(6)

 電車の中は割合静かだった。規則的に鳴っていたガタンゴトンという音が小さくなり、唸るようにしてスピードを上げていく。車窓から見える様々な光の類が右から左へ次々と流れていくのを、智文は吊革に摑まって立ちながら何となく眺めていた。


 隣に立つ陽菜乃も同じように無言で窓の外を見ていた。あまり喋らない陽菜乃というのに慣れていなくて、智文のほうもどんな言葉を切り出せばいいか悩んでいた。いったい彼女は今、何を考えているのだろうか。


 沈黙をかき消すようにゴォーというものすごい音が響いた。


 進行方向から来る電車とすれ違って、再び静けさが戻ってくる。しかし、今度は沈黙にはならずに陽菜乃が口を開いた。


「こうして二人で一緒に帰るのって久しぶりよね」


「ああ、そういえばそうだな」


 言われて、智文も思い返してみる。いつ以来だっただろう。


 陽菜乃とは小学生のときからの付き合いだ。家が近所ということもあって、毎日というわけではなかったが、度々一緒に下校する機会はあった。親同士も仲が良く、お互いの家に遊びに行ったりもした記憶がある。


 同じクラスになるのは四度目。小学生のときに二回、中学生で一回、そして今。


 いろいろな場面が蘇ってくるが、肝心の答えは見つからなかった。ゆっくりとお互いの記憶を照らし合わせていけばわかりそうな気もするけど、とりあえずすぐには出てきそうにない。


「最後はいつだったかって思い出せないものだな」


「わたしもはっきりとこのときだって言えないんだけど、一緒に帰った場面はいくつか思い出せるわ。あんたが道で転んで膝擦りむいて泣いたりしたこととか」


「あったか、そんなの」


「うん、あった。まったく何歳児なのって思ったわよ」


「……何歳児だった?」


「十歳。小四」


「マジか、そんなにもなって俺は……」


 自分にとって都合の悪い記憶なので抹消したのかもしれない。でも、言われてみればそんなこともあったような気がする。……いや、あったな。だんだん思い出してきた。くそ、忘れてたのに。


「眼鏡かけ始めたのもその頃じゃなかった?」


「えっと、確かそうだ。小四のときだ。すごいな、どんだけ俺に詳しいんだよ」


「別にそんなの普通よ。それに……」


 仰ぐようにして、陽菜乃がこちらの顔を見据えた。


「見えていないものだってきっとたくさんあるのよ」


 濃褐色の瞳。そこに映っているのは朝野智文。つまり、自分だ。


 でも、実体はこちら側にある。陽菜乃の瞳に映るのはあくまで虚像だ。


 しかし、だからといってそんなに悲観することでもないだろう。見える見えないというのはそういうものなのだから。


「そりゃあるでしょ。何もかも見えたたらそれこそSFかホラーの世界だ」


 智文は陽菜乃から視線を外すようにして窓のほうを見る。流れる闇夜の景色を背景に自分の顔がほんの少し浮かび上がっていた。


「確かにそれは智文の言う通りなんだけど、そういうことが言いたいんじゃなくて」


 窓にうっすらと映る陽菜乃がこちらを見ていた。


「……ごめん、やっぱりうまく言えない。だけど、これだけは言える。わたしは見たいの。今まで見えていなかったものを見たい。今までとは違う景色を見てみたい」


 陽菜乃がギュッと吊革を握り込んだ。


「でも、本当は少し怖い。文化祭だってみんなの力を合わせれば絶対に成功するって信じてるけど、もし失敗したらどうしようって心のどこかではやっぱり思っちゃう。どれだけ考えてもその恐怖はどうしても消えない」


 智文はハッと息をのむ。


 いったい、いつから思い違いをしていたのだろうか。


 いつも元気に周りを引っ張り、何事にも恐れず勇猛果敢にトライしていく、前向きで真っ直ぐな体当たり少女。


 智文が知っている陽菜乃。いや、智文が知っていると勝手に勘違いしていた陽菜乃。


 彼女に恐れなどないと思っていた。恐れがないからこそ、堂々とみんなの先頭に立ち、常に新しいことにチャレンジしていけるのだと信じていた。


 でも、それは間違っていたのだろう。みんなを引っ張る立場にいる人間は誰よりも失敗することへの怖さを感じている。それらを一人で抱え込みながら、陽菜乃はこれまでずっと重責を担ってきたのだ。


「陽菜乃はよくやってると思う」


 口から漏れたのはそんな一言だけ。こんな言葉しか言えない自分にほとほと嫌気がさす。


 見えていないものだってきっとたくさんある、というのは裏を返せばこちらからも見えていないものがあるということ。その真実に気づいていた陽菜乃と気づいていなかった自分には、すでに途方もないほどの差があった。


