【2】
休日明け。僕は劇の台本を鞄に詰めて登校した。
今日のどこかのタイミングで、僕は自分の名前がないことをクラスの中心となって動いている人たちに伝えなければならなかった。全体練習は数日後から始まるので、遅くなってしまっては迷惑がかかる。問題の指摘は早ければ早いほどいいはずだった。
しかし、なかなか行動に移せなかった。朝から機会を窺っていたが、てきぱきと動くクラスメイトたちはとても忙しそうで、準備を手伝ったこともなく、ほとんど会話もしたことのない僕がいきなり話しかけるのは難易度が高かった。
授業の間の休み時間にもチャンスはあった。けれど、どうしても体が動かなかった。台本を鞄から机の引き出しに移して、いつでも手に取って持っていける状態にしたが、両手で台本の束を摑んだまま肝心の一歩を踏み出せない場面が続いた。
やはり、彼ら彼女らのいる世界は遠くに見えた。
放課後になって、今日も文化祭に向けて劇の準備が始まった。作業しやすいように机や椅子を動かし、和気あいあいとした雰囲気で各々が与えられた仕事に就いていった。
いつもなら、僕はとっくに鞄を抱えて教室を抜け出している。誰にも見られないようにできる限り早く立ち去って、仲間に入れない惨めさや手伝わないことに対する後ろめたさから逃れようとしているだろう。
ただ、今日は違った。僕はまだ教室の自分の席に座っている。
ここを逃したらチャンスはない。現状を変えるなら今しかない。
たかが一言伝えるくらいで、何をこんなに恐れてるんだろうな。
他の人からしたら、本当に何でもないようなことなんだろうな。
けど、僕は僕だ。さっきから台本を両手で握り締めたまま立ち上がることができない情けない人間が自分だ。周りから見たら哀れに映るだろう。何だこいつって思われるだろう。そして何より、そんなことを気にしている自分がみっともなくて恥ずかしい。
それでも、僕は約束したのだ。
僕と共に生きる『君』と一緒に未来を探しに行くことを。
目標を再確認し、自らの足で立ち上がった。最初の一歩、震える一歩を前に出す。
向かう先にいるのは、劇の稽古をしている集団。メインとなる役を演じる男女らが笑い声を上げながら動きや台詞を確認している。
その中にいた、劇の脚本担当の長谷山さんに僕は近づいていった。
声をかけられる距離まで来ると、台本を持った僕に気づいた彼女が不思議そうにこちらを見つめた。異変を察知したのか、笑い声を上げて盛り上がっていた面々もいつの間にか視線をこちらに向けていた。
心臓がドクンと跳ねる。耐えられない。今すぐにでも逃げ出したかった。
でも、ここで逃げたら何も変わらない。
僕は何のためにここに来た?
たった一言を言うためだ。この世界で忘れられた存在の証明を果たすためだ。
勇気を振り絞って、その一言を口にする。
「この台本、僕の名前がなかったんだけど」
一瞬、時間が止まったように感じた。
けれど、次の瞬間には長谷山さんが同じく手にしていた台本を捲り始めた。周りにいた数人もつられるように中身を確認し出す。
「本当だ。ない」
青ざめた長谷山さんが焦った様子で頭を下げてきた。
「ごめんなさい。気がつかなかった。すぐに訂正するので待っていてください」
僕は頷いた。これでやるべきことはやった。長谷山さんには負担をかけてしまって申し訳ないが、あとはおそらく僕の役をどこかの場面に適当に加えてくれるだろう。
台本の不備を告げ終えると、僕は一人集団に背を向けた。
教室を出ようとした僕の後ろからは、「それくらいの見落とし、誰にでもあることだって」、「長谷山さんは頑張ってるんだし、全然悪くないよ」と彼女を励ます声が聞こえてきた。
彼女のフォローは周りが何とかしてくれそうだった。今まで立派に役割をこなしてきたことによる信頼が、そういう助け合える仲間を生み出しているのだろう。
……仲間、か。
学校内は文化祭一色になってきている。
通りかかるどの教室でも、個性溢れる出し物づくりに精を出す人々が、ときに笑い、ときに真剣な顔をして、それぞれの青春の一ページを作り上げている。
もう手遅れだろうか。
いや、まだ終わりじゃない。文化祭はこれから始まるのだ。
僕の世界でも、そして朝野の世界でも。
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