13.その花の名前は(Ⅱ)

 二人の丁寧な挨拶に返事を返そうと、「わたしは」と言いかけて少女の動きはまた止まった。

 礼儀として、自己紹介を返すべきなのは分かっている。

 しかし彼女には、紹介するべき自己の記憶がまったくと言っていいほど抜け落ちているのだ。


「……あ、ごめんなさい。助けてくれてありがとう」


 不自然な間。

 エリアスの目が眼鏡の奥で細められ、そこになにがしかの事情があるものと推察した。

 ユーリにもそれはわかる。

 しかしこの少年には、人それぞれの事情を受け入れるだけの度量があった。

 気にした様子もなく、少女の礼を受け入れる。

 お互いに笑顔を交わすと、何か見慣れないものをユーリは見つけた。


「……あれ? 髪に何か付いていますよ」


「えっ?」


 ユーリのしなやかな手が、少女の白金しろがねの髪へと伸びる。

 耳の後ろ、豊かに流れる絹糸の如き髪に絡んでいたのは、同じように真っ白な愛らしい花びらだった。


「これは、アリアの花びらじゃないですか?」


「アリアの……花?」


 少女の疑問に、ユーリは白い花びらをエリアスに向ける。

 エリアスはうなずいて眼鏡の位置を指先で直し、生徒に説明する教師のような表情になった。


「アリアの花は、砂漠でもごく限られた場所にしか咲かない希少きしょうな花です。私が思い当たるのは、あのセレスティア城の跡地くらいですが、……いったい何故?」


 少女は砂漠の真ん中に倒れていた。

 セレスティア城の跡地とは、かなり距離が離れている。

 徒歩で行けないほどではないが、砂漠に慣れた体力自慢の男ならばいざしらず、少女が一人で歩いて来たとは、とても信じられない程度の距離ではあった。

 ユーリも頭の中に地図を描き、すぐエリアスと同じ疑問に直面した。


「……あなたは、どうしてこんな砂漠にお一人で?」


「それが……何も覚えていないの」


「えっ、何も?」


 思わず驚きの声を上げ、そして先程の不自然な間に思い至る。


「何もって……まさか、お名前も、ですか?」


「……ええ」


 バツが悪そうに首をかしげ、少女は苦笑する。

 ユーリはあまりに異常な少女の境遇に、心の底から同情した。


「それは……よほど大変なことがあったのでしょうね……」


 少女本人よりも落ち込んでいる様子のユーリを見て、エリアスは心の中で小さくため息をつく。

 こんな砂漠の真ん中で、少女が一人、倒れていたのだ。

 もちろんこのまま放っておく訳には行かないが、ともあれ不自然、言ってしまえば不審な人間だ。

 エリアスの理性的な脳は、彼女をどこか最寄りの街へ連れて行く以上の関わり合いを持つようなことは、得策ではないと告げていた。

 しかしユーリの表情は、エリアスの結論とは違うところに至ったと雄弁に語っている。

 エリアスは安心するように少女へと微笑みかけ、そして、年若いあるじへと向き直った。


「お名前が分からないと言うのは不便ですね。ユーリ様、ここはひとまずこの方に仮の名前をつけて差し上げたらいかがでしょう?」


「それもそうですね。えっと……」


 ユーリはアリアの花びらを耳に近づけ、目をつむって風の音に耳を傾ける。

 大地が、風が、太陽が、空が、水が。

 全ての精霊がその名をユーリに告げる。

 ほんの少しの沈黙の後、彼はにっこりと微笑んだ。


「分かりました! 『アリア』という名前でお呼びするのはどうでしょう?」


「……アリア」


 噛みしめるように、少女はその名を口にする。

 アリア。砂漠に咲く、真っ白な花の名前。

 その音の響きは、驚くほどしっくりと、少女の魂に馴染んだ。


「うん、そう呼んで」


 白金しろがねの花が咲き乱れるように、アリアの笑顔が花開く。

 その笑顔にエリアスと、そしてもちろんユーリも、笑顔になって立ち上がった。


「ではアリアさん。改めて、よろしくお願いします。僕達はこれから砂漠を超えて、エルンスト聖王国の王都に向かいます」


「エルンスト、聖王国?」


「この砂漠を超えた所にある国です。宜しければ、アリアさんも一緒に来られますか?」


 ぽんぽんと服についた砂を払い、ユーリはアリアへと手を差し出す。

 ここがどこなのか、自分が誰なのかも分からず、これからどうしたら良いのか途方に暮れていたアリアには、渡りに船の申し出だった。

 ユーリとエリアスは、倒れていた自分を助けてくれた優しい人だ。

 しかし、それ以上のことを二人に求めるのは、さすがに厚かましいのではないか、そうも思っていたのだ。


「え、いいの?」


「こんな危ない所に、あなたのような方を一人残していく訳にはいきません――」


「――何も覚えていないとなると、困ることも多いでしょう。王都に行けば何か思い出せるかもしれませんし、アリアさんのことを知っている人がいるかもしれません」


 ユーリとエリアスが、まるでお互いの考えていることが通じ合って居るように、蕩々とうとうとアリアをいざなう。

 二人が微笑み合い、その笑顔を向けられたアリアは、ほんの少しの逡巡しゅんじゅんのあと、そっとユーリの手に自分の手を重ねた。


「そうね……。ユーリ、エリアス、どうもありがとう!」


 ユーリに手を引かれ、アリアは立ち上がる。

 エリアスは人夫に出発を告げ、一人増えた砂漠の旅人たちは、ラクダに揺られ、一路エルンスト聖王国の王都へ向けて、オアシスをあとにした。

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