第二章 国民的アイドル、幼馴染みとセッションする。

第9話 ライバルに首根っこ掴まれてしまった件

 5月下旬。

 帝都音楽大学に中間試験の時期がやってくる。


 急な美月の訪問から3日が過ぎた。

 あの時の出来事がまるで嘘だったかのように、あれからお隣に美月の姿はない。

 やはりトップアイドルともなると忙しさも段違いになるのだろう。


 片や俺はというと、いかにも大学生な試験の真っただ中に立とうとしている。

 なにを狂ったのか今まで半期に一度だった試験を、高校の頃のような四半期に一度の試験に分けてきている。

 とはいえ中間試験は学科の試験より演奏実技の試験の方を重視しているのだが。


(先パーイ! ファイトっスー!)


 帝都音楽大学のメインホールには試験監督の教授陣が5人。

 ――と、ホール後方にポツンと座るセナは教授陣に目をつけられない程度に手作りの旗を振っている。

 昨日の夕方、何かまた適当なものをゼミ室で作ってたと思ったらあんなものを……。


「受験番号17。作曲学専攻ゼミ3年の藤枝和紀です」


 点数計算としてはどうやらこの教授陣をある程度納得させる演奏が出来ればいいということだ。

 単位を取る程度の演奏でいいならそこまで難しい話でもない。


 教授陣の一人が確認を込めて言う。


「自由演奏楽曲は、フレデリック・ショパン。第9番変イ長調Op.69-1――通称『別れのワルツ』。間違いはありませんか?」


「間違いありません」


「ふぇぁっ!? せ、先パイ一昨日まで『子犬のワルツ』の譜面見てたじゃないっスか!?」


 セナが思わず席から立ち上がるが、教授5人が振り返ると同時に「す、すいませんっス……」とすぐさま着席した。

 まるで蛇ににらまれた蛙だ。


 演奏前の一礼を終わらせると、俺はとっととグランドピアノの椅子に座った。


 ピアノと俺に降り注ぐスポットライトがいつになく暑い。

 外の風もそろそろ暖かくなってきた。こんな日は早く帰って布団を干すに限る。

 ふっかふかの布団で昼寝をするとさぞかし気持ちが良いだろうな。


 ――鍵盤に十指を置く。


 しばらくピアノに触れていなかったせいだろうか。

 少しだけ指先の感覚が柔らかい。

 とはいえその程度で弾けなくなるほどヤワな鍛え方をされていたわけでもない。

 こればかりは・・・・・・藤枝家に感謝すべきか。


 ポーン、と。


 一音弾くと静かなホールに透き通った音が響き渡っていく。


 

 終わったら、そうめんでも食べようかな。


 俺の心の中は、邪念でいっぱいだった。



〇〇〇


「聞いてないっスよ、先パイ!」


「うぉぉ……相変わらずテンション高いなお前……」


 メインホール帰りの廊下では、律儀なことにセナが待っていた。

 学食でも食べ行くか、と問えば一も二もなく「ハイっス!」と元気よく返事をする辺り、相変わらず後輩力が高い。


「一昨日まで『子犬のワルツ』の譜面見てたじゃないっスか! いつの間に演奏曲変えた

っていうんっスか!」


 『子犬のワルツ』は、当時のショパンの彼女が飼っていた子犬が自分のしっぽを追いかけてくるくるしている、そんな忙しない様子を表現した曲だった。

 指の動きも早く、軽快でアップテンポな2分の音楽だ。

 音の強弱もはっきりしていて試験官的に採点はしやすい選曲にしたつもりだったのだが。


「一昨日変えたんだよ。何となく気分で」


「気分でって……!? 中間試験の2日前に演奏曲変えてノーミスで弾き切るの、先パイくらいにしか出来ないっスよね……!?」


「別れのワルツ、いい曲だろう? ふっと思い出して弾きたくなったんだよな」


「……確か、ショパンの恋人がどうこうって曲でしたっけ」


 ショパンの曲なんて大体全部そうだろ――という言葉はひとまず飲み込んだ。


「簡単に言うと、幼馴染と久しぶりに会ったらめっちゃ綺麗になってた。猛烈アプローチをした挙句に付き合えて凄まじく幸せだって時に書いてた曲らしい」


「はぇぇ……。ショパン、結構ロマンティックなお人なんスねぇ」


「はっはっは。意外とミス無しで弾けてただろ?」


「ロマンの風情もなく弾き切る先パイもマジ化けモンっス……」


 両肩をがっくりと落として珍しくビビっているセナ。

 セナのこういう一面を見られるのもある意味新鮮だ。


 少しはショパンの気持ちも分かるだろうかと選曲してみたが、最後まで弾き切っても案外何も分からず終いだったがな。


 長いホールの廊下を歩いていると、次第に人が増えていった。

 ガヤガヤとした喧騒に交じり聞こえてくる声は、俺の次の受験者の話だった。


大瀬良真緒おおせら・まおの演奏、次だったっけ?」

「ホール解放と同時に行かんと席が取れんぞ!」

「あればっかりは試験っていうよりかはコンサートみたいなもんだしな。急げ急げ!」

「帝都一番の音楽、今度こそ間近で聞きたいんだから!」


 速足で俺たちとすれ違っていく無数の生徒たち。

 数百人単位の人間が、大瀬良真緒の演奏を聴くためにここまで来ているのだ。


「むぅ……」


 その様子に少し口を尖らせるのがセナだ。


「セナも行ったら良いんじゃないか。《帝都の星》の試験だぞ?」


「興味ないっスね! ふんっ! 早く学食行くっスよ!」


 ずんずんと鼻息荒くホールの外へ続く扉を開けるセナ。


 なにをそこまで機嫌悪くしているのだか――。


「まだいたの、藤枝和紀くん」


 セナの後を追うように扉に手をかけると、ふいに後方から声がかかって来た。

 振り返ればまるで独演会かとでも言うようにきっちり衣装を決めた、紅黒いドレス姿の少女がいた。


「お、大瀬良か。今日も気合入ってんな。じゃ、試験頑張ってな」


 少女の名前は大瀬良真緒。

 現在の帝都音楽大学で恐らく一番の音楽成績を誇る俺の同期だ。

 少し派手目のショートカットの紅髪に気の強そうな猫目。

 ドレスに身を包んでいるためかその白く華奢な手足が余計に映えて見えた。

 試験会場にこれだけの勝負服で挑んで許されるのも、彼女くらいなものだろう。


 それほど今の帝音大において彼女の存在は際立つものがある。


 だが今の俺にはあいにく人の演奏を聴くほどの気力は残っていない。

 大瀬良がピアノを弾けばホールの外まで観客で埋まるから、その分学食が空いてありがたいんだ。


「え、ちょ、バッカアンタせめて聞いていきなさいよアタシの完璧な演奏を! なんでそのまま帰ろうとするのよ!」


「えぇ……大瀬良が弾くときは学食並ばずに食べられるボーナスタイムだぞ?」


「アタシの演奏何だと思ってんのコイツ!?」


 グンッと首根っこを掴まれてズンズンとホールの奥へと再び引きずり込まれる俺!

 待って! 力! 強いな!?


 とてもドレスを着ている人間とは思えない力加減でまんまと引きずられていく!

 抵抗すれば殺す。そんな棘付いた目つきもセットになるともはや俺に逃げ場はない!


「今日くらい、来なさい! 特等席用意して!! あげるからっ!!! バーカ! バーカ!!」


 大瀬良のドレスに似つかわしくない騒がしさが、ホールの廊下に響き渡っていたのだった。

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