第3話 幼馴染がアパートの隣に引っ越してきた件

「うがー! 頭の中がぐっちゃぐっちゃっスー!!」


 言葉通り、「うがー!」と両手を挙げて降参を伝えるセナ。

 時刻は19時もまわってきた。

 セナの成績からしてもこの辺が今日の限界点だろう。よく頑張った方だ。


 俺の部屋にセナが上がってからはや3時間。

 軽めにセナ特製のパエリアを食した後はひたすらに勉強の時間だった。

 幸いここにはゲームや漫画なんて贅沢なものは存在しない。


 あるのは必要最低限の参考書と古びた電子ピアノ、最小限の家具のみ。

 まぁピアノの方は適当な物置と化しているが。


「基礎英語と標準数学は何とかたたき込めたし、こんなもんだろ。晩飯の礼くらいにはなってればいいが」


「先パイがいなかったら2回は留年してるっス……。これからも何卒、何卒……」


 ふざけたように平身低頭するセナ。

 セナはいつものようににへらにへらと笑いながら今度は俺にカウンターを仕掛けてくるのだ。


「先パイは課題、終わったっスか?」


 ふとテレビをつけようとリモコンを探し始めた俺の後ろからセナは問いかけた。


 セナの言ってるのはあれだろう。ゼミの作曲課題のものだ。

 

 今日はちょうど19時からトゥルミラのライブ裏密着番組があったはずだ。

 未だ見つからないリモコンを探しながら俺は答える。


「大体な。セナが解いてる最中暇だったし書けるもんは書いてるよ。そのくらい出来てれば教授も納得するだろ」


 A4で1枚程度の五線譜に書かれた俺の譜面を見たセナが分かりやすくドン引いていた。


「……うわぁ。ホントに出来てる……。ピアノも鼻唄も無しにテンポも和音も全部合わせてるの、やっぱ先パイバグってるっスよね……。これなら教授もギリギリ判子押しそうっス」


「褒めてんのか貶してんのかどっちか分かんねぇな」


 その時ふと、机の下にリモコンを見た。

 ――と同時に、拳をぐっと膝の上で握りしめたセナの仕草も。


「まぁ、カガリ的には? 先パイの力はこんなもんじゃないと思っるっスけど?」


 声が上ずっていた。

 セナは続ける。


「ね、先パイ」


 ふいにリモコンに手を伸ばす俺の手が止まる。


「やっぱピアノ、弾かないんスね」


 セナの目線の先には、この部屋の隅っこに置物となっている電子ピアノがあった。

 友達からもらった旅行土産や、もう使わなかったバッグがピアノカバーに覆い被さっている。

 

 さっさとリモコンを拾ってテレビをつければ、密着番組にて美月がセンターでキレキレのダンスを踊っている姿がそこにはあった。


 テレビの奥の美月は一見近寄りがたそうだ。。

 日本では久しく見ていない「クールビューティ系」という煽り文句もその通りだろう。

 それもひっくるめて今の彼女は人気も、技術も輝いている。

 クールな顔つきといつも楽しそうに踊って歌っている美月が、今や絶対的に手の届かない存在になっていったのだと再確認する。

 

 思い出したかのように俺はセナの質問に答えた。


「……大学で嫌ってほど弾いてるしな」


 ひとり暮らし先に持ってきてからというものご無沙汰している電子ピアノはもうインテリアも同然だ。


 ――大学での先パイのは、薄っぺらいその場しのぎの演奏じゃないっスか。


 ぼそりとセナは何かを呟いたが、すぐに笑顔を取り戻す。


「……そっスね。自分で言ってて何っスけど、家でも構内でもピアノ弾いてたら頭おかしくなりそうっスもんね! カガリの基礎勉みたいなもんっスね!」


「あれと一緒ってなるとそれはそれで凹むぞ……? 落単はしてないんだからな……?」


 ちょっとばかりがっかりしていると、セナは「それもそっスね」と再びにへらと笑って立ち上がった。


「長いことお世話になりましたし、今日はカガリ、このへんで撤退っス! また美味しいごはん食べたくなったらいつでも呼んでくださいね。家庭教師代で作らせてもらうっス!」


「そーだな。駅まで送るぞ」


「子ども扱いしなくても帰れるっスよ!?」


 子ども扱いはしてないぞ。セナは俺にとって妹みたいなもんだからな。

 これで帰り際に何か事故に巻き込まれたとあっては俺こそ死んでも死にきれない。


「まぁ、それじゃ……。気を付けてな」


 せめて玄関前でと手を振れば、セナは先ほどまでのような微妙な表情をなくしていた。


「ハイっス! また明日、大学で!」


 元気いっぱいに手を振るセナは、トントントンと足取り軽く階段を下っていった。


 さて、と――。


「……じー」


 隣の玄関が空いていた。

 こちらをじっと、じーっと見続けている。


「和くん、おんなのこ、つれこんでる。おとこのこ、こわい。かずくん、いけないこ」


 妙に幼児退行した様子の隣人さんだ。


 少女はパンと何も見なかったかのように頬を両手で叩いた。

 まるで今まで見た記憶を全て消し去るかのような行動は、何というか、とても緩い。


 片言だし。妙に固まってるし。


 ……っていうか、和くんだと?


 俺の思考がひゅんっと止まった。


 俺の背後から聞こえるテレビの音声からは、東城美月のロングインタビューが流れている。


『アイドルに限界はないと思っていますので。いつも自分を持って前に突き進んでいくことで、私たちトゥルミラの姿を皆さんにお見せしていければと――』


 そして俺を「和くん」なんて呼んでくるのはひとりしかいない。

 そう、確かそれは――。


「和くん、昔みたいにお隣さんだねぇ。よろしく~」


 ゆるゆるふわふわな笑顔を浮かべる幼馴染み――東城美月、その人だった。




○○○




 香雅里星菜カガリ・セナ藤枝和紀フジエダ・カズキの家を後にしつつ、小さく息を吐いた。


「カガリは、帝都杯の先パイを見て、帝都音大ここに来ようと思ったっス」


 帝都音楽大学ピアノコンクール――通称を《帝都杯》。

 ピアノ奏者が一堂に会し、一般公開される帝都音大の特殊な受験方法だ。

 

 当時たまたま演奏ホールで聞いた和紀の音色は、今でも香雅里の脳裏に焼き付いていた。

 激しくて、悲しくて、厳かで、軽やかで。

 まるで海のうねりにも近く、どこまでも永遠と続くような綺麗な音色だった。

 

 更に驚くべきことに、その時の和紀が弾いた曲は誰もが聞いたこと・・・・・・・・のないものだった・・・・・・・・

 オリジナル楽曲を持ち込んで、和紀はたったひとりでホール全て支配しきったのだ。


 そんなこの世の全ての感情を、脳裏にすぐに浮かぶような景色を弾き切って、和紀は順位1位で帝都音大の入学を勝ち取った。


「先パイはカガリの憧れっス。無気力で、何にもなくって、空っぽだった――残念なカガリだったあの時から、ずっと――」


 入学してからの音楽の成績は、正直地を這うレベルの低さだろう。

 それでも香雅里は忘れない。

 あのホールで、その場全てを支配した和紀の演奏を。


「いつか、カガリの創った神熱カミアツな詞を、大好きな和紀先パイに全力で作曲してもらって、神がかって弾いてもらうっスからね……!」


 香雅里星菜は忘れない。

 自分の心に再び火を灯してくれた恩人のことを。

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