35.天国と地獄

 遺跡を挟み、プリーシード一行と向かい合う形で帝国軍は陣を張っていた。

 レテ村内は帝国兵が定期的に巡回し、息苦しさを感じるほど緊張感に満ちた空気に包まれている。

 そんな陣中、一際目立つ煌びやかな装飾が施された天幕へ、一人の兵士が入って行った。


「ギルバート、ミカエラ様を知らないか? レテ村に着いてからお姿が見えないのだが……」


 兜で顔を覆い隠し、帝国の兵士になりすまして任務に同行していたキアラは、そこにいるはずの姿を探して、そば仕えをしているギルバートに声をかけた。

 くぐもった声に反応し、ギルバートは姿勢を正して彼女へと向き合う。


「ただいま殿下は、ザント様とお話をされております」


 その名を聞いてキアラは道中、目にした男を思い出した。

 一瞬の会遇であった為、男の容姿が鮮明に浮かぶ事はない。

 だが、冷ややかで無機質な瞳だけは強く印象に残っている。


「あの男は一体何なのだ? レテ村の人々に対して酷い扱いだ。ここは彼らの村だと言うのに」


 そして、何よりザントの言動にキアラは憤りを覚えていた。

 まるで村人を奴隷の様に扱い、支配者然として振舞うその姿は暴君そのものだ。


「ミカエラ殿下と共に軍を率いておられますが、その一方でザント様はアルゴン陛下の陰として暗躍している冷酷非道な男」


 武力と恐怖で人を支配するのが帝国のやり方、彼のやり方だという。目的を果たす為なら手段は選ばない。

 ギルバートは不快感を露わにした。

 彼の拳はガントレットが軋むほど固く握られ、村人に対するザントの態度にその胸中をキアラと同じくしている。


 だが今の帝国では、ザントの様な悪行が罷り通ってしまっているのもまた事実。

 そんな現状を変える事が出来ない自身の無力さに、ギルバートは何よりも怒りを抱いていた。


「帝国にはミカエラ様を慕う者も多い。反旗を翻すことは出来ないのか?」


 ギルバートの言葉を受け、キアラは純粋な疑問を投げかけた。

 民は悪政を敷き武力や恐怖で支配する君主より、ミカエラの様な慈愛に満ちた君主を望んでいるのではないか。

 当然と言えば、当然の反応。だがこれに、ギルバートは暗い面持ちを以って答えた。


「仰る通り、ミカエラ様の人望は厚い。しかし、そう簡単なものではないのです」


「何か理由が?」


 キアラは首を傾げ、言葉の真意を問う。


「ミカエラ様の妹君であらせられるクリスタ王女は、アルゴン陛下が人質として城の塔に幽閉しています」


「妹君が……?」


 思わぬ人物の登場に、キアラは言葉を零す。

 同時に頭を過ぎったその悪辣あくらつな計略に、思わず兜の下の顔が歪んだ。


「ミカエラ様が勝手なことをしないようにと。操り人形のように使うつもりなのですよ」


「なんて卑劣な……!」


 キアラは憤激に体を小刻みに震わせ、堪える様に小さく呟く。

 明確な敵意を持ったその言葉は、天幕内を飲み込み針の様にギルバートの肌を突き刺した。


「アルゴン陛下は先代の王が亡くなられた後、王位を継承した第一皇子を毒殺し、王座を奪い取りました。彼にとって、人は道具でしかありません」


 次々と語られるアルゴン帝の悪行に、キアラは形容しがたい怒りを覚える。

 普段はあまり感情的になることのない彼女の額に、青い筋が浮かび上がるほどだった。


「誰の命であろうと関係ないのです。それゆえ、帝国史上最も残虐な王の一人として、恐れられています」


 帝国は、千年前と何も変わっていないのか。人の愚かさを目の当たりにし、キアラは視線を反らした。


 憂悶。

 悔恨。

 憤怒。

 哀情。


 それらは心中で渦巻き、キアラを追い詰めていく。

 彼女の瞳は何処か遠くを見つめ、複雑な感情の激流に揺らめていた。


「アルゴン陛下とミカエラ様は、帝国の未来に正反対の理想を描いておられる」


「天国か、地獄か……とても同じ兄弟とは思えない」


 まるで合わせ鏡のようだ。二人は光と影ほど相容れぬ存在。

 深く開いた溝は、容易に埋められるようなものではないということをキアラも承知していた。


「お二人は異母兄弟なのです。アルゴン陛下の母君は、帝国の第一王妃。ミカエラ様とクリスタ様の母君はエルンスト聖王国のご出身で、大変美しく、聡明でお優しい方だったと聞いています」


「そうだったのか」


「エルンスト聖王国から王妃を迎えるのは異例のことでしたから、ミカエラ様とクリスタ様は、王族の中でも特別な存在だったのですよ」


 ギルバートはそう締め括り、帝国内でも大きく勢力が別れていることを明かした。

 針のむしろとも言える厳しい環境の中で、陽光の様な二人を育て上げた顔も知らない女性の気高さに、キアラは尊敬の念を抱かざるを得ない。

 このような状況を目の当たりにした彼女は、何を想い、どんな言葉を紡いだのだろう。

 

 自分は何を信じ、成せばよいのか……。明確な答えも、標もありはしない。

 だからこそ両眼で今の世界を確かめ、少しずつ定めていくしかないのだ。

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