たいめん

 犬を匿うようになってからも、一応食事に気を使ってか、虎丸は調理の最中に犬を台所に入れることは無かった。だから、犬はいつも大抵は勝手口の辺りをうろついており、居なくなることもよくあった。その癖、朝昼夕の飯の時間にはきっかり戻ってきて、その都度、虎丸は土間の隅で犬に餌をやった。

 甲斐甲斐しい虎丸に対して、犬の方はつれない態度で、彼が背を撫でようと手を伸ばそうものなら、たちまち牙を剥いて噛みつく様な有様だ。けれども、食事の方はしっかり平らげていく。そんな有様だが、虎丸は一貫して嬉しそうに犬の世話を焼いていた。

 その朝も、蛇介が一階に降りて来た時には、虎丸は犬に朝飯を振舞っていた。

 その姿を見て、蛇介は小さく溜息を吐いた。人の機微には聡いつもりだが、今回の虎丸の思惑はまるで分らない。役にも立たなければ懐きもしない。何が面白くて、構いたがるのだろう。

 犬に向かい合う背中を眺めながら、蛇介がそんなことを考えていると、虎丸が振り向いた。そしてそこに蛇介がいたことに気づいて、本当についぽろりと口をついた、という様子で言った。

「ああ、おはよう」

「……おう、おはよう」

 虚を突かれた蛇介は、戸惑いながらそれだけ何とか応じた。虎丸はぱちりと目を瞬いてから、はっとしたような顔をした。そして、慌てて顔を背けて、犬に集中している様な素振りをする。どうやら無かったことにするらしい。無視を決め込む背中には、居心地が悪そうな雰囲気がある。

 実に数日ぶりの会話だった。それまでの虎丸は本当に貝の様に頑なで、岩の様に揺ぎ無かった。注文の伝達にさえ一言の返事も寄越さぬ徹底ぶりで、頑として口を利くものかという意思が、全身から迸って見えるようだった。だからこそ、そんな彼があまりにも自然に発した挨拶には、良く回る筈の蛇介の舌も形無しで、咄嗟に復唱するような味気ない返答を返すのがやっとだった。

 いつまでも棒立ちをしていて、失敗を当て擦っているのだとでも思われたら、折角の良い傾向が台無しだ。そそくさと立ち去って釣銭の確認に向かいながら、蛇介は内心ほくそ笑んだ。

 昨日の鶴亀兄弟の効果だろう。あの兄弟の雰囲気に充てられて、どうも虎丸の緊張や警戒心が和らいだような兆しは感じていた。それが、うっかり喧嘩を忘れていつも通りに振舞ってしまうほど解きほぐされたというのなら、これは好機だ。上手くすると、遠からず丸め込めるかもしれない。

 暫くして起きてきた龍之進が、にやついている蛇介を見て、首を傾げていた。


 約束通りに、また昼過ぎになって、鶴亀兄弟はやって来た。

「もう一人、後から来ますので」

 けれども、その日の亀蔵はどこか浮かない顔をしていた。大抵、ぼんやりと穏やかな表情をしているのに、今日に限っては不安げな陰りが感じられた。こころなし、隣に立つ鶴吉も、いつもより眉間の皴が輪をかけて深い気がする。

「あの、どうかなさいましたか?」

 蛇介が尋ねると、亀蔵はおずおずと言った。

「その、昨日お伝えし忘れてしまったことがございまして……。えっと、私たちの後輩なのですが、やや、その、性格に難がありまして……いえ、悪い子ではないと思うのですが、藤野屋さんにご紹介するにあたり、粗相を働くかもしれず……あらかじめお断りをしておきたいと思うのです」

 蛇介は龍之進と顔を見合わせた。その様子に、亀蔵は慌てたように取り繕う。

「いえ、もちろん杞憂に終われば何よりなのですが、少々心配になってしまい、予防というような気持ちですので……ねえ、兄様」

「ああ、まあ、うん、そうだな」

 鶴吉の態度に、蛇介はさらに不安が募るのを感じた。厳格な彼は、余程のことが無ければ、そんな曖昧な返事をすることはなさそうな質なのに。これはかなりの曲者が来るのではないか? と蛇介は身構えた。

