うそつき

 虎丸が帰ってきたのは、空も白む頃になってからだった。彼は魂が半分抜け落ちたような有様だった。結局一夜、彼を待ち遠した蛇介と龍之進が、その帰りを出迎え、労りやら励ましの声をかけたが、何を言っても帰ってくるのは、ぼんやりとした相槌だけだった。

 彼は覚束ない足取りで台所に入ると、心ここにあらずのまま、蛇介と龍之進に朝飯を用意し、食事の仕込みを済まし、かと思うと、板間に倒れ込んで糸が切れたように眠りに落ちた。

 もともと彼の寝相や寝息は大人しいものなので、その寝姿は死体と見紛うばかりだ。続いた欠食にこけた頬と、寝不足だけではない窶れ様が、輪をかけて痛ましさを増している。

 開店の時刻が近づくと、彼は目を覚ましたが、呆然自失とした様子のままだった。

手際が身に沁みついているのか、仕事は恙なく進むが、どうしても彼の意識がここにないことは明らかだった。

 虎丸は、権太の事件以来、接客に出ることも増えていたのだが、万兎羽がきっかけで、また人目を避けるようになった。末の弟の様子がおかしいようだが、何かあったのか、などと蛇介や龍之進に咎めるものは居なかった。少なくとも、外聞は保たる。

 そうだ、と蛇介は一人頷いた。虎丸の性格ならば、死体であろうと、見つければ持って帰って来ただろう。しかし、結局手ぶらで帰ってきたということは、彼は犬を見つけられなかったのだ。彼は犬を諦めたのだ。

 それでいい、虎丸があそこまで取り乱すとは思わなかったが、概ね順調と言えるだろう。暫くは悲しむかもしれないが、すぐに忘れるはずだ。これで元通りになる。何もかも計算通りだ。

 蛇介はそう己に言い聞かせた。なんだか落ち着かない様な気がするのは、一時の勘違いであるはずなのだと。

 ふと振り向くと、龍之進と目が合った。その底なし沼のような瞳の、映るものを飲み込む様な目力に、蛇介は一瞬竦みあがった。

「な、なんだよ」

 しかし、龍之進は至っていつもと変わらぬ調子で、勘定台の方を指さした。

「会計が詰まっているぞ、行かんでいいのか?」

 確かに、彼の言う通り、何人かが勘定台の前に立って、蛇介の方を見ている。

「ああ、そうか、気づかなかった。行ってくる」

「うむ」

 手にしていた配膳用の盆を、龍之進に手渡して、蛇介は会計の対応に回った。

そして、差し出される銭を数えつつ、蛇介はちらりと龍之進を見た。彼は、相変わらず尊大な態度で注文を取っている。

 客の話に、にこやかに相槌を打ちながらも、蛇介の心には、荒ぶ気持ちが沸き立ってきた。なぜ自分は、龍之進の目に竦みあがったのだろう。その理由は分からなかったが、それはなんだかとても悔しいことのように思えた。


「あれ、お前の分の飯は?」

 その晩、食卓に並んだ飯を見て、蛇介が声を上げる。配膳されたのは、二揃いの食事だけだった。若苗色の茶碗は見当たらなかった。

「俺は、少し出かけるから」

「飯は?」

「腹、減ってねえから。あと、遅くなるかもしれねえから、昨日みたいに起きて待ってなくていい」

「……何しに行くんだよ」

 蛇介は、探るような目で虎丸を見た。

「あいつを、探してくる」

 その問いに、それだけ答えると虎丸は勝手口を出た。蛇介は追って来なかった。

 町は薄暗くなっている。最近日が傾くのが早くなってきた。物悲しい日暮らしの鳴き声が響く中、帰路に就く人波に逆らって、虎丸は町中を進んだ。焦りに追われて、段々と足取りが早くなる。

