第14話 幼馴染みに聞いてもらう演奏は、やっぱりとても楽しかった件
『和くん、ピアノ弾けるのぉ?』
『うん、まぁまぁだけどね。ウチにピアノがあるから弾いてるって感じ』
『たのしそー!』
あれは確か、美月が俺の家に初めて遊びに来たときのことだったと思う。
両親は頻繁な全国コンサートツアーで家を留守にしがちだった。
小学校から帰って来て、すぐにピアノの先生の所にレッスンに行く当たり前のルーティン。
だがその時ばかりは、ピアノの先生の都合でレッスンがなくなり暇になった。
――ということを美月に学校に話したところ、「じゃ、和くんのお家行ってみてもいい!?」という元気な声に押されてこうなった次第だ。
そんな美月が俺の家に入っていの一番に目をつけたのが、ピアノ。
リビングの端にぽつんと置いてあるアップライトピアノに美月は興味津々だった。
『これが楽譜』
『……? おたまじゃくしと英語ばっか……?』
『音符とイタリア語だよ。これがどんな風に弾けばいいのか教えてくれるんだ』
『じゃ、和くんも何か弾けるの!? この暗号から!?』
目を爛々と輝かせる美月。何がそんなに面白いのかさっぱり分からなかった。
ただ弾いて、ピアノの先生に見せて、不合格だったら延々と弾き直し。先生が丸をつけたら次の難しい曲を弾いていく。コンサートから帰って来た両親に「あぁ、ちゃんと練習しているんだな」って感じてもらえばなお良し。
ピアノというのは、そんなコミュニケーションのための一つの手段に過ぎないのに。
『え、じゃあさ、じゃあさ! これとか弾いてみて! えっと、これは……なんって書いてあるの?』
『「Für Elise」。エリーゼのためにって曲だよ。ベートーヴェンのね』
『あ、あれだ! 音楽室に飾ってある絵のちょっとくるん!って髪の人!』
『……間違ってはいないけれども』
ぽすんと、美月は俺の隣に座った。
ピアノを弾くときに、すぐ隣に誰かが座るなんてことはない。
椅子の端に追いやられてちょっと窮屈でさえある。
むしろ先生からは、椅子には広く座れと常々言われてきた。
それに輝いた目で楽譜と鍵盤を交互に見る美月から楽譜を取り上げることもできない。
フェルマータだの、メゾピアノだのそこらの音楽記号もまだ完璧には覚えていないから楽譜の指示通りに弾ける自信は全くない。
だけれども。
「わくわく! わくわく!」
黒髪のポニーテールを子犬の尻尾のように動かす美月。
手を伸ばせばすぐ触れてしまいそうな距離に、可愛い幼馴染みがちょこんと座っていた。
こんなことでもなければ、そんな機会は一生こなかっただろう。
どんなコンサートよりも、どんな人の前で弾くよりも一番緊張したのにも関わらず。
○○○
「あの時が一番、上手い演奏出来てたんだよな」
電子ピアノで最初の音を弾いた。
アップライトピアノと違い電子ピアノだと音も軽く打鍵感もちょっと弱い。
あの頃との違いは、お互い楽譜がないことだ。
それでもお互いにあの楽譜の全てが脳裏に焼き付いている。
『エリーゼの為に』。
ベートーヴェンが当時恋心を抱いていた相手のために書き記したと言われる小曲である。
ピアノを始めた初心者がまず最初に目指すゴールにもなり得る曲ながらも感情を込めれば込めるほど溢れ出てくるのが特徴だ。
序章の何とも切ない響きからは募る恋心が現れ。
少しずつ恋心は大きくなるが、やがては元に戻る。
しかし想いが通じた時には、急に明るく弾んだ軽やかなメロディに変わっていく。
「なんだか楽しそう!」
隣の美月はその様子を身体を揺らして、楽しそうにピアノと同じ主旋律を口で奏でていた。ふわりと揺れるポニーテールが視界を横切る度に、少しの良い香りに思わず目が眩む。
音楽に合わせて本人すらも楽しそうだ。
演奏が佳境に入ってくると、今度は想いが通じなかったかのうな悲痛な叫びにも、暗い響きにも似た響きが増えてくる。
「ほぉぉぉぉ……」
神妙な面持ちで鍵盤を見つめる美月の眉が狭まった。
普段俺の前では喜・楽の感情を見せることが多い美月だからこそか、このような微妙(?)に悲しそうなことは珍しい。
3分という短い演奏の中で幼馴染みの嬉しそうで、悲しそうで、ちょっと残念そうな表情を10コ個も20個も見ることが出来る。
それだけでも楽しい。
最後の最後に消えゆくように鍵盤を押す。
と同時に思わず美月の表情を確かめたくなった。
「えへへ」
鍵盤から手を離すと、満面の笑みの美月と目があう。
「やっぱり和くんのピアノ、綺麗だねぇ」
――っ!!
正直、今、そんな屈託のない笑顔を向けられると、とても、来るものが、あってだな……!
「……? どしたの和くん。お熱?」
「い、いや、ちょっと久々に弾いたから、気にすんな……!」
鍵盤と、美月の横顔に夢中になりすぎていたせいで思わず今の現状が恥ずかしくなってきているんだよこっちは……! なんてことは、口が裂けても言えない。
そんなことを知ってか知らずか、美月は興味津々な様子で俺に身を寄せてくる。
「ねーね、和くん。途中のとこの曲調変わるとこ、どうやって弾いてたの? ここのさ、黒いとこと白いとこ交互に行ったり来たりしてるの、すっごかったんだぁ」
「あ、あぁ……あそこは――」
ピアノに触れるのが怖かった3年間が、一気に飛んでいった。
まぁ、少しだけ文句をつけるとするならば――。
――もう少しちゃんとしたピアノで、ちゃんとした場所で、全力の演奏を美月に聞いてもらいたい。
と、そんな大それた事を思い始めたことだろうか。
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