 そうして蛇介が、何やら煮え切らない態度の警官二人を席に案内し、彼らが食事を一通り終えたころになって、漸く彼はやって来た。

「お待たせしましたー! いやー美味かったですよ、あの飯屋の味噌煮定食。先輩たちも、食べてから来ればよかったのに」

 暖簾を潜って揚々と入ってきた男を見て、蛇介は目を見張った。まず真っ先に目につくのは、真っ白な頭髪だった。ぱっと見老人のような総白髪だが、声は若々しい。違和感に引かれて顔を見れば、軽薄そうな笑みを浮かべた青年がそこにいた。目立つ欠点のない顔立ちで、整っていると言えるが、どうにもその表情に人を苛立たせるものがある。服装は、鶴亀兄弟と同じ、警官の制服だ。

 鶴吉が彼の態度に眉を顰める。

「まずは挨拶くらいしたらどうなんだ、初対面だろう」

「あーはい、すみません。どうも、よろしくお願いします。あ、お茶貰えます? 丁度昼飯食べてきたところで、食後のお茶が飲みたかったところなんですよ」

 先輩に諫められても、まるで応えない様子で、青年は軽く挨拶を済ませると注文を付けた。そんな彼の様子に、亀蔵が申し訳なさそうに顔を伏せた。

「申し訳ございません。お食事は藤野屋さんで頂こうと話し合っていたのに、道すがら突然、他の店のご飯が食べたいと言い出しまして……」

 飲食店を訪ねるのに、腹を満たしてくるというのは、失礼と取られることもあるだろう。もちろん、何が礼儀かは時と場合によっても変わるだろうが、少なくとも白髪の彼の態度は、藤野屋に敬意を払っているとは言い難いものがある。亀蔵が詫びているのはそういう事だ。戸惑いを感じない訳ではないが、蛇介はにっこりと笑っていた。

「いえ、そんな、お気になさらず」

「そうですよ、飯なんか、どこで食べたっていいんですから」

 すると白髪の男が横から口を出してきて、あっけらかんとそう言った。

 それはその通りだが、今お前が言うのは違うだろう、と蛇介は不愉快に思った。鶴吉が米神を抑えたのを見ると、彼も同じことを思っているだろう。それに、食事屋に来て、『飯なんか』というのも随分なご挨拶だ。腹の底で悪態を吐きながらも、蛇介は外面を崩さず言った。勝ちよりも得を取るのが蛇介だ。

「そうですね、食事は楽しんで食べられるのが一番ですから。あ、食後でしたら、甘味などはいかがでしょうか? 季節のものなど、色々ありますよ」

「そうだな、頂こうか」

「私も頂きます。おすすめのものなど、ありますかしら?」

「そうですね、水まんじゅうなんか如何でしょうか?」

「涼しげで素敵ですね、頂けますか?」

「私も同じものを」

 鶴吉と亀蔵が頷く。彼らもこの場の空気を和ませようとしているのか、それとも単に食べたいだけなのかは分からないが、売り上げは売り上げだ。大した値段ではないが、少なくとも菓子の中では、一番粗利が良い。

 ちなみに二人に勧めた水まんじゅうだが、蛇介はまだ食べたことは無い。品書きに加わった直後に虎丸と喧嘩になったものだから、美味そうだとは思うものの、当然食べさせてはもらえないし、蛇介もまさか強請るような真似はできなかった。美味そうだとは思ったのだが。

「ああ、俺はいらないです。甘いの嫌いなんで。特に餡子とか、くどくて堪ったもんじゃないですよね」

 しかし、横に逸れた蛇介の思考を叩き戻すように、また白髪の男は鼻につくことを言う。台詞の後半が付け足される必要は、果たしてあったのだろうか。蛇介は額の血管が強張るのを感じた。

 なんというか、この男を見ていると、龍之進と会話している時に覚えるのと近い感覚が沸く。しかし、龍之進は少なくとも、あの無作法さは素なせいか、はたまた、あのあっけらかんとした性格ゆえか、苛立ちもあまり尾を引かない。だが、この男のそれは、嫌みや悪意が感じられて、怒りが募っていく感じだ。