 呼びかける名前が無いことが、不便でならなかった。

 虎丸は、仔犬の姿を見た者がいないか、人から人へと目撃譚を探したが、芳しい反応は無かった。もともと、仔犬にしてはやや大柄なこと以外、特徴のない野良犬だ。人が気に留めるような姿ではないのだから、さもありなんだ。

 やっとそれらしいものを見たという糸口を得ても、辿っていくうちに立ち消えてしまったり、全く違う犬に行き当たるだけで、徒労に終わった。

 夜は刻々と深まっていく。虎丸は、宵っ張りな町民が教えてくれた、路地裏に野良犬が屯しているという噂に一縷の望みを賭けて、入り組んだ細道を駆け回っていた。

 夜の町は、昼間と様相を変える。昼間は至って明朗快活な町も、日が暮れると俄かに艶めいた顔を出す。仕事を終えた者たちが酒に浸る喧騒が、隅々まで木霊して、日の光に気後れしていた、如何わしいものたちが何処からともなく現れてくる。

 蛍が飛び交う薄暗い路地で、きょろきょろと仔犬の姿を探していた虎丸は、脇道から出てきた男にぶつかった。

 男は非難めいた声を上げる。

「痛いなあ、何処見て歩いてるんだよ」

「す、すみません、ちょっと他所見してて……あれ?」

「うげっ」

 咄嗟に頭を下げたものの、その声に聞き覚えを感じて、虎丸は顔を上げる。造りは端正だが、厭味ったらしい表情で台無しな顔と、闇夜に背く様な真っ白い髪が、目に飛び込んできた。

「お前は、確か鶴さん亀さんの後輩の……万兎羽、だったか?」

 鶴亀兄弟は警官で、当然その後輩の彼も警官だ。彼がここに居るということは、何か事件でもあったのだろうか。

 しかし、虎丸は疑問を感じる。彼の装いは、気の張った感じが全くない。警官の上着や帽子はなく、シャツを軽く身に纏った上で、小粋に着崩している。まだ珍しい洋装だが、良く着こなしている感じがあるし、彼にとっては平服らしいことが窺える。

 この様子を見る限り、どうやら緊急事態で警官が出張っている、と言う訳ではないらしい。

「なに? 人のことじろじろ見て。気持ち悪いんだけど」

「ああ、いや、悪い」

「ていうか、何してんの? こんな所で」

「ちょっと、犬を探してて……そうだ、お前、見てないか? 灰色の、ちょっと大柄な仔犬なんだけど」

「見てないね、興味ないし。ていうか、本当に犬なんか探してんの? 人でも取って食おうとしてたんじゃないの? こんな人気のないところでさ」

「……そんな、化け物でもあるまいし」

「化け物だろ。そんな見た目してて、良く言うよ」

 刺すように鋭い言葉に、虎丸はぐっと言葉を呑む。そして腕を掲げて、袖で髪を隠してから言った。

「気持ち悪いのは分かるし、悪ぃと思うけど、俺は多分、親父が海向こうの人なだけなんだ。だから、人を食べたりしない」

「海向こう? 外国人ってこと?」

「そう、会ったことはねえから、分からねえけど、蛇介が多分そうだって……」

「……髪の毛、辻斬りに遭って、変色したんじゃないの?」

 万兎羽の言葉に、はっと虎丸は息を呑む。たちまち血の気が引いていく。しくじった、どうしよう、何とか誤魔化さなくちゃいけない。どうすればいい、何処までばれた? 混乱する脳裏で、思考は目まぐるしくも空滑りしていく。

 しかし、絶望に追い込まれている虎丸を他所に、数瞬の沈黙を経て、やがて万兎羽の方から、さして気のない反応が返ってきた。

「まあ、聞いてるけど。やっぱ、そういう事か」

 その言葉に、頭が真っ白になりつつも、虎丸はなんとか食いついた。

「き、聞いてるって、何を……」

「亀ちゃん先輩から、君たちの片親が違うらしいって。要するにあれだろ、君たちは腹違いか種違いか連れ子同士かで、君だけは混血ってことでしょ。だからその髪も、変色したって言うのは、嘘だろうと思ってたよ」

