ついせき

 初夏の山は、沸き立つ緑の匂いで噎せ返るようだった。

 深く茂った木の葉たちの隙間からは陽の光が滴り、薄暗い森の底に木漏れ日を象っている。光の簾を縫って、若葉と土を踏みしめながら、三人は山の中腹をそれぞれ進んでいた。

「もしもだ、龍。お前が山に逃げ込んで、人目に付かず隠れていたいと思ったらどうする?」

 二人を店から引きずり出した蛇介は、山に入る前に龍之進に尋ねた。山生まれ山育ちの元山賊は、聳え立つ山を見上げて答えた。

「街道や木こりの住処周辺は避けるな、言わずもがな。大きな動物が通るところも所も良くない、それを狩りに猟師が来るかもしれないから。道が曲がりくねっていたら、その曲線の内側には入らない。近道をしようとする奴に見つかるかもしれない。長期間潜むなら、果物や水が確保できる場所に……」

「ああ、腹が空くとかは考えなくていいと思う」

「ふむ、分かった。後はそうだな……身を潜めるのは人や動物の通った跡の無い草の茂っているところで、屋根が欲しいなら木の洞とか、岩の隙間がいい。大きな洞窟なんかはダメだ、誰かが雨宿りに使うかもしれない」

「なるほどな……」

「けど蛇介」

 二人の会話が途切れたところで、虎丸が口を開いた。

「何となく、犯人がここに逃げ込んだことは分かったけどよ。でも、大きな山だぜ、龍之進が言ったような所だけを調べるにしたって、時間が掛かる。その間に犯人は尾根伝いに逃げちまうかもしれねえぞ」

「多分大丈夫だ、あいつらはきっと、そう遠く藤野屋を離れない。龍、もう一つ加えて考えてくれ。奴らは多分、藤野屋が見える位置にいる。見える位置に居たい。その時お前ならどうする?」

 そうして、龍之進が絞り込んだ場所を目指して、三人は藪を分け入った。話の締めくくりに、蛇介は二人にこう指示を出した。

「お前らは見覚えのある物を探せ」


 三手に蛇介と龍之進と分かれた虎丸は、山の急勾配を歩きまわっていた。

 蝉が鳴きだす前の静けさ、風に揺すられる木の葉の擦れる音。少し開けた場所に立てば、すでに遠く小さくなった街並みが見える。

 そんな中を、彼は茂った草の群れをかき分け、人の隠れられそうな隙間を探っていく。

「虎」

 ある木の洞を覗き込んだ時、頭上から声がした。顔を上げると、別れた筈の龍之進が大岩の上に立ってこちらを見下ろしていた。

「なんか見つかったのか?」

「いや、まだだ。虎の方もその口ぶりだと、見つかっていないようだな」

「おう」

「しかし汗がすごいぞ。木陰があるからと気を抜くな。向こうに沢があるから、水を飲んで来い」

「ん、ああ、ありがとう」

 頬を拭うと、確かじっとりとした感覚があった。虎丸は素直に彼の忠告に従い、その促す方向に進んだ。

 龍之進は本当に山慣れしており、水場を見つけるのも、草の茂った悪路を進むのも素早かった。この分なら、彼一人で犯人を探し出してしまうかもしれない。

 けれど何かと発言が物騒で、今回の件にも怒り心頭な彼が一番に下手人を見つけたら、それはそれで背筋が寒くなるものがある。

 虎丸がそんなことを考えながらしばらく歩くと、小さな沢に出た。

 ちょうど先客がおり、水辺に屈んで清水に足を浸していた。

「蛇介」

「……よお、虎」

「なんか疲れてんな」

「山歩きしんどいな……体力はあるつもりだったが、足が痛くなってきた」

「そうだな、慣らされていない道は全然勝手が違うな」

「水飲むなら、上流にしろよ。俺の足を洗った水なんか飲みたかねえだろ」

「おう」

 虎丸は蛇介から少し離れた場所に屈み込むと、きんと冷えた水を椀型に窄めた手に掬い上げ、口に運んだ。食道を駆け下りていく潤いに深い安らぎを感じ、思ったよりも疲れていたことに気付かされた。

