小説『インタラクション』 第1章

(1)

 夏休みは目前に迫っていた。


 いつの頃からか認識できるようになった夏の匂いとともに、そのときはやってこようとしている。陽光差し込む窓際の席から見渡した教室には、もうすでに夏休み気分なのかプールだの海だの花火だのと騒いでいる生徒たちの姿が見受けられた。


 朝野智文あさのともふみはそんな光景を横目で見ながら小さく息を吐いた。


 夏休みと聞くと自然とテンションは上がる。だが、そうかと言って特に予定というものがあるわけでもなく、智文が今年からかっこつけて使うようになった手帳の七月、八月の欄は真っ白だった。


 せめて部活でもやっていたならその予定だけでも結構埋まりそうなものだが、あいにく智文は帰宅部だった。中学のときは卓球部で、それなりに活躍もできていたのだけど、高校入学時にはもう続ける気はなくて入らなかったのである。


 なぜなら中学最後の大会で燃え尽きたから、とか言えればかっこいいのだろう。だが、別にそんなわけでもなく、ただ何となく「もういいかな」と思って辞めただけだった。


 要するに、飽きっぽい人間なのだ。何かに対して熱意を持って取り組むことができない。


 このまま、高校生活も何もなく過ぎていってしまうのだろうか。


 智文はもう一度、今度は大きく息を吐き、かけていた黒縁の眼鏡を外す。ぼやけた視界は今の自分の心境そのものだった。


「智ちゃん、元気ないなぁ。どうしてため息なんか吐いてるの? このあとの帰りのホームルームが終わったらいよいよ夏休みだよ」


 椅子を引く音がして、前の席の男子が振り返った。


 外していた眼鏡をかけ直すと、その爽やかな笑顔がくっきりと浮かび上がる。


 牧瀬直夜まきせなおや。ちょっと日に焼けた肌に、茶色く染めた髪。見た目若干チャラそうではあるが、接してみると真摯で真面目な好青年だ。今年一緒のクラスになったことで智文は彼と初めて知り合い、以来親交を深めている。


「夏休みって言っても予定ないからな」


「ははっ、まあ俺も部活くらいしかないけどね」


 智文が夏用に短く切った黒髪を掻きむしりながら答えると、直夜は明るい笑顔で同情してくれた。


 直夜はテニス部の部員である。今は秋の大会に向けて日々汗を流しているらしく、部活のことについて話す直夜はいつも楽しげで充足感に満ちている。


「部活があればいいよ。俺なんて帰宅部だし、どっか遊びに行く計画とかもないし」


「ならさ、二人でどこか行かない?」


「おー、それいいな。けど、部活は大丈夫なのか?」


 友人のナイスな提案に軽やかな返事をしつつ、智文は直夜の顔を窺った。


 すると、直夜は白い歯を見せながら余裕の笑顔を見せる。


「練習も毎日あるわけじゃないから、予定を合わせれば遠出も可能さ。俺たちならこの世界のどこへだって行ける。宇宙旅行だって不可能じゃない。……何十年後ならきっと」


「……えっと、今年の夏の話だったよな? 何でそんな規模が大きくなってんだよ」


「それくらい長く友達でいようってことさ。そのためにも、まずは今年の夏をエンジョイしていこう」


 両腕を広げながらおどけて話す直夜に、智文も自然と笑みがこぼれる。この親しみやすさが直夜の良いところだ。話していて純粋に楽しく思える。


「さて、具体的なプランはどうしようか?」


「それについてはまた今度話そう。ほら、前」


 智文は教室の前方を指差しながら小声で告げる。教壇にはいつの間にか担任の先生が立っていた。智文たちの担任は眼鏡をかけたおっとりとした女の先生であるが、怒ったところを誰も見たことがないため、逆に怒らせたらやばいと生徒たちの間では恐れられている。


「あっ……オーケー、またあとで」


 教壇に背を向けていた直夜はすぐに状況を察知し、前を向いて姿勢を正した。


 先生の天使のような微笑みによって静寂に包まれた教室。そこにいつもの彼女のまったりゆったりとした声が響き始める。


「今日は何だかみんな笑顔ですねぇ。明日から夏休みだから浮かれているのかな? でも、気をつけないと駄目ですよ。またこうしてみんなで集まるためにも、くれぐれも病気や怪我、事故などに巻き込まれたりしないように注意してくださいね」


「はーい」


 先生の口調に合わせるように、間延びした生徒たちの返事が重なった。


「私からは以上です。それではみなさん、さよ……」


「ちょっと待ったぁ!」


 がたっと立ち上がる音とともに、教室の真ん中の席辺りから気持ちいいくらい威勢のいい女子の声が響き渡る。クラスメイトや先生は、皆驚いた様子で声のしたほうに顔を向けた。


「まだみんなを帰らせるわけにはいきません。夏休み前にどうしても決めておかなければならないことがありますから」


 先生の挨拶を遮った女子の名は白石陽菜乃しらいしひなの。智文たちのクラス、二年三組の学級委員長を務めている。智文は彼女と家が近いということもあり、小、中、高と一緒の学校で、同じクラスになるのは小学生の頃から通算するとかれこれ四度目になる。


 なので、陽菜乃のことはよく知っている。


 いつも元気に周りを引っ張り、何事にも恐れず勇猛果敢にトライしていく彼女のことを端的に表すなら、『前向きで真っ直ぐな体当たり少女』と言ったところだろうか。


「あ、あの、白石さん、どうかしましたか?」


「先生の話はもう終わったんですよね? それならここからはわたしのターンです」


 困惑する先生にそう告げると、体当たり少女、陽菜乃は黒髪ポニーテールを左右に揺らしつつ、文字通り体当たりするかのような勢いで教壇のほうへずんずん歩みを進める。


 その様子を見守っていたクラスメイトたちは、「そんな扱いをして先生の逆鱗に触れないだろうか」、「委員長は何を始めるつもりなんだ」と二重の恐怖にビクビクしていた。


 智文も例外ではなく、担任と陽菜乃、交互に恐る恐る視線を向ける。


 嫌な予感しかしない。こういうときの陽菜乃は碌なことを言い出さないのだ。智文は体を竦め、できるだけ目立たないようにしながら穏便に事が済むことを祈る。


 教卓を両手でバンと叩いた陽菜乃は、前のめりになって言い放った。


「みんなっ! 文化祭、何やるか決めるよ!」


 陽菜乃の言葉に、皆ポカンとした顔を浮かべていた。


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