0318 運命

 お母さんは決心していた。

 いつかその時が来るかも知れないと覚悟していたんだ。

 

 愛する我が子を守りたい。

 

 その決断が、保護を申し出ること。そのことだったのだ。

 

「仁科芽恋くんのお母さんは、我が子の保護を求めています。私たちの見解では、このまま虐待が続けば、命の危険もまぬがれない可能性を懸念しています」

 私は所内の全体ミーティングで、芽恋くんの保護承認を求めた。

「父親は大丈夫なんだろうか心配だな。抵抗しないか?」――山脇課長が質問した。確かに言う通りだった。

「その点は十分に考慮して対応します」

「潮さんは、どうお考えかしら」――町田所長は潮さんに意見を求めた。

「彼が将来的に、独立した生活を営む能力を身に付けられるかどうかは、幼児期の対策が大きく影響すると考えます。ましてや虐待などの環境下に置くべきでないことなど、論ずるに値しません」

 

「では、児童の保護に向けて全力で動きましょう」

 

「はい、ありがとうございます」

 ミーティングは一旦解散され、職員は退席する。ふと私は潮さんを見た。真っ直ぐ前を見ていた彼は、少し俯いて自分の両手を開き、てのひらをジッと見つめていた。そして目を閉じて……、その掌を自分の両頬にあてていた。

 何だか、その何でもないような仕草が、何か特別なことのように見えて、私は自分が不思議だった。

「ん?」

「あっ、何でもないです」

 目を開けて私を見たその彼の瞳は、どこかいつもと違って見えた。どこか純粋な、無垢な子どもみたいに感じた。

 

「さあ、行くのだよ」

 もう、いつもの彼だった。

「ええ、行きましょう」

 

 ここ数日の関東地方は、年末以来の冷え込みが続いていた。

 群青色の空からちらちらと落ちてきた雪が、空中であおられて舞っていた。

 私も彼も特に何も言わず、あの母が待つ場所へと向かっている。

 そしてエントランスホールから呼び出した部屋番号からは、特に応答なく自動ドアだけが開扉された。

「仁科さん……」――親子は部屋の玄関で私たちを待っていてくれた。

「待って、いました」

「本当にいいのですか」

「この子の、ため」

 芽恋くんは下を向いたままだった。よそ行きの洋服に暖かそうな防寒着には、ニット帽と手袋、可愛らしいリュックサックを背負っていた。

「芽恋くん。少しのあいだお母さんと離れて頑張れるかな?」

「…………」

 

「また、あんたたちかよ」――あの父親だった。

「鬱陶しい目障りなガキを引き取ってくれて清々するぜ。俺には全然似てないガキが、なつくどころか、俺と目も合わせやしない。ハーフどころかどっから見ても外人じゃねえかよ」

 

「だからといって、暴力が許されると本当に思っているんですか!」

 

 どうしよう……。また口に出してしまった。私らしくない、だからといって後には引けませんでした。でも……

「やめておけ」私は潮さんに止められました。

 

「さあ、メレン、行くんだよ」

 お母さんの言葉に、私はそっと芽恋くんに手を差し出した。

「おかあしゃんといるからいかない。おかあしゃんといるからいかない。おかあしゃんといるから」

「メレン、行かないの、ダメだな!」

 お母さんは芽恋くんの手を持って、私の手に掴ませた。

「ぼくいかない、ぼくいかない、ぼくいかない」

「メレン、行くの、ほら」

 

「やーーだ、おかあしゃん、やーーだ、おかあしゃんといるから、やーーだ、やーーだ」

 

「メレン! ダメだな! 行って!」お母さんは、泣きながら我が子を押し出した。

 

「やーーだ、おぎゃあしゃーーん、やああああああだ、おぎゃあしゃーーーーーん」

「メレンお願い、お母さん、すぐ、むかえにいくから」

 

 私の心臓を握り潰すほど、その声は私のこの身に刺さる思いだった。この子の本心は、ただ『お母さんといたい』。それだけだったんだ。

 

 

 

 

「オタクら、何者?」

 

 背後からのその声に、私はゾッとした。

 私たちの背後には、5人ほどの背広姿の男たちが立っていた。

「私たちは、日野児童相談所の職員です。あなた方は……」

「警察か?」潮さんが言った。

「ああ、そうだ。あんたら子どもに用か? まあ、ちょっとどいてくれ」

「なんで、アンタたち、なに?」

「はい、私ら警視庁日野署の刑事ね」

 

「仁科佐亜良さん、会社役員殺害の最重要参考人としてご同行いただけますか」

 

 私の全身を戦慄が走った。

 お母さんが……、殺人事件の最重要参考人だなんて。そんなこと……。

 

 彼女の目は、とても落ち着いていた。まるで、こうなることを予想わかっていたかのように。

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