0315 抵抗

 あの時のあの言葉は、そういう意味だったんだ……。

 

「少し調べる必要があるかも知れぬ」

「調べる?何をです?」

「ああ、まだよく分からんのだが……」

 

 あの時は、潮さんもきっと半信半疑だったんだ。

 

「自閉スペクトラム症って……」

「何と説明すれば良いだろうか……。自閉症のスペクトラム障害とも言うのだが、症状の特徴はまず他者とのコミュニケーションが苦手で、アイコンタクトのような目を合わせて考えや感情の共有をすることが困難だ。また行動や関心とか、動作のパターンが限定的で、反復や復唱が多くあり、習慣の変更に抵抗することも見られる」

「結構、当てはまるような気がしますね」――だからあの時、変身ヒーローのセリフが反復だったのか知りたかったのでしょうか……。

「いずれにしても診断は必要だ」

「治る病気、ですか?」

「あの子はまだ小さいから、小学校までにどれだけコミュニケーション言語能力を身に付けられるかで大きく違う。自閉スペクトラム症には、集中的行動変容療法がかなり効果を生む場合もあるのだよ」

「でも……。お母さん、また会って下さるでしょうか」

「厳しくる前に、まずやるべきことが山ほどある……」

 

 私たちにはそれから数日の間に、急を要する子どもの安全確認などの案件が、怒涛の勢いで押し寄せた。――弱音を吐くつもりはありませんが、私は身も心もヘトヘトでした。

 

 夜も更け、こんな時間にこの私のストレス解消に付き合ってくれるものは、モッフモフなあの子たちだけです。

「今日はあの、モフモフなチンアナゴの抱き枕をゲットしたい!」

 クレーンゲームは得意です。すべてはあのモフモフのために。

「失敗です」

「また失敗です」

「失敗、難易度高いです」

「失敗、掴み所がないんです」

「失敗、そもそも棒状ですよね」

「もしや……、そもそもこのアームとクレーンでチンアナゴ抱き枕ゲットは不可能では?」

 

 ブーブブッ。苛立つ私にLINEメッセージが来た。

 新着メッセージ[ウシオ]

 は?誰?交換してませんけど?

 

[潮です。至急、先日の高層タワーマンションまで。]

 なんで?友だち以外からのトーク受信ですけど……。

[栗原です。長内さん、よろしく!]

 まさかのグループトークでした……。栗原先輩……勝手に教えないで。

 

 チンアナゴは取れないし、潮さんには呼び出されるし、もう散々です。そして今晩のこの寒さには、さらに不満爆発です。これはきっと氷点下です。

 マスクに眼鏡の私の吐く息が、レンズを曇らせて街頭やネオンの灯りをぼやけさせていた。少し外したマスクの隙間から、目の前で真っ白にもやをつくって消えたスモークの跡に、私は待ち人を見付けた。

 

「もう、潮さん、勘弁してもらいたいです」

「寒いな」

「私寒さに弱いんですよ」

「気にならないことはないであろう」

「もちろん……。気になってました」

「今何時かな」

「22時半です。今から訪問なんて無理です」

「非常階段はどこかな」

「ちょっと、本当にマズいです。下町のボロアパートじゃないんですから」

「こんな厳重なセキュリティの非常階段で、非常時に逃げられると思って設計しているのだろうか」

「潮さん、柵を乗り越えないで下さい。もし不法侵入で通報されたら、もう児相は間違いなく袋叩きです」

 

「ジョウナイゲンソク、ジョウナイチュウイ、シュッパツシンコウ」

「ジョウナイゲンソク、ジョウナイチュウイ、シュッパツシンコウ」

 

「あっ! 芽恋くん!」

 私たちは、非常階段の薄灯りの中でその目を疑った。4歳の男の子がこの極寒の夜、マンションの非常階段にパジャマ姿でそこに居るのだ。

 潮さんは私よりも早く、自分のコートで芽恋くんを包み抱きかかえた。

「自宅は何階だった?」

「3階です」

「下まで階段を下りて来たのか?」

 ――もしかすると、芽恋くんはこのは初めてじゃないのかも知れない。この子なりに助けを求められる方法を、言葉に表せずとも試したのかも知れないと思うと、徐々に怒りが込み上げてきた。

「潮さん、このまま3階まで上りましょう」

 

 明らかな虐待を、だと言う親の多くは、自分も幼少時代に暴力を受けてられたと思っている人たちだ。そのような親の説得には、経験や専門性、そして長い時間を要する。

 

 私は、このことが途轍とてつもなく困難だということを、今まで痛いほど知らされてきた。

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