 休憩も兼ねて、そのまま暫く虎丸はそこにしゃがみ込んでいた。

 水面には光が反射し煌いている。その輝きの中に、歪んで原形の分からなくなった世界の像が写り込んで揺らいでいた。緑の色と空の青さが流れの上で錯綜する。その美しさを見つめて、虎丸はぼんやりと目を細めた。

「ん?」

 ふと、その色彩の中に、場違いな色が一瞬閃いた。

 景色に馴染まない、どこか見覚えのある色。

 パッと顔を上げた。まさにその色が視界の端に消えていく瞬間を捉え、虎丸は咄嗟に飛び出す。水飛沫を蹴り上げて沢を渡り、蛇介の呼ぶ声に適用に返事を返して、着物の裾が濡れたのも気にせずに走る。湿った足に、泥や木の葉が纏わりつくが、それらに気を割く暇さえ惜しかった。

 色の消えた方へ、木を避け、枝をかき分け、斜面を駆け上がっていくと、やがて目の前が開けた。

 そこには、ぐしゃりと傾いた廃屋が静かに佇んでいた。辺りは木こそ少ないが草がぼうぼうで、人の行き来が長く絶えていたことが分かる。

 その伸びざらしの草をかき分けて、虎丸はその中に踏み入った。

「……寺?」

 苔の蒸した建物に上がると、僅かに形を残す造形物から、そこが寺社の類であったことが窺い知れた。戸すら朽ち落ちた小さな本殿に、仏像らしきものが残っている。その細やかな本尊に軽く頭を下げると、虎丸は室内を見渡した。

 瓦がほとんど剥がれ落ちていて外からは頼りなく見えたが、屋根の造は案外としっかりしており、外の明るさと対比的な影を落としている。部屋の隅には、見事な同心円を描く蜘蛛の巣が幾つも重なり合って、不気味なような美しいような不思議な雰囲気を醸し出していた。

 薄暗い室内を眺め回して、虎丸はその中にあの色を探した。

 山の中に唐突に現れた、藤野の屋号に相応しいあの鮮やかな薄紫色を。

 そして、虎丸は床の上に視線を落とした。砂埃の積もったそこに自分の足跡とは別に、野太い蛇が這ったような跡を見つけて、虎丸はそれを目で辿る。その軌跡は床を一直線に伸びて、仏像の方に消えていた。

 虎丸はその跡をなぞり、仏像の傍に歩み寄り、その裏を覗き込んだ。

 その台座と壁の隙間には、ぐちゃぐちゃに丸められた布が押し込まれていた。

 見覚えのある薄紫。

 腕を伸ばして引っ張ると、大判の布が数枚出て来る。しわくちゃの布、白い染め抜きの字。つい昨日、蛇介が屋根裏から見つけ出した旧藤野屋の登り旗や暖簾たちだ。

「なんで、こんな所に……」

 広げて見れば見る程見間違いようもなく、虎丸は首を傾げた。

 蛇介は盗まれた物は無いと言っていた。ならばなぜ、これらはここにあるのだろう。そもそも蛇介が『見覚えのある物を探せ』と言ったのは、これらのことだったのだろうか。

 ほんの今さっき、この色が山の木々の中ではためくのを、虎丸は目撃した。それを追ってここまで来たのだ。持ち運んでいた何者かが居るはずなのだが、そいつは何処へ行ったのだろう。この近くに居るのだろうか。

「虎! どうした! なんかあったのか?」

 虎丸が考え込んでいると、追いついてきた蛇介が、息を切らせながら本殿に入って来た。

「ん、なんか、これ見つけたんだけど……」

 言いながら腕に抱えた薄紫色のを、彼に見える様に虎丸は差し出した。

 入り口の逆行を背に、蛇介はゆっくりと目を見開く。

 見開かれた目の中で、拡大した瞳孔が光を捉えてギラギラと輝いていた。

 その頬を、汗が一筋滑り落ちて行った。幽かに振るわせながら腕を持ち上げ、彼は虎丸の抱く布の塊を指さす。

「そいつだ、虎」

 瞬間、虎丸の腕の中で、薄紫色が膨れ上がった。一陣の風も無いというのに、布は大きく空気を孕んで宙に舞い上がる。

 そして一拍の間をおいて、それらは生きた蛇の様に虎丸の喉元を目掛けて襲い掛かった。

 一連の様を茫然と見つめていた虎丸だが、布の動きが害意に満ちたものに変わった瞬間、脊髄反射的に両腕を跳ね上げた。彼の反撃よりも布の攻撃の方が遥かに速かったが、咄嗟に構えた腕が締め付ける布に隙間を作り、気道は確保された。

