(4)

 夏休み中の映画撮影は順調に進められていった。


 先日の帰り道のシーンを無事に撮り終え、本日は屋上のシーンの撮影。スタッフたちは学校の屋上に集い、それぞれの役割を正確にこなすための準備をしている。


綾子あやこ、マイクテストお願い。少し風があるからノイズが入らないかチェックしてみて」


「了解、やってみる。望月さん、いくよ?」


 陽菜乃に指示され、音声を担当するショートヘアの女子、源綾子みなもとあやこがモフモフとした風防付きのマイクをぐいっと伸ばした。その先にいるのは透華である。凛とした姿勢で立ってはいるが、慣れないことの連続で些か緊張しているのか表情は硬い。


「透華、リラックス。とりあえず一回練習してみよう」


 三脚で固定されたカメラを覗き込む陽菜乃の声に透華は小さく頷く。だが、その動作もどこか不安そうに見えた。


 河川敷での撮影のときも思ったことだが、おそらく透華は人前で何かをするというのがあまり得意ではない。智文もどちらかといえば「そちら側の人間」なのでわかることだが、人前に立つ経験の少ない者はいざ人前に出ると途端に平常心ではいられなくなる。ましてや、演技をするなんていう行為は恥ずかしくてなかなか簡単にできることじゃない。


 だが、透華は選ばれてしまったのだ。


 それについて彼女自身はどう思っているのだろうか。智文は一種の懸念のようなものを抱いている。もしかしたら断らなかったのではなくて断れなかったのではないか、と。


 残念ながら、彼女の本心はわからない。それを訊き出す勇気もない。


 ただ、透華の演技自体は決して下手ではなかったので、配役を変えなければならないということはなかった。むしろ、いつものどこか達観したような涼し気な表情とカメラの前での緊張した表情が相まって、それこそ「秘密がばれたら消えてしまう幽霊」のような不思議な儚さを生み出していた。


「いいよ、透華! その調子!」


 陽菜乃におだてられて、透華は顔を下げながらも嬉しそうに微笑んでいた。


 智文が透華たちのそんな様子を屋上の端っこで感慨深げに見つめていると、隣にいた直夜が感想を漏らした。


「透華ちゃん、頑張ってるね。俺も透華ちゃんに負けないように頑張らないと」


「やっぱり主役同士、相手のことは気になるものか?」


「まあ、それもあるんだけど、それ以外にも理由はあるというか……」


 曖昧に言葉を濁し、直夜は恥ずかしそうにはにかんで頭を掻いた。


「俺、透華ちゃんのこと、好きなんだ」


 マジかよ、と智文は照れる直夜の顔を確認するように窺った。


「それって恋愛的な意味で?」


「他にどんな意味があるの?」


 直夜は不思議そうに目を丸くして尋ねてきた。


 そう聞き返されると困る。何と言うか、直夜の場合、「全人類愛してます」みたいなことを平気で言いそうだから、今の発言もそのノリなのかなとちょっと様子を探ってみたわけで、結果的に違うとなるとむしろ俺のほうが「なに壮大なこと考えちゃってるの」と言われかねない。


「いや、何でもないから気にしないでくれ。それよりもいつから彼女のことを好きになったんだよ?」


 智文が手を振って話を元の方向へ戻すと、直夜はおもむろに視線を透華のほうへ向けた。


「前から気にはなっていたんだけどね。だから、今回の映画で透華ちゃんがヒロインをやるって決まったとき、相手役に名乗りを上げたんだ。彼女、学校にいるときもいつも静かで、話しかけようにもなかなかタイミングが摑みにくくてさ。演技の練習をするってことで会話をする口実もできて、それで夏休み中に何回か会ってるうちにやっぱり好きだなって」


「そうだったのか。だったら脚本とかもっとよく考えればよかったな。例えばキスシーンを入れてみるとか」


「いやいや、そういうのは求めてないから。……もちろんいずれはそういうことがあってもいいかなとは思ってる。だけど、それは役としてじゃなくて俺と彼女、牧瀬直夜と望月透華としてそういう関係になりたいんだ……って、なんか俺すごい恥ずかしいこと言ってるかも」


 焦りを誤魔化すように、ははっと笑う。その表情は照れくさそうで、だけど想いは真剣で、だからこそそこに潜む恋心が本物であることがわかった。


「悪かった。俺のほうこそ軽いノリで言うべきことじゃなかった」


「智ちゃんが謝る必要はないって。それに俺もそういう発想自体は別に嫌いじゃないしね。やっぱり智ちゃんは物語を作り出す才能があると思うよ」


 嫌な感じのしない爽やかな微笑で直夜は語る。こういうところは本当に彼らしいというか、彼にしかできないというか、少なくとも智文にはこんなふうに素直に人を褒めたり、簡単に相手を許したりすることはできないので、こういう場面に出くわすたびに彼のことを心から尊敬してしまう。


