【3】

 小説を書くようになってから、夜に散歩をすることが多くなった。運動なんて不得意で、特に団体競技などには強烈な苦手意識がある僕だが、この散歩には自然と足が運ぶ。ずっと椅子に座って文字を打ち込んでいると、本能的に体を動かしたくなるのかもしれない。


 一人の散歩は気楽だ。例えばこれが誰かと一緒だったら、僕はどんなに体を動かしたかろうと外には出ないだろう。


 それから、夜というのも気に入っている部分の一つかもしれない。夜はすれ違う人たちの表情を確認することができない。


 それゆえ、誰かの顔を気にすることもない。


 僕は今日も暗闇の中、存在のすべてを夜に溶け込ませて、静かに街をひた歩いていた。


 秋になると夜も涼しくなり、夜風が当たるたびにひんやりとした感覚が全身を駆け巡る。家を出る際に羽織ってきた薄手のパーカーは秋物として売られていたものだが、この調子だと着られる期間は短いかもしれない。季節の移り変わりは早いものだ。


 夏休みの間にも夜散歩の習慣はあったが、そのときの風はまだ生暖かかった。


 あれはちょうど家の近所で夏祭りがあったときのことだ。


 祭りの会場である神社から少し離れた夜の小道を一人で歩いていると、一筋の風がヒューっと僕の顔の辺りに吹いてきた。


 その風からは「祭りの匂い」がした。それが屋台で出されている焼きそばやたこ焼きなどのソースの香りなのか、打ちあがった花火の煙の匂いなのか、はたまた人々の熱気によるものなのかは定かではない。


 それでも、その夏の風はただ懐かしかった。


 小学生の頃は、僕も誰かと夏祭りに行った記憶がある。誘われたんだか誘ったんだかそれすらも覚えていないが、確かにあのときは一人ではなくて、世間一般でいうところのいわゆる『友達』というやつと一緒にいた。


 祭りの最中、その友達は「金魚すくいはすくえなくても必ず一匹もらえること」と「飲んだラムネの瓶は店に返すとお金が少し戻ってくること」を僕に教えてくれた。どこでもそのルールが適用されているのか知らないし、知っていたところで大して得にもならないどうでもいい知識だが、当時の僕は祭りの裏技を知れた気になって嬉しかった。


 けれど、そんな記憶も時が経つにつれて次第に忘れ去られてしまう。その友達ともいつの間にか疎遠になり、今はどこで何をしているのかまったく知らない。結局、思い出というのは過去のものでしかなくて、ほとんどすべてのそれは忘れたことにすら気がつかれずに呆気なく消えていく。


 そんなものに価値などありはしない。感傷に浸ったところで何かが変わるわけでもないのだから、そこに時間や心を奪われていたって無意味だ。


 空を見上げれば、月見の季節にふさわしいような丸くて大きな金色の月が一つポツンと浮かんでいた。


 あの美しい見事な月だって夜が終われば見えなくなり、朝になれば代わりに真っ赤な太陽が顔を出す。一年中、毎日ただその入れ替わりを繰り返す。


 朝、昼、夜。朝、昼、夜。朝、昼、夜……。


 中学生のときに学校の理科室にあって、みんなに意味もなくぐるぐると回されていた太陽と月と地球の模型のように、実際のこの世界の運命も逆らえない巨大な力によってなすがままに回っていく。


 だとするならば、この世に本当に意味や価値のあるものなんて存在するのだろうか。

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