(6)
直夜のもとを離れた後、智文はいつの間にか併設されていた飲み物コーナーで二リットルのペットボトルから紙コップへお茶を注ぎ込み、ついでに誰かが家から持ってきたと思われる焼き肉のたれやレモン汁をちょっと拝借して食事の準備を整えた。
そして、塞がった両手で一人よろよろと歩きながら、どこか食べるのにちょうどいい場所がないか彷徨った。
こういうときに智文が求めるのは落ち着けるスポットだ。集団で派手に盛り上がったりするのがあまり得意ではないので、喧騒からちょっと距離を置いた、かと言って完全に離れてしまうことはないくらいの絶妙な場所を探す。
ある程度歩いてこの辺がいいんじゃないかなと智文が思ったところには先客がいた。
同じようなことを考える人間というのは案外いるものなのかもしれない。月明かりの下、河原から少し昇ったところにある階段の上に一人で座り、透華は膝の上に乗せたお皿から食べ物をちょっとずつ口に移しつつ、バーベキューをするクラスメイトたちを感慨深そうに俯瞰していた。
絶好のチャンスではあった。
周りには誰もいないし、今まで訊けなかった「あのこと」について尋ねるには都合がいい。
ただ、なんて話しかければいいんだろうな。先ほどの映画の中の直夜のようにスマートに近づければいいのだが、あいにくそのようなポテンシャルは持ち合わせていない。台詞の候補は頭に浮かんでも、それを実践するとなると話は別だ。そもそも彼女と一対一で話したことないしな。
智文が両手に皿とコップを持ったまま、どう話を持ち出すべきかしばらく立ち尽くして考えていると、河原のほうに視線を向けていた透華がふとこちらに気づいてしまった。
刹那、硬直。
気まずい。お互いに相手に話しかけるというスキルに欠けているところがあり、見合ったまま数秒の時が流れる。こういうときに直夜ならいくらでも会話のきっかけを作るだろう。陽菜乃だってそうだ。ここに来たのがあの二人ならば透華も話しやすかったに違いない。
だけど、今ここに現れたのは智文だ。映画の物語を作った者として、智文はどうしても今彼女に訊いておきたいことがあった。
勇気を出して、最初の一声をかける。
「今日はお疲れ様」
なんてことはない、労りの台詞。もうちょっと気の利いたことが言えないのかと智文は自分に情けなくなるが、透華はうっすらと微笑んで「お疲れ様」と小さく会釈してくれた。
とりあえず、会話一往復はクリアした。
さて、ここからどう次に繋げるかと悩んでいたら、透華は気遣わしげに問うてきた。
「ここ、座る?」
「へっ?」
予想外の言葉に、智文は間抜けな声を上げてしまった。
だが、冷静になって彼女の視線を辿ると、智文の塞がった両手を見ていることに気づき、そこでようやく納得した。そりゃこの料理と飲み物を持って立ち尽くす姿を見れば、食べる場所に困ってるんだろうなってことくらい想像がつく。
けれど、お邪魔しちゃっていいのかな、と思いあぐねていると、透華は自らの皿と飲み物の入ったコップを持って腰を浮かし、智文が座れるように体をずらした。
「いいの?」
尋ねると、彼女はこくっと頷いた。
「それじゃ……」
智文は空いたスペースに丁寧に腰を下ろす。
思いがけず座ることができたので、ひとまず落ち着いて先に料理を一口食す。箸で挟んだのはたれ付きの牛肉。口に入れると、肉汁とたれの味が相まって濃厚な旨味が広がっていく。思わず「美味いな」と声に出してしまった。
「美味しいよね」
その声に透華が反応する。そういや、彼女が隣にいるんだっけな。料理の美味しさに気を取られて、つい独り言のように呟いてしまっていた。
智文は反省しつつ、食事を続けながらも会話のほうに意識を傾ける。
「望月さんは花火のシーン、演じてみてどうだった?」
透華はこちらを一瞥し、真剣な表情で数秒間考えた後、言葉を選ぶようにして答えた。
「牧瀬君はわたしが緊張しないように常に話しかけてくれたし、他のみんなも気を遣って優しくしてくれた。花火ってあんまりやったことなかったから持ち方とかもよくわかってなくてそんなことから教えてもらった。至らなくて申し訳ない気持ちもあったけど、わたしとしては本当に楽しい撮影だった」
「楽しかったなら良かった。それが一番だから」