「俺からしたら直夜のほうがいろいろと才能あるって思うけどな」


「そんなことないさ。俺って失敗だらけの人生だから」


 またしても微笑んで見せる。けれど、今度のその笑顔にはどこか悲壮感のようなものがあった。ただの謙遜ではない、何か実体験に基づいた強力な根拠がその発言の裏にはあるような気がして、智文は少し狼狽えた。


「なに言ってんだよ。直夜が失敗だらけの人生だとしたら、俺の人生はどうなっちゃうのって話だよ。今年の夏だって映画の撮影があったからいいものの、これがなかったらマジで何の予定もなかったし」


 そんな智文の動揺に気がついたかどうかは定かでないが、直夜はふっと小さく息を吐くと、今度こそはもう本当に悲しさなどどこにもないような明るい笑顔で言った。


「そういえば、夏休み中どこかに一緒に行こうって約束してたよね? あの約束ってまだ生きてる?」


「ああ、すっかり忘れてた」


「いろいろと忙しかったからね」


「脚本やら撮影やらで手いっぱいだったからな。主に陽菜乃のせいだけど」


 言われてみれば、夏休みに入る直前にそんな話をした覚えがある。陽菜乃のせいで計画も立てられずに気がつけば夏休みも終盤。小学生が溜まりに溜まった宿題に焦り始める頃だ。まあ、高校生になった今も夏休みの宿題はあるんだけど。そして、まだほとんど手を付けてないんだけど。駄目だ、まるで成長していない。


 智文が自分に失望して頭を抱えていると、「大丈夫さ」という直夜の声がした。


「まだ夏休みは終わっちゃいない」


「そうだな。早く宿題やらないと」


「えっ、宿題?」


「じゃなかった。そうだ、どこか行こう!」


 そうだ、まだ夏休みは終わっちゃいない。手つかずのまま丸々残った宿題も、直夜との遊びの計画も、これから実行に移せばいいのだ。


「よしっ、そうと決まればすぐに計画を立てないとね。今回は忘れないように今日の撮影が終わったら必ず取り決めよう。たとえ陽菜乃ちゃんが邪魔してこようとも、俺と智ちゃんの約束は絶対に破らせないよ」


「おう。でも何なんだよ、その決意表明は」


「だって陽菜乃ちゃんは最強の『プロミスブレイカー』だからね」


「それは同感だな」


 何だか可笑しくなって、智文と直夜は同じタイミングで笑い出す。


 その流れのまま、智文はふと空を見上げた。


 いずれ訪れるはずの夏の終わりも、今はまだあのどこまでも続いているような青い空みたいに、ずっと遠くに感じる。


 けれども、何度も夏を繰り返してきた智文たちは確かに終わりが存在することを知っている。それは単なる一つの季節の終焉であって、待っていれば循環して再び同じ季節がやってくることも理解している。


 それでも喪失感を抱いてしまうのは「今年の夏」はもう二度とは来ないから、もっと有り体に言えば「高校二年生の夏」は今しかないから、なのかもしれない。


 真っ白なままの手帳を見て嘆いていたのも、無理やり仕事を与えられて付き合わされた文化祭に向けての映画撮影が案外楽しく思えてしまうのも、すべてはかけがえのない「今」に何か思い出を残したかったからなのだろう。


「王子、出番よ! 早く来て」


 噂をすれば陽菜乃の明瞭な声がした。彼女は黄色いメガホンを口に当て、こっちこっちと大きく手招いている。


「お呼ばれしてしまった。じゃあ行ってくるか」


「おう、頑張ってくれ」


 短い言葉で送り出すと、直夜は小さく手を振り、颯爽という言葉が似合う軽やかな足取りで撮影スタッフたちのもとへと向かった。


 直夜が合流したのを遠くから見届けた智文は、ワイワイとざわめきが起こるそちらに背を向け、一人で再び静かな夏空を眺めた。


 青い空には入道雲。もくもくと白い巨大な雲の綿は、屋上という高い場所にいるせいか何だかいつもよりも身近に感じる。勢いよくジャンプすればあの気持ち良さそうな雲の王国に飛び乗れるのではないか。そんな気さえしてしまう。


 でも、それは叶わない。――現実の世界では。


 どこからか風が吹いて、無言で空を見つめる智文の顔を優しく撫でる。後ろを振り返るとちょうど険しい表情をした陽菜乃と目が合った。


「早くあんたもこっちに来て手伝いなさい!」


 片手を腰に当てた陽菜乃の命令がメガホンを通して響いてくる。


「はいはい、今行くよ」


 彼女には絶対に聞こえないような小さな声で返事をして、智文はゆっくりとみんなのもとへ歩き出した。

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