0317 葛藤

 児童相談所の判断や、一時保護の決定に不服や不満を持つ親は、ときに私たち児童福祉に関わる存在に敵対心をあらわにすることも少なくない。

 あの父親は、とりわけその手のタイプだ。

 芽恋くんの全身の傷……。おそらく父親は怪我を着衣から見えない部分に、意図的に留めている気がする……。しかも、虐待を隠そうとしていて、それ自体を正当化しようともしている。

 

『そして何よりも、子どもからの言葉を得られないこと』――言葉を話せない乳幼児の場合も同様だが、本来は当人の気持ちを優先させるべき。このことが虐待への児相の対応の方向性を大きく左右する。でも芽恋くんは……。

 

 芽恋くんを道理に沿って保護する手立てなんて。

 私は芽恋くんの気持ちが知りたい。彼と話したい。何が好きか、何が欲しいか、何が楽しいか……。悲しいことはないか……。

 あんなに真ん丸で大きいつぶらな瞳で、ハーフの男の子って感じの愛らしい子。

『なぜあなたがあんな傷を負わなければならないの? あなたには何の罪もないのではないの? なぜ私の手を離したの?』

 ――そんな気持ちにさえさせる。

 

 鏡の前の私は、ポップコーンのようにポンポンに腫れた自分の目を、もう見えなくなっていいように、眼鏡を外して薄らぼやけた世界の底にそのまま落ち込んだ。

 あの寒さにかじかんでいたこの手が、帰って温められてから腫れているように感じる。

 

「ネモフ」

「もふ?」

「おはなしして」

「ネモフのおはなし……。念仏ねんぶつ天狗てんぐ。むかしむかし、おやべという所の峰村みねむらっていう小さな村には、それは大きな一本の杉の木があって、その杉には天狗が住んでおりました…………」

 

「次の国会でまた児童福祉法改正案が提出されるそうだ」

「改正案って?」

「子どもの体に傷がある場合で、怪我の原因に明白な理由がなく保護者が説明できない場合は、無条件で児童相談所が保護できる強行性を得る」

「えっ!じゃあ、芽恋くんの場合も……」

「そうなるだろうな」

「よかった……」

 

 ――私の睡眠はトンガ海溝よりも深いんです。さらに北枕だから熟睡以上の睡眠を得られているんです。そんな私がこんな夢をみるなんて……。しかも非現実的かつ不本意すぎる登場人物。

 休日なのに朝から最悪です。

 あっ……。

「買ったばかりの小説、ロッカーに忘れてきちゃった」

 私は仕方なく、この柔肌やわはだ寒気かんきに刺されながら、いつもの通勤ルートをトボトボと職場へ向かった。土日の児相は、緊急時を除いて、職員が交代で受付業務のみを行っている。

 

 児相の目の前にある横断歩道には、宅配業者のトラックが吐き上げた排気ガスを、乾燥した冬の木枯らしが一気に散乱させて、そこらじゅうに臭気を漂わせていた。

 不快な鬱陶しさに目を細めた私が、ゆっくりと開けたまぶたの視界の先には、一見、子持ちには見えない青い瞳の美人女性が立っていた。

「仁科さん……」

「長内サン、ごめんなさい」

「お一人ですか?どうして……」

「メレンは、少しの間だけ、お友だちのおウチに、います」

「そうなんですね」

「このあいだ、着替えに借りた服、返しに」

「ああ、わざわざ…ありがとうございます」

「昨日は、夜、スミマセンでした」

「あの、お母さん……」

「メレンは、病気なの、知ってます」

「えっ…」

「でも、あの人と、別れて、生活できない、お金ないから」

「そ、そんな」

「メレン、いつも毎日、あの人に、たたかれてる」

「やっぱり」

「私、お母さんなのに、たすけてやれない、ダメだな。メレンきっと、私を嫌いです……」

 

 

「メレンを、保護して、ください」

 

 

 その青い瞳から、ひとしずくの涙がこぼれていた。

 愛する存在を守るために、ただ愛し続けるためだけに、その腕の中から手放さなくてはならない母の愛を、いつかあの子は、そのことを知る時が来るのだろうか。あの父は、そのことに気が付く時が来るのだろうか。

 母は真冬の空を見上げていた。これ以上、涙がこぼれ落ちないように。この空に我が子の姿を思い浮かべて、やがて耐えられずに漏れ出た嗚咽おえつが、白いもやになった。

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