。薄闇の迫る頃合い、一つ、また一つと色鮮やかな提灯がともされていく。

 晩夏の祭りの中心である神社は、華やかで、幻想的な美しさに満ちていた。

 そんな神社の社務所から、地を這う様などすの利いた声が上がる。

「ふざけるなよ、貴様ら」

 それは、岡谷鶴吉の声だった。その言葉を向けられた、狩衣の老人二人は部屋の隅で、竦みあがって震えていた。

 社務所の中へと案内された龍之進と蛇介は、部屋に上がろうとして、固まった。

 部屋の中心には、鶴吉が正座している。恐らく、座布団の配置を見るに、今部屋の隅に飛び退いている老人たちも、初めは部屋の中心で彼と膝を突き合わせていたのだろうが、もはや居住まいを正すことは叶わないだろう。それほどの気迫を、鶴吉は発していた。

 もともと、口調の厳しい男ではあるが、今回は比ではない。彼は、凛と背筋を伸ばしたまま、身じろぎもしていない。しかし、たった一言と、その眼力だけで、人を殺せそうなほどだった。

 状況は分からないが、一触即発の空気の中、とりあえず龍之進は拳を握りこんで応戦体制を整え、蛇介は片足を引いて逃げの姿勢を整えた。

 そんな中で、場違いに柔らかい声があがる。

「ああ、龍之進さん、蛇介さん。いらっしゃったのですね」

「亀蔵さん……」

 ひょっこりと鶴吉の横から、亀蔵が顔を覗かせる。恐らく初めからそこに座っていたのだろうが、鶴吉の気配があまりに圧倒的で見逃していた。

 亀蔵の、いつも通りのぼんやりとした笑顔が、龍之進と蛇介に向けられる。

「亀蔵さん、いらっしゃったんですね」

 場合によっては、失礼にも捉えられる言葉だが、心の底からの安堵と共に、蛇介はそう言った。鬼の形相の鶴吉と、同じ造形の亀蔵が、全く正反対の表情をしていることで、やっと自分たちの身の安全が保障された気がした。

 龍之進も、そのやり取りを見て、漸く鶴吉は敵ではなかったと思い出したようで、静かに拳を収める。

「身支度の方は、お済でしょうか?」

「ああ、はい。こちらは何時でも行けますが……」

「申し訳ございません、こちらはまだ、片付いていなくて。こちらからお願いしたのに、お恥ずかしい限りです」

 そこで、蛇介は少し疑問に思った。鶴吉が老神官二人を問い詰めている状況。いつもの亀蔵なら『兄様、そんなに高圧的に迫ってはいけません』などと、助け舟を出しそうなものなのに、哀れにも震え上がる老人二人に、今は見向きもしない。

「……何か、あったんですか?」

 蛇介は、探る様に問いかける。亀蔵は、はたとして立ち上がり、二人に近寄って来る。

「そうですね。事情を説明しないといけません。どうぞ、お外へ。向こうでお話いたしましょう」

 亀蔵の言葉に、老神官二人が驚いたような声を上げる。

「か、亀蔵殿」

 名を呼ばれ、亀蔵は彼らを振り返り、小さく首を傾げた。老神官二人は、亀蔵を縋る様に見、それから鶴吉をちらりと見遣って、もう一度亀蔵を見る。

「こ、このまま居らっしゃってください……。どうぞ、兄君とご一緒に……」

「私がこちらに居ても、お邪魔なだけかと」

「い、いえ、弟君が居らっしゃった方が、鶴吉殿のお怒りも、その、落ち着くというか、お鎮まりになるかと……」

 その言葉を受け、亀蔵は少し考える様な素振りを見せてから、曖昧な微笑みを浮かべて言った。

「申し訳ございません。いくら考えても、此度ばかりは、兄の怒りを抑える理由が見つかりません」

 そしてぽかんとしている神官二人を置いて、亀蔵は、龍之進達に手真似で部屋を出るよう促す。そして、二人に続いて敷居を跨ぐと、亀蔵は室内に向けて小さく会釈をした。

「私が居ると、『兄様の』お邪魔になるかと存じますので」

 弟の言葉に、仁王像のごとく微動だにしていなかった鶴吉が、満足げに頷いた。事態を飲み込みかねていた神官たちの表情が、徐々に絶望に染まっていく。その様を最後まで見届けることもなく、亀蔵は襖をぴしゃりと閉めた。

