【2】

 夜。僕はノートパソコンの画面に向かっていた。


 暗闇の中、白く光るモニター。羅列された文章。敷き詰められた文字。


 小説のページ数、文字数はだいぶ多くなってきて、物語がクライマックスに近くなってきていることを感じる。


 撮影はあとラストシーンを残すのみ。文化祭で無事完成した映画が流れるその場面まで、あと一歩のところまで来ている。


 朝野たちの世界は輝いていた。みんなで協力して困難を乗り越えて、すべてがかけがえのない物語の要素として夜空に浮かぶ星座のように美しく煌いていた。




 ――なぜこんなものを書いている?




 キーボードを打つ手が止まる。


 自らが出した疑問にすぐには答えられず、目の前に広がっている文字だけの世界を呆然と見つめた。


 しかし、答えはどこにも見当たらない。ずっと探してきたけれど、見つからないままここまで来てしまった。


 机の上に無造作に置かれた台本に目を向ける。


 崩れかかった白い紙の束。何度も確認してみたが、そこに僕の名前は書かれていなかった。


 別にわざとではないだろう。ストーリーに破綻がないようにクラス四十人の役を作っていって、たまたま僕の名前が抜け落ちてしまっただけだ。そこに悪意なんてものはない。忙しい中で作業を進めている間に発生した単なるミスだ。


 だから、どうってことはない。そういう過ちは誰にでもあるもので、そこにいちいち突っかかる必要もない。不備があったと報告すればいいだけだ。


 僕の名前がなかった、と言えばいいだけ。




 ――なんでだよっ!




 突如、悲痛な心の叫びとともに、台本が凄まじい音をたてて部屋の床の上に撒き散らされた。


 誰でもない、僕自身の仕業だった。気がついたときには、机の上にあった台本を思いっきり手で払っていた。


 はあはあと息を大きく乱しながら、僕は起動中のパソコンの画面を見た。




 小説『インタラクション』の世界。


 そこで朝野たちは充実した毎日を生きている。


 北岡高校の二年三組の生徒として、文化祭のクラスの出し物の映画制作に奔走している。


 登場した人物がみんな楽しそうに笑っている。




 ――僕とは違って。




 知ってたよ。彼らの置かれた境遇と僕の境遇が違うってことくらい。


 彼らの物語はフィクションだ。うまくいくようにできている。不都合なことは起こらないキラキラした世界。何か障害があったって最後はみんなで協力して乗り越えられる。


 それに比べて現実は残酷なことだらけだ。ヒーローもヒロインも現れない。感動的な場面も訪れない。誰にも見つからない人間は誰にも見つからないまま、暗い部屋で一人閉じこもっているだけ。


 この差は埋まらない。どんなに頑張ったって現実は空想の世界には敵わない。


 ああ、ようやくわかった。虚無感の正体はきっとこれだ。




 ――現実世界に対する絶望。




 小説の世界がどんどん充実していっても、僕の停滞した生活は何ら変わらなかった。


 毎日誰に読まれるわけでもないこんな小説を書いて、意味もなく時間だけ使って苦労して、その見返りは何にもない。


 誰にも認められない。褒めてももらえない。人生が逆転するなんてことも当然ない。


 馬鹿馬鹿しい。誰がそんな世界に期待するだろう。もはや何の希望もない。


 いっそのこと、もう何もかも滅茶苦茶にしてしまいたい。


 神がサイコロを振るように。




 ――サイコロを、振る?




 ふと、机の上の陰に隠れていたサイコロに目が止まる。


 次の瞬間、身の毛もよだつような悪魔の考えが閃いた。


 そうだ、そうだよ。僕にはできるじゃないか。現実の世界は変えられなくても、朝野たちのいる小説の世界は思い通りに変えられる。


 僕は彼らにとっての神様だ。書いているうちにその事実を忘れかけていたが、僕の裁量次第でいくらでも物語を別の展開にできるのだ。


 小説のストーリーは映画のラストシーンを撮影する段階に入っている。


 このラストシーンで、望月が幽霊であることを先生に託した手紙の中で告白し、その手紙を残して彼女はクラスのみんなの前から忽然と姿を消す。すべてを知った牧瀬がまだ間に合うかもしれないと教室を飛び出して後を追い、廊下を全速力で駆け抜けて下駄箱のある昇降口へと向かう。




『全速力で駆け抜けて』




 映画の制作を崩壊へと導くならこの辺りの設定を利用するのがいい。起こりうる可能性のある破滅の形で彼らを絶望へと追い込むことができる。


 純粋な彼らはきっと足搔くだろうが、結局はどうすることもできない。


 すべての希望は僕が打ち砕く。逃れようのないバッドエンドだ。


 可哀想に。そんな気持ちも多少は湧く。


 だが、仕方がない。


 所詮、彼らはその程度の存在なのだ。黒幕である僕という存在を知ることもなく、ただやり場のない怒りや悲しみに暮れるしかない。




 構想を定めると、僕は躊躇いもなくパソコンのキーボードを叩き出した。


 朝野たちに現実の理不尽さを教えてやる。

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