20××年9月2×日
【1】
体がだるい。
最近ずっと寝不足のせいだろう。鎖に繋がれているかのように、学校へと向かう足取りの一歩一歩が重く感じる。お喋りをしながら登校する同じ高校の生徒たちの笑い声が、ぐるぐると頭の中に渦巻いて気持ち悪い。
寝不足の原因は、言うまでもなく小説の執筆だ。
毎晩夜遅くまでパソコンの画面に向かって文章を書いていると、頭が妙に冴えわたってしまう。結局ほとんど一睡もしないまま学校に通う日々が続いていた。
こんなことをしていても、何か意味があるわけではないのに。
学校の様子はここ最近ずっと変わっていない。
朝、教室に行くと、文化祭の準備をしている人たちがいて、授業中や休み時間にもその作業は少しずつ進められて、放課後になるとさらにたくさんの人たちが集って大所帯で劇作りに励んでいる。
僕の行動もここしばらくはずっと同じだ。
朝、チャイムが鳴る数分前に何とか教室に駆け込んで、めまいや吐き気がする心身の状態のまま授業を受け、休み時間は害音をシャットアウトするように眠り、大して体調も回復しないままで再び次の授業を受ける。放課後になれば逃げるように教室を飛び出して一人の帰り道を足早に歩く。家に帰ったら小説の執筆。夕食を挟んでまた執筆。夜になって少しだけ散歩したりして、明け方までまた執筆。眠れないまま学校へ。その繰り返し。
なぜ、こんな日々を送っているのだろうか。
説明しようにも、僕自身にだってよくわからない。
だが、習慣づいてしまった行動は変えるほうが難しく、価値の見出せない苦労を背負いながら学校生活と執筆生活の両立を続けている。
今日も学校へ着くと、劇の稽古をする主要のキャストたち、背景画や小道具などを制作する美術班、音や光の出し方を話し合う音響班、照明班などに分かれて作業を行っていた。仕事を進めやすいように机や椅子が動かされていたが、幸いなことに僕のは定位置にあって誰にも使われていなかった。
文化祭が近づき、日に日に出来上がっていくクラスの演劇。
主要キャスト以外に台本は配られず、依然として内容は知らされていないが、目に入る物体や聞こえてくる声をもとに考えればおおよその察しはついてしまう。
おそらくは有名な昔話のパロディだ。しかも「全員に役が与えられる」という縛りがついているから、どのような方向でパロディを加えてくるのかも見当がつく。同じ高校生の考えることだ。驚くべき発想なんてきっとない。
それでも、話を書くのが楽ということはないだろう。小説と台本、多少の差はあるかもしれないが、それを執筆する大変さは理解できる。クラス四十人に役と台詞をつけなければならないのだから、細かい部分の調整が遅れてしまうのも無理はない。
少しだけ同情し、ため息を吐きながら席に着く。重い体は限界で、椅子に座るとすぐうつ伏せになった。だが、視界を遮断してもクラスメイトの笑い声は鬱陶しく響いてきた。
その後、朝のホームルームが始まり、それが終わって一限目の授業が開始され、二限目、三限目と決まりきったタイムスケジュールの中で今日も一日が過ぎていった。
最近は授業中も頭が働いていないことが多くなってしまった。抜き打ちの小テストなどがあっても、その点数はひどい有様だ。文化祭の準備に夢中で先生の話を全然聞いていない人たちと、それほど変わらない成績にまで落ちていた。その中でも要領のいい奴は高得点を叩き出していて、僕が小説を書いている時間すべてを勉強に当てたとしても届かないのではないかと思わされるほどだった。
何なんだろうな、この差は。
朧げな視線で教室の窓から外を見た。空には鈍色の厚い雲がかかっていて、太陽の光は下界には届いていない。視界のすべてが薄暗く、太陽が昇る時間帯なのかそれとも沈む時間帯なのかも、その光景だけでは判別がつかなかった。
教室内の時計に目を移して、今がまだ正午前であることを頭が理解する。腹が減っている気がした。朝食もろくに食べていないのだから当然だ。けれど、食欲はあまりない。空腹なのに何かがいっぱいに詰まっていて、食べ物を入れようとしたら吐き気がしそうだった。
それゆえ、昼休みになって周りが昼食を食べ始めても、僕はずっと机にうつ伏せになって寝ていた。いつもは一人で購買に行ってパンかなんかを買ってきて、前の授業の復習か次の授業の予習をしている「ふり」をしながらやり過ごすのだが、そういう自分を演じる気力すら今の僕にはなかった。
午後になっても、ずっと靄がかかったみたいに気分は晴れなかった。
ただ呆けたまま自分の席に座って、授業ごとに入れ替わっていく先生の言葉を聞き流していく。少し寝たところで頭はすっきりせず、家に帰ったらまた小説を書かなければならないという義務感だけが僕の心を縛りつけて離さなかった。
今日も書かなければ……。明日も書かなければ……。
突然、意識の外からチャイムの音が降り注いできた。いつの間にか、すべての授業が終わっていた。
残るは、掃除と帰りのホームルームだけとなった。ここまで来ると、今日の学校生活ももう終わりが近い。誰とも会話をせず、授業も頭に入らず、何のために学校に通っているのかわからなくなってしまうが、そんな無意味な毎日を繰り返しながら何とか今日も乗り越えようとしていた。
淡々と清掃を済ませ、帰りのホームルームの時間が訪れた。
教壇に立った担任の先生が口早に連絡事項を述べ、最後に生徒たちのほうからも何かないかと話を振った。
それに対して威勢よく手を挙げたのは、文化祭の劇作りの中心メンバーの一人、岡崎さんだった。
「はいっ、わたしたちのほうから配りたいものがあります」
そう言って、ガラガラと騒がしく音を立てて何人かが席を立った。教卓のところに集まるとその上に重そうな紙の束を置き、分担して列ごとに少しずつ配り始めた。
「今、配っているのは長谷山さんが書いた劇の台本です。クラス全員の名前と演じる役、それから台詞が載っているので今度の全体練習までに読んできてください」
「遅くなってしまってすみません。まだまだ不備があったりすると思うので、何か気づいた点があったらいつでも言ってもらえるとありがたいです」
長谷山さんは申し訳なさそうに頭を下げたが、教室内からは「これだけの量書けるだけでもすごい」と尊敬の声しか聞こえてこなかった。
十分近くの時間をかけて台本は配り終わった。だが、僕はそれに少しも目をくれることなく鞄にしまった。読まないという意味ではなかった。家に帰ったら演じる役の確認のために一読くらいはするつもりだった。
帰りのホームルームが終わると、僕は足早に教室を去った。
その日配られた台本に、僕の名前はなかった。
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