「さて、玄関の方に行きましょう。こちらは騒がしくなりますから」

 蚊帳の外だった亀蔵と龍之進は顔を見合わせる。どうやら、鶴吉ほど分かり易くないだけで、亀蔵の方も怒り心頭であるらしい。

 さっさと歩き去っていく亀蔵の背中を、慌てて追いながら、蛇介は龍之進に囁く。

「あの人も、怒ることあるんだなあ」

「亀め、こころなし、いつもより歩くのが早い」

「あ、まじだ」

 その時、三人が立ち去るのを待たず、背後の部屋から怒号が上がる。

「騒がしくなるって言うのは、このことですか」

「ええ。兄様は声が通りますから、もう少し離れないと、会話に困りますね」

 そうして、二人は社務所を出て、その軒下に屯した。そこまで離れても僅かに聞こえてくるのだから、鶴吉の声は相変わらず名に恥じない。

「それで、何があったんですか?」

 改めての蛇介の質問に、亀蔵は境内に目を向ける。社務所周りには屋台もなく、人も居ない。しかし、少し離れた向こうには、行き交う人波が見える。

「お祭りは、良い催しでございますよね。皆さん、とても楽しそうで」

「そうですね、非日常的で、日ごろの気晴らしにもなるでしょうし」

「金儲けにもなるのだろう? 蛇介が、さっき売り上げを数えてほくほくしていた」

「馬鹿、黙ってろ」

「うむ」

「ふふ、仲が良くていらっしゃいますね。ええ、こんな素敵なお祭りを、悪だくみのために使おうなどと、許され難いことでございます」

 会話の雰囲気が変わり、本題に入ろうという気配を感じて、二人は静かに亀蔵に注目を集める。

「この神社は、由緒のある神社だそうですね。夏にも、いつもお祭りを催しているそうです。神社もお祭りも、それなりに歴史を重ねて来たとのことです」

 亀蔵は、人波に向けていた視線を二人に向ける。

「けれど、『肝試し』は、今年から取り入れられたそうです。ええ、市民を楽しませるために、新しい催しを取り入れるのは、素晴らしいことですが」

 亀蔵の言葉に、ふと違和感を感じて、蛇介は口を挟んだ。

「あれ? けど……肝試しについて、俺ここの奴らに話を聞いた覚えがあるんですが、肝試しも伝統行事だって言ってましたよ。だから、予算も多くついて、賞金に金一封も出せるんだって。記憶力には自信があるので、間違いないかと」

「……蛇介さんがお話を聞いたのは、どちらの神官さんかしら」

「えーっと、そうですね。確か、そう言えば、さっきの部屋で、奥の方に座っていた爺さんでした」

「そう……そんな前から。全く、酷い嘘つきが居たものですね」

 亀蔵の目が緩やかに細められる。それは、いつもの日に当たる亀のような穏やかなものではなく、噛みつく直前の凶暴な亀の仕草だった。

「どこから、何が、嘘だったんです?」

「伝統があるにしても、不釣り合いなほどの額。どうして金一封も出したのかしら。ましてや、始めたばかりの思い付きの催しだったと言うのなら尚更」

「……裏があるってことですか?」

「この神社、新しいとは思いませんか?」

「思いますけど……すみません、ちょっと話の筋が見えてこないんですけど」

「すみません。ええと、この夏祭りの起源はいくつかあるそうですが、主な目的は鎮魂だそうです。昔ここで戦があったとか、災いがあったとか、原因ははっきりしませんが、この町にはお盆の時期に先祖の霊と共に、恨みを持つ荒霊も戻って来てしまうから、先祖の見送りと鎮魂を兼ねて、毎年お祭りをするのだそうです」

「なんか亀蔵さんって、龍……うちの兄と話し方が似てますね。脈絡のない感じが」

「あら、左様でございますかしら。どちらかと言えば、兄様の方が口調が似ているかと思いますが……ええ、さておき、神社の歴史に比べて、このお社が新しいのは、つい一昨年、移転したからだそうです。けれど、お引っ越しの際に、忘れ物をしてしまったと。そのせいで、ここには肝心の神様が移ってきてくださらなかった」