「では、すぐに用意しますね」

 蛇介は、最後にとびきりに微笑むと、外面が崩れないうちに台所に引っ込んだ。

 台所では、龍之進が茶を汲んでいて、虎丸は調理の途中だった。蛇介はとりあえず、手にしていた注文の覚書を、板の間に叩きつけた。龍之進と虎丸が驚いて彼を見る。

「なんだ、どうかしたのか?」

 龍之進が首を傾げる。虎丸は、すぐに興味がないような風に、鍋をかき混ぜるのに戻ったが、おそらく耳はそばだてているだろう。蛇介は、どかりと板間に腰を下ろして悪態を吐いた。

「それがよ、鶴亀兄弟の言ってたもう一人の警官が来たんだが、これがどうにもむかつく野郎なんだ」

「ああ、なんだか真っ白いのが入ってきたと思ったが、あれか? 老人かと思って、良く見なかったが」

「そう、それだよ。でも若白髪だな。顔を見りゃ分かるけど、全然若いぜ。まあ、後輩って言うくらいだし、鶴亀兄弟よりは年下なんだろうし。あの年で総白髪ってことは、多分生来とかなんだろうな」

「で、その白いそれが、どうかしたと?」

「なんていうか、悪意のあるお前って感じだ。神経に障る」

「なるほど、なるほど……ん? 今、俺が因縁を付けられなかったか?」

 龍之進が首を捻る。虎丸が小さく笑う息遣いを感じた。

「それで、戻ってきたということは、何か注文されたのか?」

「茶が三つと水まんじゅう二個。あーあ、怠いな」

 蛇介は投げやりにため息を吐く。菓子の類は、いくつか作ったのを、打粉を塗した薄い大皿に並べておいてある。蛇介は小皿を取り出し、まんじゅうを軽く盛り付けると配膳用の盆に載せて立ち上がった。それを見て、丁度茶を注ぎ終えた龍之進も立ち上がる。

「どれ、ならば、俺たちも行こうか。どうせ肝試しで顔は会わすのだし、興味がある」

「おっ、そりゃ助かるぜ。俺一人だと、気疲れするんだよな。まあ、お前をぶつけるのは、それはそれで末恐ろしいものはあるんだが」

「俺はさっきから、謂れのない攻撃を受けている気がするぞ」

 そして二人が台所から出ていく。その時、龍之進は振り向いて、当然のように言った。

「どうした、虎。お前も来い」

「えっ」

 虎丸と蛇介の声が重なった。

「言っただろう。俺たちもついでに顔を見ておいて損は無かろうと。俺は注文された茶を配らなければならんからな。お前が先に行って、蛇介と白色の間に入ってやると良い」

 それだけ言い残すと、さっさと龍之進は大部屋へ去って行ってしまった。残された二人は、顔を見合わせる。台所に気まずい沈黙が流れた。蛇介は目を逸らすと、頬を掻きながら言った。

「あー……いや、龍之進はああ言ったけど、来なくてもいいぞ。その、忙しいだろうし」

 すると、虎丸はちょっとむっとしたように言った。

「……別に、今は注文落ち着いてるから、ちょっと接客するくらい出来る」

 気を使ったつもりの蛇介の台詞は、彼の意地っ張りな気質に触れるところがあったらしい。虎丸は鍋に蓋を被せると、蛇介の横をすり抜けて大部屋に向かった。一拍遅れて蛇介もその後を追う。本当にこいつは難解だ。

 警官たちは、世間話に花を咲かせていた。というよりは、白髪の後輩警官が軽快に捲し立てている話に、亀蔵が相槌を打ったり諫めたりしており、鶴吉は腕を組んで難しい顔をしている、という雰囲気だ。端々を聞くところ、彼の話は小馬鹿にした風味や、否定的な話題が多いようで、聞くにも聞き流すにも苦味を感じずにはいられない。

 蛇介は三人の席に歩み寄ると、にこやかに頭を下げた。

「すみません、お待たせしました。こちら水まんじゅうでございます。それと、こちらがうちの三男の虎丸で……」

 そこで、白髪の後輩警官も一応は話を止めて、顔を上げる。へらへらと浮ついた顔が、蛇介と虎丸に視線を合わせた。その途端、彼のその端正な顔がたちまちに歪んだ。そして、次の瞬間、決定的な言葉が飛び出していた。