「ありがとう」


 返ってきた温かい声。受け取る資格はないと首を振ると、陽菜乃は可笑しそうにクスッと笑った。


「素直に受け取ったらどうなの? 本当に嬉しくて『ありがとう』って言ったんだから」


「いや、なんというか、お礼言われるほど大したこともできてないし」


「なに言ってんのよ。脚本だって書いてくれたじゃない」


「それは……陽菜乃がいたから」


 夏休み前、あのとき巻き込まれる形で陽菜乃に脚本の作成を命令されていなかったら、今頃はこんなに映画制作に携わることもなく、映画が出来上がっていく過程を外からそれとなく眺めて過ごしていたことだろう。


 そうなったかもしれない未来を変えられて今がある。だとするならば、お礼を言うべきなのはこちらなのではないか。


 もの問いたげな表情で見つめてくる陽菜乃に、智文は恥じらいながらも心境を吐き出した。


「感謝しなきゃいけないのは俺のほうなんだよ。陽菜乃に脚本作れって言われなかったら俺は夏休みだって無駄に過ごしてただろうし、文化祭の映画制作も多分適当に手伝ったふりをしてやり過ごしてたと思う。陽菜乃が役割を与えてくれたからこそ、今の俺のこの状況ができてるんだ」


 今まで、智文は物事に対して正面から向き合うことを避けてきた。


 中学の部活動においても、智文は卓球というスポーツにそれほど熱心に取り組むことなく、ただ漠然と練習をこなしていた。指示があればやるだけで、自発的に何かに挑戦してみようということもなかった。誰かに指図されるのを待っていた。


 そう、待っていたのだ。いつかきっと自分にふさわしいものが向こうからやってくるのではないか、と。


 だが、そんなものはなかなかやってこない。当然ながら、そんなに都合よく見つかるものではない。誰もが必死で探している「それ」が、口を開けて待っているだけの人間のもとに簡単に訪れるはずはないのである。


 ただ、チャンスはやってくる。本当に見つけたいと思っている人の前に現れるのだ。


 智文にとって、それは脚本の執筆だった。陽菜乃に適性を見出され、必死に取り組むことによって直夜や他のクラスメイトたちにも認められて、智文は自分の居場所を手に入れた。自分が真摯に向き合いたいと思うもの、成功を何よりも願うものに出会うことができた。


「このクラスに、近くに陽菜乃がいて、本当に良かった」


 やっと言いたかったことを言えた気がする。


 想いを語り終えて、智文は静かに安堵のため息を吐いた。


「それはお互い様よ」


 一息吐いたタイミングに合わせるように、今度は陽菜乃が息を吸った。


「わたしだって智文がいなかったら脚本誰に頼んだらいいのかわからなかったし、智文が引き受けてくれなかったら多分路頭に迷っていたわ。だから……智文がいてくれて良かった」


 電車が少しずつスピードを落とす。


 次の駅で智文は下車する。陽菜乃も降りるはずだ。


「あのさ、陽菜乃」


 別にこんなこと言うまでもなく、それをやるのが当然というか、この流れでそれをしないというのは男が廃るという感じなのだが、一応言葉にして確認しておいたほうがいいだろう。


 無言でこちらを見つめる陽菜乃に智文はそっと投げかける。


「今日、家まで送ってくよ」


 一瞬、間が空いた。その直後、陽菜乃が堪え切れないというように噴き出して笑った。


「もうっ、いきなり何を言い出すのかと思ったわよ! はいはい送ってくれるのね。どうもありがとう」


「笑いすぎだ。ていうか、何がそんなに可笑しいんだよ」


 なかなか笑いが止まらない陽菜乃はとうとう笑い泣きしたようで、何とか呼吸を整えながら瞳から流れてくる涙を手の甲で拭った。


「あー、笑いすぎて苦しい。まあ、智文にはわからなくていいわ。とにかく、残りの撮影も気を抜かずに行くわよ。脚本家兼雑用係として頼りにしてるからよろしくね」


「ちゃっかり雑用係もプラスされてるのかよ。別にわかってたしいいんだけど」


 思わず愚痴る。だが、不思議と気分は悪くない。元気を取り戻した陽菜乃を見ていると、こちらも自然と笑みがこぼれていた。やはり彼女にはこの明るさが似合うと思う。


「さあ、家に帰りましょう」


 見慣れた駅のホームに電車がゆっくりと吸い込まれていく。それに合わせて、降りる人々がドアの前にぞろぞろと移動し始めた。


 智文はこのあとの家までの帰り道について想像を巡らせつつ、「外は寒いのかな」なんてどうでもいい返事をしたのだった。

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