「それが、今回の件と、関係があるんですか?」

「ええ。戦か天災かは分かりませんが、多くの人が亡くなった後に、その怨霊が蛍の姿を取って現れ、正者に祟りを齎したという伝説が残っているそうです。そこに、真神の分霊がやって来て、蛍を食い殺してくれた。だから、蛍の発生した場所に真神を祀り、毎年感謝のお祭りを行うのだそうです」

「その蛍が、今回の蛍……」

「社を移してすぐの去年も、怪しい蛍がちらほら見られたそうです。けれどその時は、数も被害も少なく、夏の終わりとともに居なくったため、気に留められませんでした。けれど、今年になって、また蛍が現れた。しかも今度は、去年とは比べ物にならない程、大量に。だから、今年は肝試しをするのです」

「肝試し……? それと蛍が、どうつながるんですか?」

「今夜開催される肝試しは、神社を中心に街を回る経路だそうです。しかし、それはつい数日前に、万兎羽が提案したものだそうです」

「後輩さんが? なんでまた」

「もとは、向こう……藤野屋さんの向こうの山に登り、その山中の廃寺からある物を持ち帰る、という計画だったそうです」

「山の廃寺……俺が叩き潰したあれか?」

 龍之進の言葉に、蛇介は渋面をする。

「去年から蛍が出てんなら、それは多分関係ないはずだ……」

「うむ」

「それで、亀蔵さん、その廃寺が移転前のお社ってことですか?」

「ええ、以前の廃仏毀釈の流れの中で、仏様を置いてお社替えをした。けれど、あんまり慌ててお引っ越ししたものだから、この蛍を収めるために必要なもの、それを彼らはその廃寺に忘れて来たそうです」

「それが、さっき言ってた、忘れ物ですか?」

「ええ。けれど取りに行こうにも、元のお寺は蛍を封じる為に、その発生源である洞窟の真上に建てられているそうです。そんなところに、我が身が行くのは恐ろしい」

 亀蔵の言葉に、蛇介ははっとした。

「……だから、肝試しだって騙眩かして、市民に取りに行かせようとしたってことですか? 金一封で、釣って。蛍が危険だって、知ってるくせに?」

 蛇介の言葉に、亀蔵は神妙に頷いた。蛍に噛まれて、寝込んでいる者も居るという。発生源が山だと言うのなら、そんな場所に入って大量の蛍に襲われでもしたら、寝込む程度で済むのだろうか。蛇介は顔を顰めた。

 亀蔵が、ぽつりと言う。

「事情を正直に話して頼って下されば、私共警官だって協力しましたのに。何も知らない方々を騙して、危険なことに巻き込もうなどと……許され難いことです」

 相変わらず、ぼんやりとして掴みどころのない雰囲気の亀蔵だったが、その言葉はどこか、怒っているようでもあり、悔しそうでもあった。

 蛇介も、ふつふつと怒りが沸いてくる。自分も随分平和ぼけしていたものだ。今日鶴亀兄弟と蛍の話をしなかったなら、祭りの裏の思惑にも気づかず、今夜には神官共の罠にはまってお陀仏だったかもしれない。詐欺から足を洗ったとはいえ、まさか騙される側に回るほど耄碌していたなんて。

 この町は平和で、無邪気で善意に満ちた人間が多い。藤野屋の客も、揃いも揃って毒にも薬にもならなそうな奴らばかりだ。けれど、小さな悪意はどこにだってある。そして、少なからず人は、そういう悪意に引っ掛かって詰む。

 蛇介は舌打ちをして、亀蔵に尋ねた。

「気分のいい話じゃありませんね。それで、結局その忘れ物って、なんなんですか?」

「真神の、ご神体だそうです」

 蛇介と龍之進はもう一度顔を見合わせる。

 そこまでを話し終えると、亀蔵は少し言葉を迷う様な素振りを見せた。そして、二人に向き直り、真剣な表情をすると、徐に頭を下げた。

「それから、藤野屋さんに謝らなくてはならないことがあります」

「なんですか?」

「万兎羽は、妖怪や不思議な出来事に詳しい子で、今回も蛍と神社が怪しいと気づき、祭りの数日前に神主さん達の企みを問い詰めに来たそうです。そして、蛍の件は自分が解決するから、肝試しは別の安全な経路を考えろ、と指示していたそうです」