「うわ、気持ち悪い」

 空気が凍り付いたような静寂が落ちる。その中で、白髪の警官の口だけが回り続ける。

「話には聞いてたけど、本当に気持ち悪いな。汚い色、何その髪。金色って言うにもくすんでるし、銀色って言うには黄ばんでるし、なんだか、病気になりそうな色だな。ていうか、病気みたいな色。気味が悪いね。その傷も何なの? 見ててこっちが痛くなる」

「ばんとう!」

 漸く事態を飲み込んだ亀蔵が、机を叩いて立ち上がる。恐らく後輩警官の名前であろう語を彼が叫ぶのと同時に、鶴吉の拳骨が彼の脳天に落ちていた。

「痛い! 何するんですか!」

「貴様が何を言っているんだ!」

「だって……」

「言い訳は聞かん! 申し開きが出来ると思うな! 全く、失礼極まりない!」

 双子は席を立つと、鶴吉がまず後輩を黙らせ、その隙に亀蔵が蛇介と虎丸に向き直り、深く頭を下げる。

「申し訳ございません! 本当に申し訳ございません! 私たちの監督不行き届きで、とんだ失礼を。やはり、今回の話は無かったことに……」

 亀蔵の謝罪の後ろで、鶴吉が後輩警官の腕を掴み、立ち上がらせようとする。こうい時には、双子の連携が神がかっている。

「いえ、いいですよ」

 しかしそこで、展開に置いて行かれた蛇介の横で、虎丸が静かに口を開いた。

「こっちからも願ったような話ですし、気にしません。慣れてますから」

 虎丸の言葉に、蛇介は思わず喧嘩を忘れて尋ねていた。

「お前、良いのか?」

「いいだろ。肝試しには参加しない訳にはいかねえんだし。それに、そう思うのだって、仕方ないしな」

 そういう虎丸は余りにも平然としていたが、固く握りこまれた拳には、行き場のない気持ちが表れているようにも見えた。蛇介の思い込みかもしれないが。

「お前がそう言うなら、別にいいけどよ。でも……」

 蛇介が釈然としない気持ちで言い淀むと、鶴吉が立たせた後輩警官を連れて二人の前に進み出る。そして、その白髪頭を掴んで頭を下げさせた。続いて彼自身も頭を下げる。

「本当に申し訳ない。亀蔵が言うように、先達としての私たちの教育も及ばずながら、ここに連れてきたのも私たちの落ち度だ。不愉快な思いをさせただろうこと、陳謝する」

 普段はやや高圧的な面が鼻につく鶴吉だが、その謝罪には心が籠っていた。もともと彼は、龍之進が自分の弟に無礼なことを嫌がるような兄なのだ。後輩が他所の兄弟に仕出かしたことの不始末に、強く責任を感じていることが窺えた。兄に倣って、亀蔵もその隣で深く頭を下げた。そして、後輩に言い聞かせるように、穏やかだが毅然として言った。

「ばんとう、貴方も貴方の言葉で謝りなさい。思うことまで咎めることはできませんが、それを口にして人を傷つけようという行為は、決して許されません」

 先達二人にきつく諫められて、後輩警官は渋々と言った体で謝罪の言葉を口にした。

「……すみませんでした」

 ここまでされては、鶴亀兄弟の顔を立てて引かない訳にもいかない。虎丸もすでに譲歩しているのだから、蛇介が一人怒り続けようにも、むかつくことに筋がない。もう一切っ掛けあれば宣戦布告に踏み切ろうと思っていた彼は、仕方なく『てめえだって人の事言えた髪色かよ』という言葉を飲み下し、外面を整えて微笑んだ。

「弟の容姿は、確かに驚かせてしまうものかもしれません。そういう意味では、私も事前に一言申しておけば良かったです。ばんとうさん、と仰るんでしょうか? そう言えばお名前を聞いておりませんでしたね」

 すると男は、今までの事態を誤魔化すように、へらりと笑う。

「ええ、土御門万兎羽って言います。変わってるでしょ? 下の名前は一十百千万の万に、兎に、羽って書くんです。それで『ばんとう』。万羽の兎って覚えてくれれば、覚えやすいんじゃないかな」

