第15話 幼馴染みのおねだりは、無碍できるわけがない件

 久しぶりの美月へのピアノ演奏は「エリーゼの為に」だけには止まらなかった。

 ショパン作「幻想即興曲」にバッハ作「G線上のアリア」、モーツァルト作「トルコ行進曲」。

 どれも久しぶりに弾いた。

 かつてはあんなに忌々しい曲だったはずなのに、今となってはその全てが心地よかった。


「えぇっと、シラソラ、ド……ここは?」


 美月は興味深そうにピアノに触れる。

 だが、ピアノをあまり弾いたことのない美月には指の動かし方一つとっても難しいようだ。


「指をくぐらせてみたり。ここは緩急を付けてみたり」


「……むつかしい。えっと、ダンス的にはこんな感じ?」


 弾くのを諦めてふいにふわっと立った美月は身体全身を使って踊り始める。

 美月にとっては、ダンスが音楽をするに一番最適な表現法なのだろう。

 ピアノを弾いているよりも輝いている風に見える。

 こんなダラダラとした音楽に不釣り合いなほどにキビキビと、狭い空間を存分に使ったダンスは見ているだけで楽しくなってくる。

 俺に向けてくる底抜けの笑顔とも違って、格好良いテレビ向けの美月の表情だ。


「っはは。そんな感じかもな。ってかテレビで見るよりやっぱ綺麗だよな」


「ほわぁっ!? いきなり何言ってるの和くん!?」


「キレが段違いだし、トップアイドルの踊りを特等席で見てる特別感はやっぱすごい」


「……ダンスの方なんだ」


 ピタッと制止する美月。

 何か抗議したげに頬を膨らませてくる美月だが、残念ながら楽しい時間はここまでだ。

 久しぶりにみっちり2時間と少しの間ピアノを弾いていたが、ここからはこのアパートのルールがある。


「というわけで夜の19時半以降はピアノの音出すの禁止ってルールがあるから終わりだ」


「むぅ。わたしがもう少しアパート早く買い取ってれば……!」


「そういう問題じゃない」


 ぺし、と美月の頭を軽めに叩く。


 いちいちやろうとするスケールが大きいんだよ。

 

「あはは、でも良かった。和くんのピアノでもっと元気出たもん。ね、また来たら弾いてくれる?」


 隣に座る幼馴染みは、ギシッと椅子を鳴らしてさらに俺の方へと寄ってくる。

 真っ直ぐで屈託のない笑顔だった。


 今度はテレビでは見たことのない、俺だけが見られる美月の本当の顔だ。


 国民的アイドルにはなれたけども、まだ本当の意味で一番のアイドルにはなっていない。

 美月はそう言っていたが、この表情を見せればそれはそれは簡単に日本一になれるんじゃないだろうか――と思わなくもないが。


「いくらでも弾くよ。おかげさまで数年分溜まってたものもあるしな。……って言ってももう少しピアノ自体どうにかならないかなぁ」


 ポーン、と。ピアノカバーをかける前に一度だけ鍵盤を押す。


「? どゆこと?」


「大学に入ってからもうマトモに弾くことはないだろうと思って、中古型落ちの電子ピアノにしてたんだ。おかげさまで抑揚も付けられないし音もガタガタ。弾けりゃいいって感じの代物になってるしな」


 それに買ってからもう3年も経っている。経年劣化も加わっているのにこれほど普通に弾けたのが奇跡のようなものだ。


「普通のピアノ、買っちゃおうか? そしたらたくさん練習できるかな?」


「このアパートだと床が抜けるな。向かいのマンションは音大生のスタジオも兼ねてるし防音設備もしっかりしててグランドピアノだって置けるらしいが、そんな金はウチにはない」


 『ミアカーサ』の向かいにあるマンションは、築2年の比較的新しい防音マンションだ。

 お金持ちの音大生が2,3人ほど住んでいると言う。

 そこのマンションには、ピアノの持ち込みが可能ということもありかなり壁も床も頑丈に作られている。

 ――と、美月がどこかに電話を始める。


「お疲れさまです、白井さん。『ミアカーサ』の前の築2年マンションとグランドピアノを一台、買い取り検討お願いしま――」


「だからそういうのはいらないって!? もちろん美月に全部やってもらうとかそういうのも無しだ」


「むぅ、バレてた。和くんのためなら全財産投げうってもいいのに」


 白井さんというマネージャーさんに断りを入れてもらう。

 だからこそ困るのだ。

 美月は対価を受け取ってくれないからな。

 それに額も額だ。

 いくら幼馴染みとはいえ俺個人のことで他人に迷惑をかけるのは忍びない。

 その気になれば親に土下座でも何でもしてピアノを用立ててもらうことは出来るだろう。

 だが、出来ることならばあの両親にはもう関わりたくはない。

 あの両親の呪縛から逃れるためだけに生き、反抗することだけを目標に生きてきた。

 どれもこれも俺が入学の時から一生懸命やってこなかったことのツケが今、来ているだけなのだから。


「とにかく、ピアノのことはこっちで何とかするから心配するな。今度美月が来た時はもっと凄いの聞かせるって約束するから。信じてくれ」


 自分でも荒唐無稽なことを言っているなとは思う。

 だが。


「うん、分かった。和くんがそう言うなら、信じる。じゃ、その代わり1個!」


 そう言って美月は一も二も無く返事をしてくれた。が、どうやら条件があるらしい。


「今日はたくさん和くんがピアノ聞かせてくれたから、お礼にピアノとスタジオ安く貸してくれるところ教えてあげる。和くんのレベルだったらすぐに合格が出ると思うし」


「……? たかだか一介の大学生にそんなもの貸してくれる所があるとは思えないが」


「いーいーの! 今度の土曜日、行ってみよ? それとも、わたしとじゃ……やだ?」


「嫌じゃないが!」


 半分上目遣いで言われたら断れないに決まってる。

 美月の上目遣いに弱いのは昔からまるで変わらない。

 どころか可愛さが増してむしろ断ろうという気にすらならない。


「ふふ、素直な和くんで良し。じゃ、土曜日に。場所はまた連絡するね!」


 いたずらっぽく笑う美月。

 どういう場所かは知らないが、美月が言うのなら悪い所ではないのだろう。

 どこか完全に美月の調子に乗らされている気もするが……仕方ない。

 それに、ここまで笑ってくれる美月を見てるのは悪い気もしないからな。


 「じゃまたね~」と、まるで中学校の頃と変わらない仕草で帰っていく美月を見て、ふと思った。

 そう、何気なく了承してしまったがこれはつまり。


「デート……ってやつになるのか?」


 

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