0444 死士

「僕は、君のデスクにこの著書があった事を今頃になって知ったのだよ」

 

「君はどのような考えを持って、この著書に書かれた人物を読み解いたのだろうか」

 

 

 

 

 ペロフスカヤ・ソフィアリヴィナ(1853-1881)

 ロシア革命、社会活動家、革命組織「ナロドナヤヴォルヤ」の実行委員会のメンバー、ロシア史上初めて政治問題で処刑された女性。

 

 19世紀、ロシアの近代化、民主化は遅れていた。ロシアには農奴制があったのだ。その実態はひどく、地主は生殺与奪の権を握り、アメリカの黒人奴隷と優劣を付けられないほどであった。皇帝アレクサンドル2世によって農奴解放が実施されたが、それは地主が資産家に代わったに過ぎなかった。

 ドストエフスキーが『罪と罰』を世に発表したのち、その高い文学性と影響力ははるか先のロシア革命を準備した思想の元になる。

 そしてナロードニキ運動が徐々に盛り上がり、数々の革命組織が生まれた。ソフィア・ペロフスカヤが所属した『人民の意志』派のアジトは、ドストエフスキーの住まいとは隣室だったそうだ。

 当時の彼女を思い出した同志たちは、ペロフスカヤを『金髪の三つ編みと明るい灰色の目をした若い女の子だ』と述べた。

 そんな彼女のことを、トルストイは「イデオロギーのジャンヌ・ダルク」と呼んだほどだった。彼の『戦争と平和』もドストエフスキーと連載時期を同じくしている。

 彼女の目的は、小作農による君主制の打倒が社会主義の実現だと信じ、そのために皇帝アレクサンドル2世を消し去ることだった。その目的は果たされるが、彼女は処刑される運命になる。

 

 そう、彼女はテロリストだったからだ。

 

 彼女は死の前に母親に手紙を書いている。

「私は自分の信念が私に言ったように生きましたが、私は彼らに対して行動することができませんでした。そのため、明確な良心をもって、私に来るすべてのものを期待しています……常に高い愛。 あなたを心配することは常に私の最大の悲しみでした。 心から落ち着いて、私があなたに引き起こした悲しみの少なくとも一部を許し、私をあまり叱らないことを願っています。 あなたの非難は私にとって唯一の痛みです」

 

 この女性革命家は、自らの死を以ってしてまでその意志を貫いた。君はこの人をどう見ていたのだろう。どう解いたのだろう。

 

 

 

 

「君はテロリストでもなければ、君の意志はそんな事で命を落とす事ではなかった筈だ。違うのか……長内」

 

 

 

 

 僕は、君と話したあの時の会話を思い出していた。

 

「私は、いじめをなくしたい。それだけなのに……」

 

「今の日本の教育制度では、それは非常に困難だと言っているだけだ」

 

「じゃあ無理だから諦めろと言ってるのと同じです」

 

「人民の意志が働けばきっと、難攻不落の城も砂上の楼閣に変えられる……僕はそう思っている」

 

「分かりません。潮さんのその言葉には感じられません。私は、私を突き動かす知恵をあなたから与えてもらいたい」

 

 

 

 

「僕は、今になって君の言わんとする言葉の意味が理解できたのかも知れない」


「あの著書の女性革命家は、そんな君の自らを突き動かすみずをなしたのだろうか」


「君はその臆病な足が一歩前へ出るように、僕ので背中を押して欲しかったのか」

 

「もしも僕がもう少し君の言葉に耳を傾けてさえすれば、あんな無茶は立ち止まらせていただろうな」

 

「長内……。僕が悪かった……」

 

 僕は自分の掌をジッと見つめて思いを巡らせる。そして目をつむり、その両手を自分の両頬にあてる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「潮さん?ひとりごと言ってるんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が目を開け、僕に話しかけた。

 

 実にあれから3日振りだった。

 

 集中治療室内の僕は、すぐさま医者を呼ぶ。

 

 長内は、3日前の事件から意識不明のまま昏睡状態が続いていた。

 彼女の両親も、現場で一緒だった池浪さんも、あれから60時間以上も不眠で彼女のそばにいた。

 今、休んでいるかは問わず彼女が目を覚ました事を連絡することにする。

 児相にも。そう、赤心の家にも連絡せねばな。あの子も自分を責めていた。

 

 彼女の事を想う誰もが、彼女の意識が戻ることを祈っていた。

 死なないでくれ。

 戻ってきてくれ。

 こんなことで死士ししになど、ならないでくれ。

 もう一度、僕に手伝わせてくれ。

 

 本当に生きててくれて良かった。

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