よくあさ
翌朝二人は自分の布団の中で目を覚ました。
何とも知れぬ小鳥の囀る声も、街の方から漂ってくる炊事の香りも、山の方から下りて来る冷たい風も、海の塩辛い風味の空気も、あまりにも平穏。枕元にいつも以上に渋く顰められた蛇介の狂相を見なければ、悪い夢でも見たのかと思ってしまうほど、いつも通りの朝だった。
状況を見るに、屋根裏で気絶したはずの二人は、蛇介が運んでくれたらしい。
「えっと、なんか迷惑かけたみたいで悪いな。……昨日のことは、その、何があったか聞いていいのか?」
いつにも増して近寄りがたい雰囲気の彼に、虎丸は起き上がりつつ、おっかなびっくり尋ねる。蛇介は神妙に頷いた。
「構わねえ、ただ、答えられるかは保証しねえ」
「言いたくねえことでもあるのか?」
「いや、何と言うか、うまく言い表せないかもしれねえんだ」
「そうか……じゃあ、犯人は逃げたのか?」
「ああ、そうなんだろう」
「何か盗まれた物とかあるか?」
「盗まれた物……は、ない、と言っていい。犯人は何も持って行かなかった」
「お前は怪我とかしてないか? その、なんか、俺らみたいに首絞められたり、攻撃されたりしなかったか?」
「しなかった。奴らは完全に俺を無視してお前らを狙いに行った」
「ああ、だからああして叫んで危険を知らせてくれたのか」
「でも間に合わなかったみたいだな、悪ぃ」
「いや、気にすんな。気絶しちまったけど、こうして今はぴんぴんしてるしよ。で、奴らって言い方的に、相手は何人かいたのか? 俺ら二人が同時にやられたんだから、当然か」
「ああ、そうだな、複数だった」
「その……この言い方は責めるみたいになるかもしれねえが、追いかけたりはしなかったのか?」
「……あの時は、自分がどうするべきか、ちょっと分からねえ状況だった。今思えば追いかけた方が良かったのかもな」
「そうか、そうだよな。そいつらはどうやって屋根裏まで侵入してきたんだ?」
「お前らが入っていった入り口からだな。けど、店には侵入してきてない」
「……? それってどういう意味だ」
蛇介の奇妙な物言いに、虎丸は怪訝に首を傾げた。しかし、蛇介は分かりやすく口を噤み、説明する気はないと態度に表す。急に閉ざされた彼の様子に、虎丸は深追いする言葉を見失い、途方に暮れる。
「蛇介」
気まずい沈黙を、ふと龍之進が切り裂いた。
今まで、布団から起き上がろうともせず、二人の話を聞いていたのかいないのか、ただ無言で天井を見つめていた彼は、そのままの姿勢で淡々と言葉を発す。
「お前、犯人を見たのか」
あまりにも根本的な問いに、虎丸は困惑に眉を寄せ、蛇介は一層顔を顰めた。龍之進はそんな二人の様子に眼もくれず、続ける。
「俺は見なかった。あの時、虎の方が先に落ちたが、俺には虎の首を絞めていた奴が見えなかった。俺は夜目が効く方なのに、倒れた虎の後ろに誰も見なかった。誰もいなかった。姿形の片鱗さえも」
龍之進はそこで目だけで蛇介を見やった。床に伏したまま、座る彼を下から覗き込むように見上げた。彼は、一切の隠し事を抉り出そうとする攻撃的な意志を、ありありと瞳に浮かび上がらせていた。
「蛇介、お前は何を見た。何故そうぼかすのだ、何を言おうとしている、何を言いかねている」
「……俺は、見た、のかもしれねえ。だが、悪い。俺は自分の見たもんが、自分の目が、信じられてねえ」
龍之進の強烈な眼力を前に、蛇介は何かを葛藤しているような歯切れの悪い口調で、それだけ吐露した。その居心地の悪い空気に、虎丸が仲裁に入る。
「分かった、蛇介。何か色々整理出来たらまた話してくれ。龍之進、具合はどうだ?」
「ああ、大事ない。至って好調だ、気分以外はな。急襲とはいえ無様に締め落とされるなど、我ながら情けない。何時ぶりの屈辱だ」
龍之進もそこでやっと起き上がり、布団を畳み始める。虎丸もそれに倣いながら、怒り心頭の彼を宥める。
「まあ、俺も同じ恥を曝したんだし、溜飲下げろよ」
「犯人はまた戻って来るだろうか。今までの執拗さを鑑みれば来るだろうな。よし、次だ。次があったが最後、絶対に再起不能にしてやる。まずは足をへし折って」
「やめろ、怖いこと言うな」
「虎は怒ってないのか、自分の家に土足で踏み入られて殺されかけたんだぞ。報復は当然だろう」
「そりゃ、怒ってるっちゃ怒ってるよ、最初っから。でも、結構危険なことになって来たし、蛇介も何か危ないもの見たのかもしれないし、慎重にならなきゃ駄目だろ」
「……うむ、まあ、それはな」
「とりあえず、朝飯でも食べて落ち着こうぜ、なんか適当に美味いもん作るから。それでまた作戦会議だろ。冷静になろう」
布団を片付け終え、虎丸と龍之進は階段を降りようとした。そこで今まで何か悩むように黙っていた蛇介がぱっと顔を上げ、それに制止をかける。
「まて、虎丸。その、下に行くなら、覚悟をしておいた方がいい」
「覚悟?」
「まあ、何と言うか、犯人が出て行くときにちょっと……お前にとってすごく嫌なことになってる可能性があってだな」
「はあ、うん、分かった。また食材が無計画に使われてたりとかは、昨日の時点で腹括ってる」
「ああ、その、冷静にな。昨日みたいに、鍋ぶん投げたりすんなよ」
「? ああ」
「……」
虎丸は絶句した。
割れた板戸の隙間から差し込む柔らかな朝日の筋の中に、ちらちらと埃が瞬いている。真っ白な瀬戸物の破片が幾つ分か、水浸しの土間の上に散らばっていた。板の間の床は抜け、外れた板が野菜を擦り潰していた。
叩き割られた戸板に、砕け散った食器と食材。転がる竈に土鍋、傷だらけの壁に突き刺さる包丁と、泥に濡れた地面に刺さるまな板。
ひっくり返った水瓶の縁から、雫が一つ、自重に引かれて零れ落つ。水面を打つ澄んだ音に、虎丸はやっと口を開いた。
「なんだこれ……」
何をどうすれば此処までの有様になるのか、虎丸の縄張り、藤野屋の台所は凄まじい荒れようだった。揃えたばかりの皿も、苦労して修理した戸も、心を尽くして選んだ野菜も、全て台無しになっていた。
「虎、朝飯はいらん。なぜか急に食欲がなくなった。あと、今俺は無性に掃除がしたい気分なんだが」
茫然自失の虎丸を見かねたのか、龍之進が寄ってくる。彼の不器用な気遣いに、虎丸は虚ろに頷いた。
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