「へえ、あの人、良いところあるんですね」

「ただ……今日の昼頃、神社にやって来て、今から蛍狩りに行くと言い……その時境内に居た虎丸さんを、手伝いに連れて行ったそうです」

「は?」

 唐突に出てきた聞きなれた名に、蛇介は間抜けな声を上げる。その横で龍之進は、相変わらずの揺ぎ無い態度で頷いた。

「ふむ、意外と近くに居たのだな。俺たちが屋台を出していた場所から、そう離れていない。篝火の真下には灯りが届かん、と言う諺があったな」

「燈台下暗し、のことか?」

「それだ」

「虎丸さんは、今朝方こちらに居らっしゃって、あちらの摂社の方でぼうっとしていらっしゃったそうです。神主さんが、それを万兎羽に伝えたところ、丁度いいから、蛍狩りを手伝ってもらうと言って、その後二人で連れ立って山に向かったそうです」

「……ん? じゃあ、虎丸は今、あの白髪野郎と、あの山に居るってことですか?」

 亀蔵の説明を飲み下し、蛇介は思わず声を大きくした。亀蔵が、申し訳なさそうに頭を下げる。

「白いの、という呼び方は駄目なのに、白髪野郎は良いのか?」

「そこ取り繕ってる場合じゃねえからな」

「本当に、私たちの監督不行き届きで……」

「いえ、貴方に謝られても困ります……どちらにしろ、後輩さん探しも、虎丸探しも、蛍の件も、図らずも一つに纏まっちまった訳ですね」

 謝罪を封殺されて、亀蔵は目を伏せた。

 蛇介は、考える。蛍退治。上手く行くならそれでいい。けれど、あの白髪の後輩警官が、虎丸を連れて行ったのは何故だ? 単に人手が足りないだけの安全な仕事なら、先輩にでも頼めばいい。そうでなくとも、気心の知れた相手に。だというのにわざわざ、あれだけ唾棄していた虎丸を指名した? まさか、危険な仕事に巻き込んで、あわよくば? 今になって、あの男が虎丸に向ける、理由の分からない敵意が、意味深長に思われる。

 その時、それまで大人しくしていた龍之進が、亀蔵と蛇介に順に目を遣ってから口を開いた。

「ふむ、一つに纏まったなら、その方が明瞭でいい」

「お前、ここまでの話、理解できたのか?」

「うむ、詳しい事は微塵も分からんが、そもそも俺は、人の魂や怨霊などと下らん迷信に興味は無い。あの山に行って、ご神体とやらを取って来て、虎丸を連れ帰って、白いのを殴れば解決だ、と言う事が分れば十分だろう」

 鷹揚に頷く龍之進に、蛇介は彼の言葉を暫く吟味してから言った。

「……おう、今回は珍しく、ちゃんと全部その通りだ」

 それから、蛇介は亀蔵に向き直って言った。

「一発ぐらいは、容赦してもらいます。もちろん、虎丸が無事に帰ってきたら、ですけれど」

「ええ、こちらこそ、寛大なご処置を有難うございます。万兎羽で足りなければ、どうぞ私共も」

「勝手に鶴吉さんまで含めて良いんですか?」

「兄様も覚悟はできているはずです。私たちは、あの子の先輩ですから」


 一方そのころ、山寺へ向かう道半ばで、虎丸と万兎羽は対峙していた。

『君たちは、血なんか繋がっちゃいないんだから』

 虎丸は、万兎羽の言葉に、心臓が早くなるのを自覚した。以前、路地裏で会った時には、彼は虎丸たちが、腹違いか種違いか連れ子同士かどれかだろうとは言っていた。けれど、それなら三つに二つは、『血が繋がっていない』とは言わない。父親か母親は同じ可能性が残っている。

 どこかで、連れ子同士だと確信をしたのか? それとも、一足飛ばしに、兄弟だという嘘が、ばれたのか? もしも後者なら、拙い。どうして兄弟のふりをするのか、と尋ねられたら、上手く誤魔化せる自信は無い。蛇介なら、その舌先三寸で、いくらでも辻褄を合わせるだろうに。

