さくせん

 土御門万兎羽の来店から、数日が経った。

 相変わらず虎丸と蛇介は、犬を巡って争っている。けれど、殆どそれは有名無実になっている。雨降って地固まると言ったものか、あの不愉快な男の登場によって、期せずして虎丸は蛇介に対する怒りを、ほとんど失ったようだった。蛇介からすると、どういう理屈なのか理解できない所なのだが、『蛇介が怒ったこと』に、なぜか彼は感謝を覚えているらしい。

 相変わらず飯は作ってくれないが、だんまりを決め込むこともなくなったし、藤野屋の雰囲気もいつも通りに近づいた。逆に言えば、『いつもの藤野屋』の中で、異様なのは犬の存在と食事の有様だけなのだ。なんだか、なし崩し的に、犬を含めて藤野屋の日常が再構築されてしまっている気もする。

 あとは、蛇介が『犬を飼っていい』と一言言えば、虎丸は以前の様に二人に飯を作ってくれるだろう。蛇介と龍之進は、血塗れ飯とも外食ともおさらばできる。そうすると、藤野屋に残る異常は、犬の存在だけだ。

 しかし、そう思ってしまっている時点で蛇介たちは、どつぼというか、思うつぼに嵌っている。それは結局、虎丸の主張が押し通ったということに他ならない。なんだか、喧嘩両成敗で終わったようにも見えるが、よくよく考えれば、蛇介と龍之進は振り出しで、虎丸だけが一人勝ちだ。

「けど、事を納める好機は、これっきりだと思うべきだ。このまま放っておけば、もうなんか、この状態が普通になっちまうか、あるいは、もっと拗れるかどっちかだ。今決着を付けなきゃならねえ」

 神妙な顔で蛇介は言った。彼の前には、龍之進が着席している。時は既に夕刻、場所はすっかりお馴染みの網代飯店だ。

 蛇介の長ったらしい説明を、飯を頬張りながら聞いていた龍之進が頷く。そして彼は飯を飲み込むと口を開いた。

「もう犬など、飼ってしまったら良いのではないか? 犬を飼うことにどんな利点があるかは知らんが、飼ったところで問題がある訳でもないだろう」

「鳥頭。もう忘れたのかよ、飯の問題があるだろ。それに金だ」

「仕方ないだろう、この喧嘩も随分長く続いているからな。そろそろ半月ほど経つのではないか? むしろ、これだけ根気強く喧嘩しているお前たちの方が、俺からすると不思議だが。ところで、鳥頭とはどういう意味だ?」

「三歩歩いたら物を忘れる馬鹿ってことだ」

「なるほど、確かに奴らは物を覚えん。百舌鳥など酷いものだ、あれで生きていけるのだから、いっそ大したものだな」

「いいんだよ、そこは掘り下げなくて」

「しかしそうだったな、元を辿れば、犬がいると虎丸が飯を食わんのだった」

 龍之進が思い出したように言う。蛇介がその通りだと言うように頷く。

「なんだ? 前も聞いたような話が聞こえたけど……また犬の話をしてんのか?」

 そこへ、給仕にやって来た権太が、口を挟んだ。

「ああ、権太さん」

「まだ、虎丸と仲直り出来てねえんだな。お前ら、すっかりうちの常連だ」

「ははは、お世話になっております」

「ちゃんと話し合ってんのか? 犬のこと」

「ええ、まあ……」

 言葉を濁す蛇介に、権太はなお話を進める。

「けど、考えたら前らの家って、戸建てで持ち家なんだから、長屋みたいに隣や大家に気兼ねしなきゃなんねえ理由もねえだろ? 虎丸は世話を投げ出すような性格じゃねえだろうし、そんなに反対する必要があんのか?」

「飯代が問題なのだそうだ」

 龍之進の答えに、権太は首を傾げる。

「ああ、今金策に困ってるんだっけ? でもさ、犬一匹の飯代なんて、お前らがここで毎日飲み食いしている分より、ずっと安く済むだろ? ああ、お前らが来るのが迷惑だって言いたい訳じゃなくてな? それに、もしも本当に困ってんなら、少しくらい融通するぜ? 藤野屋は繁盛してるから信頼もあるし、俺以外にも用立ててくれる奴は居るだろ?」

