20××年9月2×日
【1】
キーボードを打つ手が止まったまま震えていた。
雀の鳴く声が聞こえる。もう朝らしい。
霞む意識の中で「学校」という単語だけが頭に浮かび、慌てて両手を机について立ち上がろうとしたが、今日は休みだと気がつく。
立ち上がりかけた体を再び椅子へ戻し、明け方の青白くなった部屋の中を見渡した。
床には文字が印刷された白い紙が足の踏み場もないくらいにばら撒かれていた。
文化祭の劇の台本。現実世界の、僕の世界の物語。ばらばらになったまま夜が明けてしまった。
僕はいったい、何をやっていたのだろうか。
少なくとも、こんなことがしたいわけじゃなかったはずだ。
流れ出た涙を拭い、ようやくなんとか椅子を立った。まずはその台本を拾って整理することから始めようと思った。
一枚一枚ページ番号を確認して、僕は紙を順番通りに拾い集めた。落とした拍子に折れ曲がったりしたページは丁寧に伸ばして重ねた。全部集まって束になったら側面をトントンと机に数回叩いて、はみ出した紙を揃えた。
僕の名前がない台本。僕だけ与えられなかった役。
これが僕の現実だ。小説の世界に逃避しようと、鬱積を押しつけようと、僕のいる世界は変わらずに回り続ける。
朝野たちの世界は止まった。台詞の途中で文章が途切れている。自らの信念をぶちまけているところで。
朝野が……いや、僕が。
ここに書かれている言葉は、果たして誰の言葉なのだろうか。
夏休み、僕は小説を書き始めた。誰かに言われたわけではない。僕の意思で物語を綴り出した。いつか読まれる予定もなく、誰にも知られないまま、一人孤独な執筆を続けた。
それはなぜか。
ずっとわからなかった。どうしてこんなことをしているのかと疑問を抱きながらも、ただひたすら朝野たちの世界を動かした。夏休みが終わって学校が始まってからも、中断することなく書き続けた。
今になってようやく、その理由がわかった気がした。
きっと、僕自身も希望を抱いていたのだ。
小説を書いていれば、朝野たちの世界を輝かしいものにすることができれば、何か僕の人生も変わるのではないかと。
高校生。文化祭。どこか僕と似た現状。
その設定を選んだのは書きやすいから。確かにそれも一つの理由だっただろう。
だけど、それ以上に多分憧れがあった。
くだらないと決めつけていた『青春』を、協力して何かを成し遂げようとする『仲間』を、おそらく僕はずっと求めていたのだ。
でも、望んでないふりをした。気づかないふりをした。劇の完成に向けて楽しそうに準備をするクラスメイトをいつも冷めた目で見ていた。
あまりにも距離があったから。あまりにも違いすぎたから。
ずっとどうしたらいいのかわからなかった。
一人でいることを選んで、一人でも生きていける力があると嘯いて、勝手に苦しんで、勝手に恨んで、挙句の果てには捨てたはずのものに光を求める。
実に哀れな話だ。誰かが聞いたら笑うだろう。
それでも、僕はそれらを本気で欲しいと願ってしまった。
だけど、その方法がわからなかった。
そして気がついたら、僕は小説を書き始めていた。
回りくどくて面倒くさくて、そんなものに救いを求めるなんて馬鹿で、でももしかしたら何かを変えてくれるかもしれない物語の創造という手段に僕は縋った。
未だにどうしたらいいのかはわからない。
でも、現実も小説もこのまま終わらせるわけにはいかない。
……朝野たちの世界を修復しなければ。
僕は小説が書かれたパソコンの画面に目を向けた。
牧瀬が入院する病院からの帰り道の場面で、彼らの世界はストップしている。
先が見えないけれど、諦めずに何とかしようとする彼らの姿がそこにはある。
もし、この状況を切り抜けることができたら。
ここから、彼らなりの答えをちゃんと導くことができたら。
そのときは、僕も少しは希望というものを信じてみてもいいかもしれない。
明け方の部屋には朝日が優しく差し込んでいた。その美しい光芒はまるで新世界の幕開けを祝っているかのようだった。
少し寝て、起きたらまた書き始めよう。
一緒に未来を探しに行こう。
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