 万兎羽の言葉に、虎丸は一気に心が軽くなるのを感じた。止まっていた息が、喉を下っていくのを感じる。

「ああ、そう、そうだ。えっと、髪のことは……」

 しどろもどろになりつつ、虎丸は何とか話をでっちあげる。蛇介ほど素面で嘘を吐くのは難しく、丁度髪を隠そうとした腕で、表情を隠せるのが有難かった。

「蛇介が、この髪でも、町に馴染めるようにって、嘘をついてくれたんだ」

 苦し紛れに取り繕った言葉は、嘘とも真ともつかないものだった。

 虎丸には、権太に濡れ衣を着せられた時のことを思い出す。あの時の蛇介は、単に場を納めようとしただけかもしれない。しかし、『嘘をついてもらった』と思う気持ちが、自分の中にあったのだと、言葉にして初めて虎丸は自覚した。

 そして、つられる様に、何故犬を飼いたいと思ったのか、その理由も思われた。虎丸は、掲げていた手で、自分の髪に触れた。そのまま毛の流れに沿うようにして、手を降ろす。指先に絡みつく彼の髪は、やはりどうしようもなく、醜く褪せた色をしていた。

「……あの犬、何処に行ったんだろう」

 ぽつりと脈絡なく呟いた虎丸の言葉に、万兎羽はふと目を細めた。彼は見定めようとする様に、目の前の男を眺め、そして言った。

「真神神社に行ってみなよ。あそこは犬を大事にしてるから、野良犬も良く集まるって聞くよ」

 虎丸はぱっと顔を上げた。万兎羽は変わらず、人を馬鹿にしたような顔をしたままだった。

「……ありがとな」

 真意は分からないが、助言をくれたことは確かだ。気まずく思いながらも、虎丸は礼を言う。

「良いからさっさと行ったら? せっかくいい気分だったのに、君を見てたら気持ち悪くなってきたよ。あーあ、最低な夜だよね」

 一瞬、垣間見えた人情らしきものも、続く言葉ですっかり台無しだ。

「悪かったよ、じゃあ……」

 お互い良い思いをしないなら、さっさと分かれるのが得策だと、虎丸は立ち去ろうとした。

「ねえ、万兎羽さん」

 丁度その時、艶っぽい声が、虎丸の挨拶を遮る様に割り入ってくる。

 そして、暗がりから白い手がするりと伸びてきて、万兎羽の手を掴んだ。彼は、一瞬顔を強ばらせてから、諦めたように振り向く。

 その背後には、艶やかな雰囲気を纏う女性が立っていた。彼女は流れるような仕草で、万兎羽の肩にしな垂れかかる。万兎羽もため息を吐きつつ、彼女の肩を抱く。

「なんで着いて来ちゃったの?」

「あら、駄目だったかしら? 忘れ物を届けに来てあげたのに」

 そして女は、そこで初めて、万兎羽と対面していた男に気づいたのか、妖しい微笑みを虎丸に投げかけて見せた。

 派手な化粧と着物に、匂い立つような色香。薄暗い路地には、客商売にしては朧すぎる、色を抑えた明かりが瞬いている。彼女がどのような人物なのか、推し量らずとも解されて、虎丸は居たたまれない心地で万兎羽を睨んだ。

「警官が赤提灯で遊ぶなよ!」

「やめてよ、人聞きが悪い。ねー?」

「そうよぉ、万兎羽さんは、お客さんじゃなくてお友達だから」

 万兎羽と女は、彼の反応を面白がるように笑った。普通、こういう場面を目撃されて立場が悪いのは、万兎羽の方だと思うが、混乱した虎丸の思考はそこまで至らなかった。

「……っ神社のことは、礼を言っとく。じゃあな」

 それだけ何とか絞り出すと、虎丸は逃げるようにその場を立ち去った。その後ろ姿を、万兎羽は目を細めて、じっと見送った。

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