【2】

 電車を降りて、僕は初めて降り立った駅に設置されていた周辺地図を眺めた。川のある方角はどっちで、どの道を通っていけばいいのかを用心深く確認する。別にこれで調べなくても携帯端末を持つ僕らはGPS機能付きの高性能なマップをいつでもどこでも表示できるのだが、見知らぬ土地に来るとどうにも不安になるので安心材料は多いほうがいい。最後にもう一度指で辿って確認してから駅を離れた。


 高い建物がいくつかある駅の周辺から十五分ほど歩くと、草の青い匂いがする広々とした河川敷に着いた。


 川べりを少し歩いた僕は一旦立ち止まって、あまりズボンが汚れなそうな緑の雑草の上に腰を下ろした。


 一度大きく深呼吸し、河原の空気をいっぱい取り込んでから周囲の風景に目を向ける。


 河川敷に隣接する広い運動場では、野球をする小学校高学年くらいの子供たちの走り回る姿が見えた。バッターボックスに立った子がヒットを打つと、一際大きな歓声が離れた場所にいるこちらまで届いた。


 こういう光景を見ていると、僕は小さい頃の嫌な記憶ばかりが蘇ってくる。団体競技特有のミスが許されない空気に怖気づいて、とにかく目立たないことを第一に考えて行動していた自分。試合に勝利したり目標を達成したりして得られる喜びよりも、プレッシャーのほうがずっと大きくて苦しかった。


 一人で何かをするのには限界がある。集団や仲間というものを否定し、何でもかんでも一人でやろうとしていたらいつか無理が来て破滅を迎える。そういったことは頭のどこかではわかっている。


 けれど、僕は誰かと本気で繋がることができない。


 沈み出した夕陽が空を真っ赤な色に染め上げる。強い風が土手に座った僕の横顔に容赦なく吹きつけた。僕は立ち上がってズボンに着いた土や草を払うと、長く続く川沿いのアスファルトの道に戻って再び歩き始めた。


 この道路は近隣の高校の通学路として利用されているのか、歩いていると同い年くらいの人たちとたくさんすれ違った。


 同じ部活に所属していると思しきスポーツマン風の男子生徒の集団、チャリを引く男子とその隣で顔を赤らめてはにかむ女子、僕らの高校と同様に文化祭が近いようでそれについて話している仲が良さそうな男女グループ。


 どの表情も夕陽に負けないくらい輝いていて、僕の視線は通り過ぎる彼ら彼女らの影へと落ちていった。しかし、その影すらも笑って見えた。


 しばらく歩いていくと、下校途中の高校生ともすれ違わなくなり、人影自体がまばらになっていった。たまにランニングやサイクリングをする人が向こうからやって来たり、後ろから追い抜いたりしていったが、それぞれが自分の世界に入り込んでいて外への余計な干渉は避けているようだった。


 やがて目の前に浮かぶ色は、夜に塗り変わっていく空と存在を焼きつけるように燃える夕陽の煌きによって、層になって幾重にも折り重なった。


 純粋に綺麗だと思った。


 どんな色にも名前があって、赤、青、緑の三原色の交わりによりすべての色が作り出せるのだとしても、今僕が見ている空の色は言葉や数字では定義できないように思えた。


 空から太陽が失われ、代わりに星々や月が目に映るようになると、街灯のほとんどない河川敷は真っ暗な闇の中に包まれた。


 そろそろ帰ろう。そう思ったがもうだいぶ川沿いを歩いたので、ここに来たときに使った駅に戻ることは避けたかった。


 ポケットから携帯を取り出して現在地から一番近い駅を検索する。暗闇の中で煌々と光る画面に表示された地図は駅までの最短経路を教えてくれた。もうしばらく川に沿って歩いていけば駅の近くに出るらしい。僕は目印となるものを頭に叩き込んで携帯をポケットにしまった。


 わからなくなったらいつでもこれを取り出せば迷子になることはない。暗くて周りがよく見えないことに対する恐怖心はあったが、迷って家に帰れなくなることはないだろうという安心感があった。


 そういうこともあって、僕は最後にもう一度、川の近くまで下りてみることにした。


 道路から続く土手を転ばないように気をつけながら慎重に下り、流れる川の近辺まで体を運んでいく。実際の夜の河川敷に流れる景色や匂いや音を自らの体験として少しでも蓄積しておくため、その場所に身を置いて最大限に五感を研ぎ澄ませた。


 朝野たちはここで花火のシーンの撮影を行う。


 いや、正確に言うと「こことよく似た別のどこか」ということになるのかもしれない。実際には存在しない架空の場所で、虚構の世界の物語が紡がれていくのだ。


 ふと辺りに目を凝らすと、夜の闇に紛れて看板が立っていた。


 おそらくここを利用する際の注意書きでも記してあるのだろう。それがずっと続く河原に一定の間隔で設置してあることはまだ明るかった夕方の時点に確認していたが、わざわざ書かれている内容までは読みに行かなかった。


 もうここに来ることもないだろうし、帰りがけに近寄って一応確認してみることにした。暗いのでかなり顔を近づける必要があったが、時間をかければ目も慣れてきて何とか文字を読み取ることができた。


 そして、ある文言を見つけてしまった。


『花火などの火気厳禁』


 だから何だということもない。別にこの言葉があったって大した問題にはならない。


 今から僕が実際にここで花火をやるわけではないし、朝野たちのいる世界の河川敷に立てられた看板には


 ならば、この虚無感はどうして生まれてくるのだろうか。




 彼らの世界は現実とは違う。


 僕らの世界は小説とは違う。


 彼と僕は違う。


 何もかも違う。




 そんなこと、初めからわかりきっていたはずなのに。

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