「土御門……華族の方ですか?」

「血筋的にはね。でも、末端も末端で、大した出自じゃ無いんだけど。だから下の名前で呼んでください。氏だと、仰々しいからね」

 反省しているのかしていないのか、万兎羽は相変わらず軽妙だ。

「そうか、ではよろしくな、万兎羽とやら」

 その時、いつの間にか机の側に寄ってきていた龍之進が、万兎羽の肩に手を置いて言った。突然の彼の登場に、万兎羽も驚いたらしく、小さく間抜けな声を上げる。

「うおっ……ああ、えっと、店長さんでしたっけ? ええ、よろしくお願いしますね」

「ああ。俺は藤野龍之進だ。虎丸の髪の色は確かに風変りだろう。俺もそう思う。そして貴様の方も、その年でそれほど真っ白なのは珍しい方だろうな」

 つい先程蛇介が飲み込んだ『てめえの髪も白髪じゃねえか』という趣旨の発言を、あっさり言ってのけながら、龍之進は机に茶を並べる。

「そうですね、俺も珍しい方ですよ。でも、別にこの年では珍しくても、そのうち皆真っ白になりますしね、禿げたりしなけりゃ。それに若白髪だって、少なくは無いでしょう。だから、俺のはそんなに大逸れてる訳じゃないですよ。普通の色です。ここまで総白髪なのは、そうは居ないでしょうけど」

 万兎羽は、へらへらとそれに受け応える。反省の色も見えなければ、龍之進の言葉が気に障ったのかどうかも分からない。しかし、龍之進は万兎羽の反応を気にするでもなく、平然と会話を続ける。

「来歴が気になるな。俺も人に比べて白髪が多い方らしいが、増え始めたのはあの日からだな。それで虎丸は……」

「辻斬りに遭って、変色したんだ」

 彼の言葉に続けるように、蛇介が言う。彼が蛇介の吐いた嘘を覚えているか、甚だ不安だったからだ。龍之進は鷹揚に頷いて万兎羽を見る。

「そう、それだ。お前は何があってそんな頭になったんだ?」

「店長さんってば、不躾だなあ」

「しかし気になるだろう。それが何処から来た何かは分からずとも、異様なものが現れたなら、何らか異変の前触れでないか、気にしておかねばなるまいからな。奇妙なものが現れた後には、よく山が揺れたり嵐が来たりする。町でもそう言うのはあるだろう。権太も、鼠が船から逃げ出すのは沈没の合図だと言っていた」

「ああ、迷信の類ですね。俺は、そう言うの嫌いですけど。つばくらめが低く飛んだからって、雨が降らなかった朝はいくらでもあるでしょうに。でも、俺の髪は普通に体質ですよ。うちは一族郎党、皆若白髪で。それに、さっきも言ったけど、白髪なんて遅いか早いかで、そんなに異様なものじゃないですよ。金髪なんかに比べたら」

 万兎羽はへらへらと笑いながら、そう言った。最後の言葉尻だけ、その掴みのない目をちらりと虎丸に向ける。流れ弾の様に悪意を食らった虎丸は、微かに身を強張らせた。幸い、鶴吉に睨みつけられたことで万兎羽は肩を竦めて、それ以上を言葉にすることは無かった。

 龍之進も、遣り取りに満足したのか飽きたのか、それ以上彼の白髪に言及することは無く、適当に言った。

「そうか。まあ、良く分からんが、よろしく頼もう」

「そうですね。これからよろしくお願いします、万兎羽さん」

 蛇介も龍之進に続けて、にっこりと笑んでいった。龍之進の尊大な態度は、万兎羽が評する通り不躾だし、正直彼らはどっこいどっこいだが、今回ばかりは蛇介も『兄の不始末』について謝罪をする気は無かった。むしろ、良くやった、とさえ思うくらいだった。

 二人が挨拶をしたのに倣って、虎丸も一歩進み出て会釈をする。

「よろしくな。できれば、仲良くできたらいいけど、無理でもまあ、お互い周りに迷惑かけない程度にいい関係が築けると良いな」

 そして、大胆にも彼に対して握手を求める様に手を差し伸べた。当然、万兎羽はその手を取ることは無かったし、何か返事をすることもなかった。虎丸もそれは織り込み済みだったのか、彼の態度を見てさっさと手を引っ込めると、鶴亀兄弟に頭を下げて、台所に戻っていった。そうして、彼らの対面は終わった。


