(2)
病院に着くと、一階の受付で『牧瀬直夜』がいる部屋番号を確認し、一人一枚ずつ面会証を受け取った。それらを首から下げ、エレベーターを使って上の階へと上がり、直夜のいる部屋を目指した。
その間、智文たち三人は無言だった。学校から病院に着くまでは陽菜乃を中心にぽつぽつと会話が生まれていたが、いざ病院内に入ると楽観的なことも悲観的なことも口にしづらくなり、結果的に何も言えなくなった。
病室の前までやって来て、互いに目だけで合図を送り、智文が先陣を切ることになった。
直夜の病室は四人部屋で扉はなかった。中へと歩いていくと、カーテンで四つに仕切られたうちの一番奥の窓際のベッドに、足首をギプスで固定した直夜が横たわっていた。
「ああ、来てくれたんだ。みんなも」
初めに智文の顔を見て、さらにあとから続いた陽菜乃と透華の姿を確認すると、直夜はすぐに笑って見せた。しかし、そこにいつもの爽やかさはない。声にも元気がなかった。
「入院したって聞いたから心配になって」
「ごめんね。昨日、夜遅くまで部活やってて、そこで足捻っちゃってさ。それでそのままこの病院に運ばれたんだよ」
体を起こした直夜は、作った笑顔のまま足首を指差した。
「怪我はひどいのか?」
「いや、そんなに重症じゃないみたいだ。検査のために入院しただけで実際骨折はしてないようだし、一応明日には退院できそうだ」
「それなら良かった」
不幸中の幸いといったところだろうか。智文はひとまず胸をなでおろした。
だが、代わりに今度は大きな疑問が湧いた。
じゃあ、なんで連絡の一つもくれないんだ?
声が喉元まで出かかったが、質問が発せられることはなかった。直感的に訊いてはいけないような気がしたのだ。
直夜が偽りの笑顔を浮かべているのも、話す言葉がどこかよそよそしいのも、触れてはいけない何かが存在しているからなのではないかと察した。
もしかしたら考えすぎなのかもしれない。連絡がないのは病院にいて携帯が使えなかったからとか、どこかぎこちないやりとりは今日の撮影が中止になってしまったことに対するうしろめたさからきているとか、理由はいくらでも思い浮かぶ。
でも、この場の探り合うような重い空気は、そんな生温い事情によって作られたものではないように感じた。
「……ごめん」
沈黙に耐えかねたのか、直夜が突然大きく頭を下げて謝った。
「何で謝るんだよ? 部活やってりゃ怪我くらいはするだろうし、今日の撮影のことは別に誰も怒ってないから」
「そうじゃないんだ」
強めの語気で智文の言葉を否定する。陽菜乃と透華も心配な視線を向けるが、直夜は目を合わせずに俯いたままだった。
「そうじゃなくて……」
震える声で呟くと、直夜は両手の拳を強く握り締めた。
「今朝、主治医の先生に言われたんだよ。あと二週間は走れないって」
あと二週間は走れない。
その言葉の意味を理解するのにそう時間はかからなかった。簡単な計算だ。
文化祭まではあと十日を切っている。直夜が走れるようになるのが二週間後、つまり十四日後だとすれば当然文化祭が終わった後となる。
それがどういうことか?