「喫緊の問題じゃないんですよ。いえ、それももちろん問題なんですけど……。俺らの飯代は、短期的には高くつきますが、あいつと和解しさえすれば解決します。けど、犬の飯代はそう言う訳にもいかないでしょう。犬は長けりゃ十年とか生きるから、その間ずっと金が出ていくんですよ、無駄金が」

 蛇介の言い方に、権太は苦笑する。

「まあ、和解の手立てがあるなら、良いんだけどさ。どんな結果になるにせよ、さっさと仲直りしとけよ」

 そう言って、権太は離れて言った。龍之進は蛇介に尋ねる。

「それで、決着を付けたいというのは分かったが、こうして態々俺に話すからには、何か策でもあるのか?」

「ああ、そこはいい考えがある。この方法なら、犬は飼わないし、喧嘩もお終い。これで一挙両得だ」

 蛇介は妙案だという顔で言った。

「あの犬を、どうにかしちまえばいい」


 その夜、蛇介と龍之進が家に帰ると、虎丸は犬とともに台所にいた。犬は太々しく土間に伏せて寛いでいるが、対して虎丸は、板間に座って犬を眺めながら、随分心配そうな顔をしている。その様子に、蛇介は不思議に思って訪ねた。

「どうかしたのか?」

 二人に気づいて、虎丸が立ち上げる。

「ああ、お前らか、お帰り……」

「おう、ただいま。それより、嫌に浮かねえ顔だが、なんかあったのか?」

「ん……いや、ほら、最近蛍が沢山出てるだろ?」

「蛍?」

 虎丸に言われて、蛇介は首を傾げる。その横で、龍之進が同意を示して大きく頷いていた。

「ああ、良く見るな。季節も違うし、昼にも出るから、街の蛍は山の蛍とは道理が違うようだと思っていたが」

 龍之進の言葉に、蛇介は得心が言った。そう言えば、龍之進や亀蔵がそんな話をしていた。思えば、虎丸に確認を取ったことは無かったが、彼も見ていたと言うなら、龍之進と亀蔵の見間違いという線はなくなったらしい。どちらも風変わりな二人なので、彼らの目撃談だけだと、いまいち信じる気になれていなかったが。

そんなことを考えている蛇介を他所に、虎丸は続ける。

「いや、町でもこの時分に出るのは珍しいけどな。でも、今日お前らが飯に行ってから、俺もここで飯を食ってたんだけど、その時に勝手口にも蛍が出てさ。丁度夕暮れだから綺麗だなって見てたら、そしたら、こいつが……」

 虎丸が足元の犬をちらりと見やる。

「こいつが、その蛍を食っちまって……。大丈夫かな、龍之進は動物に詳しそうだから、分かるかもって待ってたんだけど、犬って虫を食っても腹を壊したりしないか?」

「ふむ、別に獣のことをよく知っているかと言われたら、別段そんなこともないのだが。俺はただ、山の道理を弁えているだけだからな。しかし、まあ問題があるとは思わん。犬は肉を食うもので、虫は草か肉かで言ったら肉だろうからな。山犬も虫を食うことはあるぞ。街の犬とて変わるまい」

 龍之進の回答に、虎丸はほっとしたような顔をして、犬の背を撫でた。犬が鬱陶しそうに身を捩るので、さっさと手を引っ込めたが、それでも嬉しそうだった。その様子を見て、蛇介は内心溜息を吐く。良く懐く犬ならまだしも、こんな可愛げのない犬の何がいいのやら。

「良かったな。まあ、それだけ元気なら、心配する必要ねえだろ」

 蛇介の台詞に、虎丸は怪訝な顔をした。犬の存在に否定的な蛇介が、犬の健康を慮るようなことを言ったのが奇妙だったのだろう。

 そんな彼の疑いを払拭するために、蛇介は、あえて照れ臭そうに視線を逸らして言う。

「その、お前がそんなに心配するくらい、その犬が大事なのは、うん、分かったよ。お前は折れそうにねえしな。仕方ねえ。龍之進とも話し合ったけど、いいぜ、その犬飼っても」