 虎丸は、とにかく余計なことは言うまいと、口を噤み相手の出方を待つ。万兎羽は、そんな虎丸に一歩近づき、言い聞かせるように、一言一言ゆっくりと言った。

「昨日の夜。真神神社の、境内。一番上のお兄さん、店長さん、藤野龍之進さん」

 虎丸は、はっとして、顔を上げる。万兎羽と、眼があった。彼の瞳が弧を描く。罠にはまった獲物を見る様な、笑みだった。

「聞いちゃった」

 彼の目は、吸い込まれるようだった。一度視線を合わせると、その奥の薄暗い色から、目を逸らせない。万兎羽は、ゆっくりと言葉を続ける。

「君のお兄さんは、君の過去を知らない。どうしてだろうね。君がお兄さんの過去を知らないならともかく。親が再婚してから出来た弟なら、お兄さんが知らないのは変だねえ。つまり君らは、腹違いでも種違いでもない、他人だ」

 万兎羽と目を合わせていると、黄昏の空を見上げるような、呆けた気持ちになってくる。寝物語の様にゆったりした声が、耳から忍び込んでくる。

「君らは他人だ。君は余所者だ。喧嘩するのも当然だよね。赤の他人の余所者が、どうして上手くやっていける? 無理だよ。君たちには、なんの繋がりも無い。君たちを繋ぎ合わせるものは、何も無い」

 浸食される、と虎丸は感じた。万兎羽の瞳に宿る、怪しい光。視界を奪われ、思考も奪われる。回らない頭に、万兎羽の言葉が染みて来る。

「あの話の感じじゃ、君たちって一緒に暮らしてた時間そんな長くないんでしょ。ならさ、これからも一緒に暮らさなきゃならない理由だって、無いじゃん」

 まるでそれが、自分自身の考えの様に思えてくる。いけない、このままでは、いけない気がする。けれど、それでも、万兎羽から眼が逸らせない。耳を塞ごうにも、体がまるで脱力して、言うことを聞かない。

「出て行っちゃえよ。その方が良い。君は彼らと上手く行かない。このままここに居ても、君にも、彼らにも、良いことなんかない。居なくなれ、それが良い。君のいるべき場所はここじゃない」

 そうだ。その通りかもしれない。虎丸はありもしない唾を飲み込む様に、乾いた喉を上下させる。

「君の居場所は、この町じゃない、藤野屋じゃない。君がここに居る理由なんて、一つもない。だろ?」

 虎丸は、生まれた場所に居られなかった。母は再婚し、その先に家族を持った。けれど今、虎丸はここに居る。万兎羽の言うことは、正しい気がする。虎丸は思う。なら、俺の居て良い場所は、何処だ?

 ふと蛍が、山道の上から一匹現れる。その後ろに、また一匹、また一匹。集りに集って、大群は巨大な波のようになって、道に佇む二人に向かって静かに迫っていく。万兎羽は蛍に背を向けている。彼と向き合う虎丸の視界は、対面する相手に集中して、迫る蛍は視野の外。

 風が一陣、吹き過ぎた。

 髪が、舞い上がる。虎丸の、くすんだ金とも、黄ばんだ銀とも言える髪。触れば、指に絡む程度には長さのある髪。それが風を孕んで、虎丸の視界を過ぎった。暗い山中でも、僅かな光を捕らえて、醜い金銀は煌めいた。

 その一瞬、万兎羽の瞳と言葉に囚われていた頭が、明瞭になる。

 虎丸は思う。醜いと、自分でも思う。全てが、この髪のせいだと思う。黒豆も、この髪のせいで、俺のせいで死んだと。子供の頃は、剃刀で反り上げて、手拭いを巻いて隠していた。いっそ、頭の皮ごと剥いでやろうかと思ったこともある。何度もある。それでも今、彼はその髪を、未練ったらしく伸ばしている。

 この髪を、綺麗だと言ってくれた人がいた。一人は、母。そして、もう一人。その人と虎丸に、血の繋がりは無い。けれど、虎丸は彼女を、妹と呼んだ。血の繋がらない、継父の連れ子。彼女と自分には、何の繋がりも無いのだろうか。

「違う」

 虎丸は、口を開いていた。衝動的だった。考えは碌にない。ぼろを出してはいけないと、頭の片隅で思う。けれども、舌は理性を置いて回っていく。

「血が繋がってなかったら、他人なのか? 一緒に居た時間が少ないなら、家族じゃないのか? そんなの違う。誰と他人になって、誰と家族になるかは、血でも時間でも決まらない。自分で選んで、決めるんだ」