「本当になんなんだあの野郎! 最初っから最後まで鼻につく! 財布でもすってやればよかった、それで、どこぞの会計で赤っ恥でも晒せばいい!」

 客が引け、店じまいも済んだ後になって、やっと蛇介は外面を取っ払って怒鳴った。そのあまりの血相に、虎丸が疑い深げに尋ねる。

「おい、まさか本当に盗んでねえよな」

「ああ、ぎりぎり堪えた。つうか、虎! お前も言われっぱなしになってんじゃねえよ、噛みついてやりゃ良かったんだ。俺だけ怒ってたら馬鹿みたいだろ。お前がやり返しさえすりゃ、俺だって援護してやったのに!」

「それ、お前が喧嘩したいだけだろ」

 呆れたように言う虎丸の横で、龍之進も同意を示すように頷いた。

「蛇介は意外と血の気が多い」

「それな」

「なんだよ、頭に来てんの俺だけかよ。お前らだって気に食わないだろ?」

「まあ、愉快な奴ではなかったよな」

「髪の色は気になったが、それ以外は特にだな。ひねれば殺せそうだとしか」

「龍之進の感想はまあ予想の範疇だが、虎丸は当事者のくせになんで平然としてんだよ。やられたらやり返せよ、相手が泣いて這いつくばるまで追い詰め返せ」

「嫌だよ。そう言うのはもういい。ちょっと言ったけど、むしろああいう態度の方が、普通の反応だからな。最近、あんまり普通に接してくれる人が多かったせいで、感覚が麻痺してた。権太さんの件以降気が緩んでたけど、やっぱり髪も傷もきちんと隠さないとな。気分を悪くする人もいる訳だし」

「そこまでしてやる必要が何処にあんだよ。それで不愉快になるやつなんざ、勝手に不愉快にさせときゃいいじゃねえか」

「そうもいかねえよ。でも、俺は龍之進があの警官の髪に興味を見せたのが、結構意外だな。そう言うの、関心無さそうなのに」

「そうか? こいつ、最初っからお前の髪にも興味津々だったじゃねえか」

「そっか、最初に聞いて来たのも龍之進だったけ」

 蛇介に言われて、虎丸は藤野屋を買って間もないころを思い出す。確かに、探りも誤魔化しもなく、いの一番に虎丸の髪に興味を示したのも彼だった。龍之進は頷いて言う。

「ああ、変わったものは、何らか兆しであることが多いし、それに普通と異なる見た目のものは虐げられるから、生き残っているということは、それだけ強いことが多い。昔な、青い目の女猿に会ったが、驚くほど凶暴で強かった。群れから弾かれて生き残ってきたのだから、さもありなんだな。まあ、あの警官はそういう脅威ではなさそうだ」

「野生の理屈だな……」

 今度は蛇介が呆れ顔をする番だった。しかし、歪みない龍之進の有り様に、閉店まで持続していた執念深い蛇介の怒りも、徐々に鎮火を始めた。

「まあいいや。鶴亀兄弟も、後輩が問題児だってのは分かってるみたいだし、当日は兄弟のどっちかが監督も兼ねてあいつと組むだろ。俺らは顔だけ覚えときゃ、後は知ったこっちゃねえ」

「そうか。まあ、俺は誰とでも構わんが。それで、今夜の晩飯はどうする」

「あー、忘れてた。また権太そんの所かね」

「いや、今日は俺が作ってやるよ」

 重い腰を持ち上げようとした蛇介と龍之進を、虎丸が引き留める。二人は目を瞬いて顔を見合わせる。虎丸はそんな二人を尻目に、無造作に立ち上がると言った。

「あるもんでできる奴なら、好きなもん作ってやるよ。何がいい?」

「え、いや、良いのか……?」

 蛇介は恐る恐る聞く。その時、勝手口から催促するように犬が鳴いた。いつの間にか夕飯時にちゃっかり戻ってきていたらしい。虎丸が勝手口を開けてやると、彼を押しのけるようにして、犬が入り込んでくる。

 それを見て、はっとして蛇介は言った。

「飯作ってやるから犬を飼えって言うなら、いらねえぞ!」

「そうか、残念だ」

「危ねえ、罠かよ」

「じゃあ、明日からはまた自分で調達してこい。でも、今日は作ってやる」

「はあ? なんでだよ。何の得があって……」

「得はもうしたんだよ」

 そう言うと、虎丸は振り向いていたずら気に笑った。

「代わりに怒ってもらった礼だ。黙って食っとけ」

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