すなわち、直夜が全速力で走らなければならないラストシーンを撮影することは不可能だということだ。
「歩くことくらいはすぐにできるようになるらしい。でも、走るのは無理だって。今、下手に走ろうとしたら怪我が悪化して大変なことになるってさ。何度も食い下がったんだけど、絶対に駄目だって言われた」
空笑いして窓のほうを見つめる。視線は合わせてくれない。少し開いた窓からは夕陽の綺麗な光が差し込んでいた。
「それならすぐにラストシーンの脚本を見直さないとね。わたしからみんなに連絡して変更に対処できるようにしておくわ。智文、書き換えられる?」
「……ああ、問題ない」
実際はアイデアなんてなかったが、そう答えるしかなかった。
「陽菜乃ちゃん、いいんだ」
浮ついた会話を断ち切るように、直夜が冷たく言い放った。
「いいってどういうこと?」
「智ちゃんが書いた脚本は、あのラストシーンは、みんなが気に入ってる場面だ。陽菜乃ちゃんだってそうでしょ? だから変えるべきじゃない」
陽菜乃は直夜のほうを見据えたが、反論する言葉が出ず、口を引き結んで押し黙った。
「俺さ、昔からこういう肝心なときに必ず失敗するんだ。合唱コンクールでは指揮者に推薦されておきながら本番でミスを重ねるし、運動会ではクラス対抗リレーのアンカーで最後の最後で抜かれるし、そうやってみんなの期待を裏切り続けてきてさ」
「……でも、撮影はどうするんだよ? 医者の命令を無視して走るわけにはいかないし」
辛い感情を押し殺して智文が尋ねると、窓から目を離した直夜はそのまま俯いて呟いた。
「俺を主役から降ろしてくれ。俺以外の誰かで撮り直せばいい」
「な、なに言ってんだよ?」
「ちゃんと走れる人に、ちゃんと最後まで演じきれる人に初めからやってもらうべきだったんだ。……俺なんかじゃなくて」
滅茶苦茶なことを言っている。当然、すぐに否定するべきだった。
だが、そんな発言をしてしまう直夜の気持ちは痛いほど伝わってきて、智文はそれ以上言葉を返すことができなかった。
そのときだった。智文の視界の端でふわっと長い髪が揺れた。
「なに言ってるの? 牧瀬君は本当にそれでいいって思ってる?」
叫ぶようにして訴えかけたのは透華だった。智文も陽菜乃も、直夜でさえも驚いたようにして、皆彼女のほうを見つめた。
「わたしはその提案は受け入れられない。今まで一緒に頑張ってきて、この映画の主演にふさわしいのは牧瀬君だって思う。それに、期待を裏切られたなんて誰も思ってない。みんな牧瀬君が帰ってくるのを待って準備している。わたしは……わたしは牧瀬君と一緒にラストシーンを演じたい」
透華の心からの声だった。瞳には涙が浮かんでいた。
空気が変わる。絶望と諦観しかなかった病室に少しだけ温かさが戻ってきた。
「透華の言う通りよ。プロデューサー的な立場からしても王子の意見には賛同できないわ。今から全部取り直すなんてスケジュールが間に合いっこないし、予算だってほとんど使っちゃったしね。今ある映像をうまく使うことを前提に考え直しましょう」
陽菜乃が意志を確認するようにこちらの顔を窺った。
「脚本は俺が何とかするから、心配しないで学校に来てくれ」
智文だって透華や陽菜乃と同じ考えだ。直夜にはクランクアップの瞬間まで主役でいてほしい。完成した映画が文化祭で上映されているときに笑顔でいてもらいたい。
「……みんな、ごめん。……ありがとう」
それだけ言って、直夜はこぼれんばかりの涙を流し始めた。
「さあ、そうと決まったら早速準備に取り掛からなくちゃいけないし、わたしたちはそろそろ行くわ。それじゃあ王子、また学校でね」
陽菜乃は泣いている直夜に気を利かせ、元気に退散の挨拶をした。智文と透華もその意図を察し、最後に前向きな声をかけて病室を後にした。
部屋を出てエレベーターで一階に降り、最初に訪れた受付の近くまで来ると、透華だけが首から下げた面会証を外さずに言った。
「わたしはもう少しここに残ろうと思う。牧瀬君が落ち着いたらちょっとだけ話したいことがあるの。白石さんたちはこっちのことは気にせずに先に帰ってて」
智文と陽菜乃は顔を見合わせると、お互いに頷き、返事をした。
「そうか。それなら後のことは望月さんに任せた。直夜にとってもきっとそのほうがいいだろうし」
「透華、よろしくね。クラスのみんなにはわたしのほうから事情を説明しておくわ。映画の具体的な修正プランについては決まったらすぐに連絡するから待っててちょうだい」
透華は力強く首肯して、智文たちを交互に見据えた。
「わたしにできることがあったら何でも協力する。だから、牧瀬君が負い目を感じないようなラストにして。……勝手かもしれないけど、二人にしかお願いできないから」
「わかってる。悪いようにはしないわ。監督として、映画の完成度も、スタッフやキャストみんなの想いも絶対に蔑ろにはしない。誰もが認める最高のラストシーンにしてみせる」
「脚本に関してはさっきも言ったけど俺が何とかする。みんなが納得するようなラストに書き換えてみせるよ」
決意を確認するように、三人で目を合わせて誓い合った。
「じゃあね、透華。また明日学校で会いましょう」
「また明日な」
陽菜乃と智文が手を振ると、透華も小さく手を振り返した。
「うん、また明日」
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