 虎丸は、蛇介と龍之進を選んだ。彼らと仲間になると決めた。彼らと共に生きると決めた。

「俺には、帰る場所なんてない。生まれた場所にだって、育った場所にだって、もう戻れない。こんな髪で、こんな傷で、何処にも行く当てなんかないから、ここに来たんだ。あいつらを選んだんだ。ここに、帰って来ようって、決めたんだ」

 万兎羽の一方的な問いかけに対する、虎丸の答え。問われ、応じる。会話が成立する。

 その瞬間、万兎羽の背の、ほんの紙一重の場所まで迫っていた蛍の大群が、呪いに弾かれ、四散した。黄緑と赤の混交の光の粒が、残像を描きながら降り注ぐ。まるで花火が爆発したようだった。そこで初めて蛍の存在に気づいた虎丸は、何が起こったのか分からず、首を右往左往させる。

「あーあ!」

 戸惑う虎丸とは対照的に、万兎羽は蛍などまるで気にも留めず、肩を竦めてわざとらしいため息を吐いた。

「もう少しだったのに。全く、片親の違う、連れ子同士の兄弟で、なんでそんなに仲が良いんだか」

「連れ子同士……」

「亀ちゃん先輩も、似たようなこと言って、似たようなこと言われて怒られたって言ってたよ。君の二番目のお兄さんに」

「蛇介に?」

「君たちが似てないから、血が繋がっていないんですか? って聞いて、めっちゃ怒られたって。亀ちゃん先輩、鶴ちゃん先輩と一緒の時は気が利くのに、一人になると結構鈍ちんだからねー。兄弟一緒の時は、片割れの弱点を補おうって気を張ってるんだよ。あの兄弟は、どっちも」

「……」

「……あの人たちは、きっと血なんか繋がっていなくても、ああなんだろうな。知らず知らず、助けて、助けられて、成り立ってる。君たちも、そうだって言うの? 全く、厄介だな」

 本気とも冗談とも取れない口調で、万兎羽は吐き捨てる。しかし、その言葉で、ふと虎丸は思い返した。

 あの日の市場、あの日の路地裏。虎丸は、蛇介の嘘に二度救われた。あの朝の市場で、虎丸も龍之進も知らない井戸端で、蛇介が着いた嘘が巡って、虎丸を救ってくれた。彼は仔犬を殺した手で、藤野屋の銭勘定に算盤を弾いてくれる。彼の吐いた嘘は、多くの人を傷付けてきたろうが、その嘘は虎丸や龍之進を救いもした。

 蛇は毒を持つ。毒と薬は、一つのものの表と裏だ。

毒にも薬にもならぬものを平凡というなら、彼はそれから最も遠い。何にでもなりうる。何物になるにしろ、決して、何物でもないことだけはあり得ない。元来が極端な男なのだろう。

「蛇介と、仲直りがしたい」

 そこまで考えて、ぽつりと、そんな呟きが虎丸の口を突いた。

「犬を殺されたのは許せないけど、許せないままでいたくない。あいつは少しいかれてるけど、それだって、あいつらしさなんだから、分かり合いたい。あいつと一緒に、やって行きたい」

 独り言のように虎丸が続けるのを聞いて、万兎羽は眉を顰める。それは、不愉快を感じたというよりは、突然謎の告白をされて、困惑したというような表情だった。なんだか、その顔には嫌味が無く、初めて見る彼の素の表情のように思えた。虎丸はそれを見て、ふと思いついた様に言う。

「それから、お前とも仲良くなりてえな。お前は嫌な奴だけど、多分蛇介ほどじゃ無いから、そんなに難しくないと思う」

 今度こそ、万兎羽は不愉快そうな顔をした。

「おかしなこと言うなよ」

 そうして彼は、虎丸から視線を外すと、元の道の先に目を向けた。そのまま先に進んでいく。飛び散った蛍は、いつの間にかすべて地に落ち、光を消していた。あれだけ大量の蛍が居たのに、地面には一匹の死骸も無いのが、今度こそ確かめられた。

虎丸は、先を行く万兎羽の背を追って、先へ進む。

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