 事態を咀嚼しかねてか、暫くぽかんと蛇介を見つめていた虎丸は、やがてぱっと顔を綻ばせた。

「いいのか、本当に?」

「ああ、俺らの根負けだ」

 虎丸は望外の喜びに言葉を選びかねて、暫く口を戦慄かせてから、最終的にこう言った。

「明日は赤飯だ!」

「そんなにかよ」

 そうして笑う二人の横顔を、龍之進はじっと見ていた。


 翌日は本当に赤飯になった。虎丸は、一日浮かれていて、名前を決めなきゃなんねえなと嬉しそうに困っていた。

 その昼、虎丸が台所を離れた隙に、蛇介は自然な仕草で台所に滑り込んで、またすぐに戻ってきた。事情を知っている龍之進以外には、気にも止まらない様なさり気無さだった。龍之進は、蛇介に尋ねる。

「もう済んだのか?」

「ああ、こういうのはさっさと片付けるに限るからな。餌付け用の皿の底に塗ってきた」

「しかし、本当にいいのか?」

「なんだよ、犬一匹くらいで気が咎めるような質でもないだろ?」

 彼にしては煮え切らない問いに、蛇介が眉を顰める。龍之進は考え込む様に首を傾げた。

「うむ、犬が死ぬのは構わんのだが、やはり、どうしてもこれがいい事なのか、定めかねてな。何度考えても、お前が虎丸に縊り殺される様な気がしてならん」

「そんな訳ねえだろ、ばれる様なヘマはしねえ。これで金も飯も減らねえし、虎丸も満足する。三方良しの最善策だ」

 蛇介は龍之進の言葉に、一瞬不愉快そうに口を尖らせたが、客に呼ばれると、すぐに外面を整え対応に戻った。


 そして夕刻、店仕舞いの済んだ台所で、虎丸がうきうきと飯をよそいながら言う。

「いろいろ考えたんだ、こいつの名前。そら豆、枝豆、えんどう豆、いんげん豆、ひよこ豆、金時豆、大福豆、虎豆、うずら豆……、どれがいいかな」

「猫の時も思ったが、お前はどうしても畜生に豆の名前を付けたいのか?」

「でも、なかなか決められねえな。一番上等な名前を付けてやりてえけど、あんまり悩むのも良くねえよな。早く決めてやんねえと、呼ぶ時に困るもんな」

 彼は、配膳を終えると、最後に犬用に使っている皿を取り出して、犬用に味付けた飯を盛ってやる。支度が済むと、三人は飯を囲んで手を合わせた。

 しかし、その時、驚いたような犬の鳴き声がして、三人は振り返る。先んじて飯に口を付けていたはずの犬が、ひっくり返った皿の横で、苦し気に唸っていた。

「ど、どうした?」

 虎丸がその傍に駆け寄って抱き起そうとしたが、すると犬は牙を剥いて吠えた。今までも懐かない犬ではあったが、ここまで敵意が露なのは初めてなのか、虎丸は一瞬怯む。その瞬間、犬は身を翻して、勝手口から夕闇の陰る外へと飛び出して行ってしまった。

「あっ、待て!」

 慌てて虎丸もその後を追ったが、既に犬の姿は無く、軒先に呆然と立ち尽くすことになった。

「大丈夫か?」

 蛇介は、立ち尽くす虎丸に歩み寄って、その肩を叩く。虎丸は譫言の様に呟いた。

「どうして……苦しそうだったけど、一体何が……」

「昨日食べたって言ってた蛍が当たったんじゃねえか? 仕方ねえよ、な?」

「そんな……じゃあ、腹壊して、死んじまうかもしれねえ」

 虎丸は、顔を青くした。

「まあまあ、そうなっちまったら天命だ。元気なら戻ってくるかもしれねえし、な? とりあえず、飯にしようぜ」

「先に食っててくれ」

 そして、猫なで声の蛇介の誘いに、すげなくそれだけ答えると、虎丸は走り出す。

「おい! 虎丸! 待てよ!」

 蛇介がいくら呼びかけても、遠ざかる彼は止まらない。

 そのまま暮れ泥むの町に走り去った彼は、じりじりと空の端に引っ掛かっていた残り日が、ついにとっぷり沈んだ後になっても、とうとう帰ってくることは無かった。

 暫く待った後、蛇介は『そのうち帰ってくるさ」と強がるように言って、飯に手を付けた。しかし、龍之進と蛇介が飯を食い終わっても、風呂から上がっても、布団の中に引っ込んだ後になっても、虎丸は帰って来なかった。

 若苗色の茶碗の中で、飯が冷えて固くなっていた。

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