20××年9月×日
【1】
夏というものがあまり好きではなくなったのはいつの頃からだろうか。
夏休みが明けて学校に来ると、昇降口、廊下、教室、ありとあらゆるところで思い出話に興じる生徒たちの姿があった。
その間を縫うようにして、僕は誰とも挨拶を交わすことなく自分の席に着く。鞄を置いても立ち上がったりはせず、弾む会話や楽しそうな笑顔とは一線を画し、席を動かない。
今年の夏も終わった。何をしていたのか思い出してみても、これといって話すようなことはない。部活にも入っていなければ、バイトもせず、どこか旅行に行ったりもしないで、ほとんどの時間を家で過ごしていた。暇な時間を使って何か勉強したり極めたりすればいいのかもしれないが、あいにく僕はそのような根性のある人間ではない。
時間というものは有限だ。だから、そこに詰め込むことのできる思い出の数も限られるはずである。仮に一日一個とするなら、僕らの高校の夏休みは四十日くらいだから、その間に経験できる思い出は四十個程度ということになる。
しかし、実際はどうだろうか。どんな些細な出来事も素敵な思い出として残り、記憶されるのだとしたら、有限な時間の中に入る思い出の数も無限と言っていいのではないか。
まあ、そんなことを唱えたところで、僕の夏が今から素晴らしいものに定義され直すわけではなく、何もなかったという事実は不変だ。
それでも、僕が夏休みに唯一やったと言ってもいいこと、そして今日以降もおそらく継続するであろうことがある。
――小説の執筆。
世の中に「やって良かったこと」と「やって悪かったこと」の二種類があるのだとしたら、小説を書くことは「やって悪かったこと」になると思う。
時間を消費している分のマイナスに対して、それを補うようなプラスの要素は特になく、結果的には負になる。
もちろん、これは僕にとっての話だ。世界のどこかには小説を書くことに何らかの強い正の因子を見出している人もいるのだろう。それは別に不思議なことではない。価値観はいろいろなのだから、そういう人だっているのはわかっている。僕がその感覚を理解できないだけだ。
窓の向こうの空には、夏特有の逃げ出したくなるような清々しい青さが残っていた。
僕の席は窓際。これは小説に出てくる朝野と同じである。
ただ、前の席に座る男子は親友でもなんでもなく、事務的な会話すらも交わしたことがあるかどうか怪しい、まさに他人と形容するしかない人間だ。そもそもこの世界のどこを探したって、僕には朝野にとっての牧瀬や白石のような人は存在しない。
朝野と僕の共通点は、眼鏡をかけていることと、席の位置と、それから部活に入ってないってことくらいである。
それでも、朝野と僕はどこか似ている。
具体的な共通項はあまり出てこなくても、僕が書いている物語の主人公であるからかそう感じてしまう。
何はともあれ、小説の執筆は今日まで続いている。
もはや書くことが義務のようになりつつあって、学校が始まって早々こんなことを思うのは不心得なことかもしれないが、早く家に帰りたい気分だ。今日も義務を果たさなければならないのだから。
朝のホームルーム前の教室を見渡すと、久々に会って話題が尽きないのか、笑顔でお喋りに花を咲かせている集団が点在している。
その中に、何やら深刻な顔で話をしている男女三人組がいた。
「夏休みも明けたし、劇も本格的に作らないとまずいよね。わたしたちのクラス、なんか他と比べて遅れてるみたいだし」
「ごめん。わたしのせいだよね」
「いやいや、長谷山さんのせいじゃねぇよ。……台本はまだできないのか?」
「あともう少し。大島君は主役だから台詞の量多くなってるけど平気?」
「俺は大丈夫。それを言ったら岡崎さんだってナレーションも担当するし多いでしょ?」
「わたしは平気よ。普段から滑舌を良くする訓練してるし」
「へぇー、まっ、放送部だもんな」
「それでも練習はいるけどね。とにかく日程に余裕もないし、クラスのみんなと協力して手を付けられるところからやっていかないと」
内容から察するに文化祭でやる劇の話だろう。「遅れてる」という単語も耳に入ってきた。
だが、あいにく僕には関係のないことだ。夏休み中も僕のところへは何の連絡も来ず、進捗状況は一切知らされていないので関わりようがない。おそらく僕以外のクラスメイトは何かしらの伝手で情報を得ているに違いないが、残念なことに僕にはその人脈がない。
情報格差、という言葉を情報の授業で習った覚えがある。
それはどうやら情報技術を使いこなせる者とそうでない者の差のことを言うらしい。
だとするならば、携帯やパソコン、インターネットなどを使える環境や知識を持つ者同士の間には情報格差は発生しないことになる。
でも、本当にそうだろうか。
いや違う。実際の情報格差は人間関係によって生まれる。どんなに技術が発展しようと、根本にはそれが常に付きまとっているのだから。
壁にかけられた時計をちらりと見る。担任の先生はまだ来ない。
くだらない文化祭のやり取りはまだ続いていた。
ぜひとも先生には早く来てもらって、この忌々しい空気を吹き飛ばしてもらいたい。
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