 そのまま勢いに押されて、大げさな音と共に、虎丸はひっくり返った。

「っ蛇介!」

「くそ、待ってろ!」

 蛇介が虎丸に絡みつく布に飛びつくが、その突進は暖簾に腕押しで敢え無くいなされ、彼は盛大に仏像に突っ込んでしまった。それでも懸命に立ち上がり、手近な仏具を掴んで振り回すが、それもへっぴり腰で全く効いている様子はない。

 そういえば、荒事なら赤ん坊にも負ける自信があると、彼が何時しか豪語していたことを虎丸は思い出した。

「畜生……っ!」

 虎丸は何とか藻掻いて布から抜け出そうとするが、簀巻きにされて芋虫程度の抵抗にしかならない。それでも意地で、自由になる首からで、何とか一番近くの布に噛みついた。そのまま思いっきり首を捻る。

 耳障りな音と共に、登り旗が一枚大きく裂けた。

 一瞬、布たちの動きが止まる。

 しかし、次の瞬間、虎丸に巻き付いた布に込められた力が、骨を折らんばかりに強まった。胸を圧迫され肋骨が軋む感覚に、その額に脂汗が浮かぶ。噛み千切った薄紫を吐き出して、彼は声もなく痙攣する。

「と、虎……」

 蛇介がその様子を、為す術もなく真っ青な顔で見ていた。

 ごとりと、虎丸の頭が力無く床を打つ。

 その瞬間、凄まじい衝撃と振動が、建物を貫いた。古びた屋根が木っ端みじんに吹き飛んで、暗い室内を燦然と陽光が照らしだす。爆風に、埃が舞い上がり、家屋が軋む。

 陽の光の中を、がらがらと降り注ぐ瓦礫と共に、何故か龍之進が降って来る。力強く拳を握っているが、まさか古びているとは言え、建物の屋根をぶち抜いたというのだろうか。

 唖然と自分を見上げる二人に構うことなく、彼は悠然と部屋の中央に着地すると、室内をぐるりと見渡した。

 そして広がる修羅場に、心得たと言わんばかりに一つ頷くと、犇めきはためく布たちをむんずと掴み、力任せにそれを引っ張った。それから、何処か楽しげに言った。

「なるほど、首を絞めた凶器に自我があった訳か。道理で昨夜はいくら暴れても無意味だったはずだ」

 突然の暴力的な乱入者に茫然と動きを止めていた布たちは、その躊躇いの無い攻撃に危険を感じたのか、途端に逃げを打った。拘束していた虎丸を投げ出し、それらは空を蛇行するように、我先にと寺の入り口を目指す。

「逃がすか」

 龍之進は握った端を手繰るようにして逃げるそれらを引き戻す。二つの引力の間で、ぶちぶちと繊維の引き千切れる耳障りな音がする。

 このままトカゲの尻尾切りとなっては何も解決しない。蛇介はそう気づくと、咄嗟に手に持っていた仏具を投擲した。それは威力こそ無いものの、布の往く手を遮るように落下した。

 それに布たちが怯んだ瞬間、龍之進はそれらを腕で巻き取る様に引き寄せ、抑え込み、捕獲した。そして、まだ暴れ続けるそれを、手際よく何重にも堅結びにして玉状にすると小脇に抱えなおす。

 後には、静かな惨状だけが残った。細々と息を繋いでいた寺社が一つ絶え、叩き潰された屋根から、ごとりと一枚、瓦が剥がれ落ちた。

 龍之進は己の踏み荒らしたものを鑑みもせず、あっけらかんと言う。

「さて、帰るか」

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