0316 闇夜

 私たちは、非常階段からそのまま3階に上った。潮さんはコートにくるんだ芽恋くんを抱きかかえたまま階段をズンズン上って行く。

 

「潮さん、芽恋くん大丈夫でしょうか……」

「震えているから大丈夫だ」

「それ、どういうことですか」

「はぁぁぁぁ……。人間の震え。シバリングという現象は、その震えによって熱を産生させる生理的反応だ。体が無意識に熱を生ませようとしている。そして低体温症が重度になればシバリングもしなくなる。つまり大丈夫だ」

「すみません……」

 

 非常階段から中に入る3階のドアは、施錠されず開けられたままだった。

 私は潮さんの先を小走りに、すぐさま仁科さん宅の玄関チャイムを鳴らした。

 ドドッ、ガチャン!

 モニターの応答もなく唐突に開けられたドアの向こうからは、父親が驚いた表情で飛び出してきた。

 

「お~い、メレン、急に居なくなったからお父さん心配したんだぞ~。パジャマのままどこ行ってしまってたんだ~?」

「お父さん、芽恋くんはこの氷点下の寒夜かんやに、マンションの非常階段にひとりで居たんです」

「いや~、ありがとうございます。あなたたちのおかげで助かりました~。先日はやぶからぼうに、こっちが怒鳴って申し訳なかったねぇ~」

「本当に、芽恋くんがひとりで家から抜け出して非常階段に行ったというのですか?」

「だって仕方ないじゃないか~、この子は前からなんだから~」

「そういう子、って……。そんな……」

 私は何も言えなくなってしまった。

 

「あなたは今この部屋の中で何をしていたんだ?」

 

 私は黙って彼を見た。そして彼に代わってコートに包まれた芽恋くんをこの腕に抱いた。

 

の、息子が見えなくなった事に気が付いていながら、外に探しにも行かず暖かい部屋の中で酒を飲んでたんじゃないのか? 呼び鈴のモニターに僕たちが見えて慌てたのではないか? そもそも非常階段のドアノブは通常プラスチックケースが接着されていて非常時以外で、ましてや幼児にそれを取り外すのは無理だ。つまり息子さんが一人で勝手に非常階段に出て行ったのではなく、両親のどちらかが強制的に子どもを外に放り出したのだよ。これは間違いなく児童虐待だ」

 

「お前、マジでいい加減にしとけよ、コラ」

 ――これが、この父親の正体だった。

 

「メレン、寒かったね、中に入ろうね」

 ――芽恋くんのお母さんはきっとこの父親に逆らえないでいる……。

「お母さん、芽恋くんは……、もしかすると……」

「これ以上、ウチに、かかわらないで、いいです」

 扉が閉まってしまう、このままじゃ……。

 

「お母さん、芽恋くんは、もしかすると発達障害の病気かも知れないんです! 今すぐに詳しい検査が必要かも知れないんです! また相談に来てください!」

 

 扉は閉じられてしまった。私の腕の中から芽恋くんは抜き取られ、潮さんのコートだけが残っていた。

 

 ゆる月の光が、真冬の闇を鋭く凍てつかせている。私の腕に微かに残るあの子の感触が絶えずそれに奪われてゆくようで、私はこの両腕を胸に抱きしめた。

 私たちは一体何のために存在しているのだろう。その存在意義は、本当に現実に生きているのだろうか。

「芽恋くんは、きっと自分で自分の気持ちを言葉に表現できないんです」

「ああ、そうだ」

 

 私たちは無力すぎる。

 

「助けを求めたくても、お母さんにさえ言えないでいるはずなんです」

「うん」

 

 目の前に差し出された手を、自ら掴むことの許されないその手が、目の前に差し伸べられることのない手に掴み抱えられ、真冬の闇に消えていった。

 

「悔しいんです」

「うん」

「た、助げを、求べるその手に…、わだしは、救済の手を差し伸べだれないこどが…」

 

 自分の無力さに涙が止まらないでいた。

 

 潮さんは、何も言わず横にいてくれた。

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