26.妖精と魔道士見習い

 一方その頃。

 小さな二つの影がグレンツェ川のほとりへと近づいてゆく。

 それはいくつもの丘を超え、目印となる巨岩へと向かう、レオニーとリリアンの姿だった。


「う~わぁ~!! おっきな川ぁ~!!」


 街道をそれ、大きな岩によじ登ったレオニーの頭上で、小さな妖精が感嘆の声を上げる。

 斜め掛けしたカバンを持ち直した少年は、切り立った岩にもたれた。

 息を弾ませながら顔を上げる。

 そこに広がっていたのは、川と呼ぶにはあまりにも広い、賢者の森では見ることのなかった景色。

 言葉を失ったレオニーは、師匠と別れてから初めての笑顔をかみしめ、小さく身震いをした。


「このグレンツェ川を超えれば、エルンストまではもうすぐだよ」


 片手を額にかざし、辺りを見回す。

 地図で何度も確認してはいたはずだが、想像以上に世界は広い。

 水と風の精霊が楽しげに踊る空の向こうを、少年は見渡した。


「確か、橋がこの辺りにあるはずなんだけど……」


「ねぇねぇ、レオニー、見て! 向こうでお魚がピョンピョン跳ねてるぅっ!!」


「リリアン、遊びに来た訳じゃないんだからね!」


 頭上をくるくると飛び回るリリアンを、レオニーはたしなめる。

 それでもリリアンは楽し気に輪を描き、魚の真似をしてぴょんぴょんと飛び回った。


「ここはティマイオス帝国の領土なんだから、帝国兵に見つかったら大変だよ」


 少し声を潜め、レオニーは辺りを見回す。

 ここに来るまでに、何度も帝国兵と出くわした。

 そのたびに道を迂回うかいし、時には戻って、何とかここまでやってきたのだ。

 もう少しで帝国領を抜けることができるという今になって、掴まってしまってはたまらない。

 さすがのリリアンも両手で口を押さえ、レオニーの目の前にふんわりと漂い、常に輝いている妖精の光も、心なしか暗くなったように見えた。

 ……しかし、それも一瞬。


「じゃあ、見つからないようにビューンって川を飛び越えちゃおう♪」


 暗くなった分を取り戻すように、きらきらと輝くリリアンは勢いよく宙を舞う。

 レオニーは額を押さえて、がっくりと肩を落とすしかなかった。


「はぁ……もう、僕には君みたいな羽は生えてないの!」


「そっか、あはははは~♪」


 リリアンはいつもと変わらぬ笑顔で飛び回り、レオニーもすぐに「しかたないなぁ」と、いつもの表情に戻る。

 お互いに意識しているわけではなかったが、こんな普段どおりのやり取りが、危険と隣り合わせの旅に擦り切れそうになる心を穏やかにしてくれていた。


 大きく息を吐き、肩の力を抜いて、レオニーはもう一度周囲を見回す。

 頭の中に思い浮かべた地図をたどり視線を上げると、そこには予想通り、石造りの広い橋がかかっているのが見えた。

 橋の続く先、対岸には小さな村が見える。

 思わず「やった!」と口にしたレオニーは、こちら側の岸に違和感を感じ、目を凝らした。


「……ちょっと待って……」


 みるみるうちに血の気が引いてゆく。

 数十人の小さな集団ではあったが、そこに居たのは紛れもない帝国兵の姿。

 しかも、賢者の森の外縁でときどき姿を見る、軽装の巡回兵ではない。

 輝くばかりの金属の鎧をまとった重歩兵と騎兵。つまりは帝国最強の名をほしいままにする、帝国騎士団の姿だった。


「あれ帝国兵だ!! 何で橋の前に陣取ってるんだよぉ……」


 慌てて岩の陰に身を潜めたレオニーの、言葉の後ろが消えそうになる。

 そうして見ている間にも、整列した騎士が次々と姿を現し、橋の前に整列していった。


「どうするの?」


 大した興味もなさそうに、リリアンが魚を見ながらそう尋ねる。

地図を思い浮かべ、迂回路を幾とおりもたどってみたレオニーだったが、やがてあきらめてかぶりを振った。


「川を渡らずに迂回してたら、何日もかかっちゃう。帝国兵が居なくなるまで待つしか――」


「――おい、お前! そこで何をしている!」


 突然の誰何すいかの声に、レオニーは振り返る。

 馬から降りた偵察の兵が、岩を上ってくるのが見えた。

 考える間もなく、少年は逆側の岩を駆け降りる。

 あまりの勢いに転びそうになりながら、なんとか地面に両足をついた。

 橋の方へは向かえない。

 今来た道には帝国兵がいる。

 川沿いに目的とは逆方向へ、レオニーは走った。


 背後にびぃぃっと空気を割く音が聞こえる。

 近くの仲間へ異変を知らせるための鏑矢かぶらやだろう。

 そう思う間もなく、別の帝国兵が行く手を阻んだ。

 身をかがめ、脇を駆け抜ける。

 うまく逃げたと思った瞬間、がくんと後ろに引き戻された。

 見上げれば、ローブの裾をつかんだ帝国兵が、にっと笑う。


「とりゃー!」


 刹那、掛け声とともに、リリアンが帝国兵のゆるんだ頬を蹴り飛ばす。

 痛みはほとんどないとはいえ、姿の見えない妖精の攻撃をまともに食らって、驚いた帝国兵は思わず手を離した。


「ありがとっ! リリアン」


「へっへー、どういたしまして♪」


 走りながら、二人は笑顔をかわす。

 騎馬では追いかけにくいであろう木立へ向けて、レオニーは走り続けた。

 息が苦しい。

 心臓はコウモリの羽ばたきのように騒々しく打ち鳴らされている。

 林までもう少し、あとちょっと。

 そう思った瞬間、リリアンの声が聞こえた。


「あっ!」

「えっ?!」


 答える間もなく、レオニーは顔に衝撃を感じ、地面に倒れた。

 帝国兵の金属の鎧が彼の行く先をふさいでいた。

 ぐわんぐわんと世界が揺れる。


「レオニー! レオニー! ……!」


 何度も名前を呼ぶリリアンの声と、ゆっくりと近づく帝国兵の姿が、やがて意識とともに暗闇へと吸い込まれていった。

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