素直な感想を言ってくれているようだった。涼し気な表情の中に混じった微笑みが何よりの証だ。バーベキューで盛り上がるクラスメイトたちのほうを見つめる瞳も優しい。
今なら訊けるのではないか、と直感的に思った。もちろん、今名前が出た直夜のことをどう思ってるのかとかそういったことも気にはなるのだが、智文が以前からずっと尋ねたかったことは別にあった。
その質問をするのは、正直言って怖い。
もしかしたら、自分のやってきたことがすべて否定されてしまう恐れもある。
あやふやなままにしてしまえば、そのほうが楽なのかもしれない。何でも訊けばいいってものじゃない。彼女にとっても、自分にとっても、本心を語らないことが結果的に良かったということもあるだろう。
それでも……。
智文は覚悟を決め、尋ねたかったその一言を口にする。
「映画の役、嫌じゃなかった?」
撮影が始まってから、ずっとそのことが気がかりだった。
クラスの出し物が映画制作に決まったとき、透華は幽霊っぽいからという理由でみんなからヒロインに推薦された。一応、陽菜乃が受け入れるかの確認はしたが、あの流れで断るというのはなかなか難しかっただろう。強制ではなかったかもしれないが、強引ではあった。
そして、脚本家となった智文は何も考えず、みんながふさわしいと考えた「幽霊役としての透華」のイメージをそのまま引っ張って来て物語を書いた。本当の彼女がどういう人間だとか、どういうことを好んでどういうことを嫌うとか、そんなの関係なしにただ「幽霊らしくあること」を第一に考慮して、彼女が演じる映画のキャラクターを作っていった。
それはやっていいことだったのだろうか?
もしかしたらそういう印象を持たれるのを、透華自身が嫌っていたかもしれないのに。
透華はすぐには答えなかった。長い髪を揺らして振り向くと、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくる。発言の真意を窺っているようだった。
もう少し説明がいるな。
智文は一度大きく深呼吸をしてから、自分が犯してしまったかもしれない過ちについて告白した。
「幽霊の役、本当はやりたくなかったんじゃないかって思ったんだ。みんなからそういうイメージを押しつけられて、俺もそのイメージに乗っかって脚本を書いちゃって望月さんの気持ちを考えなかった。もし嫌だったんだとしたらこの場で謝りたい。謝ってどうにかなるものでもないかもしれないけど、脚本を書いた身として責任も罪もあるから」
心臓の鼓動が速くなる。ドクンドクンと裁かれるときが迫っているように大きく脈を打つ。
透華はやはりすぐには答えをくれなかった。いや、実際時間にしたら大したことはなかったのかもしれない。けれど、刻まれる一秒一秒が、わずかな夜の沈黙が、途方もなく長く感じられた。
しばらく口を結んでいた透華は、やがて最初の一言を発した。
「嫌だったのかもしれない」
夜闇の中、囁くようなその声は空気を震わせて智文の耳に届いた。
――やっぱりそうだったか。すまないことをしてしまった。
智文は素直に謝罪しようと、透華のほうに体を向けた。
だが、それを制止するように透華はバッと手を前に出した。
「待って!」
声を上げた彼女に、智文は戸惑って動きを止める。
「もう少しだけ聞いて! ちゃんと話さないと、多分この話は伝わらない」
透華は懇願するように訴えかけてきた。呼吸が少し荒れている。彼女がこんなふうに感情的になるところを見たことはなかった。
何か重要なことを話そうとしてくれている。
狼狽えはしたが、智文は時間をおいてからはっきりと頷きを返した。
透華はいつものような凛とした佇まいに戻って静かに頭を下げると、秋の夜空にぼんやりと浮かんだ黄色い月を見上げながらゆっくりと語り始めた。
「配役が決まった日、あれはまだ夏休み前のことだったけど、クラスで映画制作をやるって決まって、わたしに幽霊の役が回ってきたとき、やりたくないって感情は間違いなくわたしの心の中にあったと思う。でも、断る勇気がなくて気がついたら引き受けていて、何やってるんだろうって自分に情けなくなった」
夏休み直前の熱気に包まれた教室の様子が蘇ってくる。
