第13話 幼馴染みと再会できたからこそ、もう一度弾きたくなった件

「KAGARI楽器製作所、数年前くらいからかな。芸能関係者向けに売り始めた所なんだけどね。最近だと結構色々なところでお世話になってるんだよねぇ」


「そ、そうだったんだな……」


 ここ数年ピアノはおろか、楽器なんて買おうとも思っていなかったから全く気にしたことも無かった。

 そんな情報一切入ってきてないし、俺の後輩である香雅里星菜と関係がないわけもないだろう。

 にしても、なぜそのKAGARI製作所がこんなアパートを買い取ったのやら。

 ……なんだかセナの息が掛かっている気がしないでもない。


 確かセナもセナで昔は空っぽだった、とか。

 今でこそやる気と活力に満ちあふれているものの、少し前までは何もなかった、とか言ってたような。

 自分のところも大概だが、人のところも大概だな。

 これまで何も言ってこなかった以上、こちらから無理に聞きに行くのも無粋だろうか……?


 ――勝つためのピアノでここまで弾き続けられるの、凄いっスね……。


 何気なく聞こえていたセナの言葉も、今となったら少しは感じるところもあるのかもな。


「勝ち続けるピアノ、ねぇ」


 美月へのマッサージも終わり、俺は台所から空タオルを持ち出した。


「そういう意味じゃ、美月も音楽で勝ち続けてるんだよな」


 これを美月に聞くというのも何とも情けない話だったのだが。ベッドの上で小さく体育座りをした美月は「そうだねぇ」とのんびりとした声音で告げる。


「楽しんでたら、気付いたら勝ってたっていうのが途中まで。でも今は――」


 美月は天井を見上げながら、訥々と言う。


「楽しむためには、勝つ必要もあるって感じかなぁ」


 妙に確信付いたことを呟いた美月。

 やはり日本の芸能界という荒波をくぐり抜けている最前線の人の言葉は重く感じられた。


「自分のわがままを通すために勝つ。自分の好きな音楽を貫き通すために勝つ。やっぱりどの世界でも、みんなは勝った人には特別優しくしてくれるんだぁ」


 筋肉痛の和らいだ足をベッドから投げ出して、ぷらぷらと揺する。

 

「でも勝ち続けること自体を目標にしちゃったら、負けちゃったときにぽっきり折れちゃうから。そうやってこの世界をやめちゃった友達もたくさん見てきたもん」


「楽しむために勝つ、か」


 思えばかつての俺も、ピアノを楽しんでいた時期もあった。

 それが勝つためだけのピアノに変わり、次第に勝たなくてはならないピアノへと変遷していった。

 結局全てはそこだったんだろう。


 ――アタシの勝ちね。


 大瀬良真緒ははっきり俺に通告した。

 俺はそれに一つの反論も出来なかった。

 勝つ・勝たない以前に勝負する次元にもいなかった。


 ――バッカみたい。


 大瀬良真緒は、入学受験の時の俺と正面からぶつかって完膚なきまでに叩きのめしてから世界に羽ばたきたい。


 ――ね、先パイ。やっぱピアノ、弾かないんスね。


 香雅里星菜は、入学受験の時の俺の演奏を取り戻して欲しい。


 そんなことはずっと分かっている。

 分かっていてなお、踏み出すのが怖かったのだから。

 勝つしかなかった、勝たねば人権すらもなかったあの時の自分が何よりも嫌いだった。

 

 じゃあ、俺が楽しんでいた頃のピアノは――と考えれば、やはり美月が隣にいた頃のピアノだ。

 その美月がもうすぐ後ろにいる。

 なら今の俺なら、もしかすると――。


「じゃ、ちょっと美月に聞いて欲しいんだけどさ。これ、どっちの音楽に入るかな」


 もはや物置と化していた電子ピアノ。

 ブックカバーやら友達からのプレゼントやらをどけていくと、埃に塗れたピアノカバーが姿を現した。

 空ぞうきんで拭くと、3年分の埃が吸い取られていく。

 入学の時に、中古で買った2万円の電子ピアノは結局1回くらいしか触っていなかった。


「か、和くん? どしたの?」


 美月が少し慌てるように俺の服の袖を引っ張った。

 もしかしたら、美月もどこかで俺の現状を知ってしまっていたのかもしれない。


「美月、『エリーゼのために』ってまだ好きだったっけ?」


「う、うん。ずっと、好きだよ。だってあれは――」


 言いかけて、美月はぐっと唇を締めた。


 『エリーゼのために』は俺が美月の前で奏でた初めてのクラシックだ。

 何の気なしに弾いたこの曲が、俺の本当の原点であったと言える。


「……っ」


 鍵盤を前にすると吐き気がする。頭の中が高校時代に通った様々なコンテストと、上手く弾かなければならない強迫観念と、鍵盤のあまりの狭さに辟易する。


 今までの3年間がずっとそうだった。

 機械的に弾くことが、感情を無にして弾くことが唯一それから逃れる手だった。


「……わくわく」


 ベッドの上にいた美月はわざわざ俺の隣に座りに来た。

 二人して鍵盤を前にするのはいつぶりだろう。

 椅子の広さが半分になったはずなのに、鍵盤の上は先ほどよりもずっと広がっていった気がした。

 不思議と怖さも、吐き気も、思い出も消え去っていった。


「今でも楽譜なくても弾けるの?」


 美月の問いに、俺は小さく頷いた。

 

「楽譜なんかよりずっと見たいもんがあったからな。昔も、今も」


 その日、大学に入ってから3年と少し。

 俺は初めて電子ピアノの鍵盤に指を置いた。

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