あの日、陽菜乃が突然文化祭の出し物を決めると言い出して、なんやかんやありながらも会議は盛り上がりつつ、智文たちのクラスは映画制作をすることに決まった。その後内容決めの話になって、そこで幽霊が出てくる恋愛ものがいいという案が浮上し、幽霊の役にピッタリだとして透華の名前が挙がって、みんなを代表して陽菜乃がオファーを出した。
あのときの透華の表情。
正直言ってよく思い出せない。窓際の席に座る智文から見て、廊下側最後方の席にいる透華はただでさえ遠い。さらに陽菜乃の申し出に答えたとき、透華は智文とは逆の廊下側のほうへ顔を背けてしまった。
だから、透華の表情はおそらく見えなかった。
それでも何というべきか、もしかしたらこれは後から付け加えられたイメージに過ぎないのかもしれないが、あのときの透華はやっぱり悲しい表情をしていたと思うのだ。
月の光を浴びる透華の横顔は、白くて儚い。
「わたし、キャラ付けみたいなものが昔から好きじゃなかった。簡単な言葉でその人のことを言い表せた気になって、しかもその表現がどんどん独り歩きして知らないところまで広まっていく。そういうのから離れたいってずっと思ってた」
そこまで語ると、透華はふと視線を下げた。
「……でも、結局そういう自分が一番、キャラクターに縛られてた」
智文は胸の辺りがズキズキと痛んだ。透華が述べた一連の台詞。それは「幽霊」というキャラクターに苦しめられた彼女の心の悲鳴なのではないか。
ならば、そのキャラクター性を助長してしまった自分は……。
後ろめたい気持ちになって智文は歯を食いしばる。だが、透華はそんな苦悩する智文に小さく首を振ると、真っ直ぐ前を向いた。
「わたしね、映画のヒロインを演じてみて気づいたことがあるの。人って実は何にでもなれるんだなってこと。もちろん、現実的に考えて不可能なものはあるし、届かない存在や叶わない夢もあると思う。でも、なりたいって思ったら人はその姿になれる。幽霊らしく生きることもできて、幽霊らしくなく生きることもできる。それらはすべて自分次第で変えられる」
透華の瞳は美しく輝いていた。そこには迷いも悲しみも憂いさえも内包されているのに、前向きな光で満ちている。彼女の全身から弱さを受け入れた強さみたいなものが溢れ出ていた。
その神秘的な姿に見惚れていると、透華はこちらを振り向き、月夜の中でひっそりと咲く華のような笑顔を浮かべた。
「だから、今は嫌じゃない。朝野君が生み出してくれたキャラクターとストーリーを楽しんで演じられる。それによってどんなふうに見られても、わたしはわたしだから」
すうっと肩の荷が下りた気がした。自分が自らの葛藤を打ち明けたのも、何とかして彼女から本音を訊き出そうとしたのも、すべては今の言葉を言ってほしかったからなのかもしれないと智文は理解した。
「ありがとう」
だからこそ、単純で複雑なこんな五文字がすんなりと出てくるのも、自然なことだった。
「わたしのほうこそ、ありがとう」
彼女はどんな気持ちでその言葉を言っているのだろうか。智文にそのすべてを把握することはできない。彼女にだって智文の本当の気持ちは理解できていないだろう。互いの想いは夜に吹く風のように気まぐれに舞っている。
けれど、少なくとも今この瞬間はクラスメイトとして、同じ映画の完成を目指す脚本家と役者として、二人は共通の舞台の上に立っている。
智文は皿の上に残っていた最後の肉の塊を口に含んだ。すっかり冷めてしまっていたが、味はそれほど落ちてはいない。よく噛んで味わってからその一片の肉をゆっくりと飲み込んだ。
河原のほうではバーベキューの後片付けが始まっていた。しまった、おかわりとかしとけば良かったな、という考えが一瞬頭をよぎったが、それ以上に満足の得られる会話をすることができたので後悔はなかった。
「そろそろ戻ろうか?」
智文はコップの中に残っていたお茶を飲み切って、隣に座る透華に声をかけた。彼女はこくりと頷いて階段から立ち上がる。智文もゴミの置き忘れがないことを確認して立ち上がった。
秋の夜の短い一幕が終わり、ざわめきが遠くのほうから聞こえてくる。
打ち上げはまだまだ終わらない。
雲の切れ間から顔を覗かせる眩い月は、もうしばらく智文たちを明るく照らしてくれるようだった。
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