0311 神明

「まったくもって、奇々怪々ききかいかい

 

 ――潮さんの表情が一変した。

 

「お前はこの男児の目の前で人殺しを見せるつもりか!!この非人ひにんが!!」

 

 その潮さんの言葉に、母親はその場に泣き崩れた。潮さんは床に置かれた包丁を奪い、私はチェーンロックの鍵を母親から取り上げた。

 クローゼットの中には手足を縛られ、目隠しをされ、口にガムテープを貼られた小学校高学年ほどの男の子が横たわっていた。

「もう大丈夫よ」

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

「ああああ、もういいの、もういいから」

 泣きながら謝るその言葉に、私は耐えられなくて男の子を抱きしめた。縛られた痕は擦り切れ、ただれて化膿していた。

 

 2回目の市立病院だった。

「潮さん……、もう嫌ですか?質問」

「別に構わん」

「クロ―ゼットって、まさか」

「お隣のお宅のご夫婦と昨晩、偶然にも仲良くなってな。泊まらせていただいた2階の部屋の正面がまた偶然にもお隣のクローゼットの部屋でな」

「すごい偶然ですね。のぞきも犯罪です」

「知っている。彼は、深夜に布団たたきで何度も何度もぶたれ、その夜ろくに食事も与えられず閉じ込められていた」

「何時間ほど見ていたんですか?」

「たった8時間だ」

 ――行き先の近道を知っているわけが理解できた。

 

 私の無意識に眺める病院内を、移動ベッドがキャスターを鳴らしながら通り抜けた。放送アナウンス、電話の音、患者さんたちの声、遠くのテレビの音声、この日常の中にあって、私たちの経験は非日常だった。

 

「持田さん宅の玲於奈ちゃんは、離婚した若い父親との二人暮らしでした。日常的にコンビニの傷みかけた弁当類を食べさせられて、腹下はらくだしを繰り返していたために栄養失調になりかけていました。現在は入院中、退院後は一時保護と父親への指導が望ましいと考えます」

 ――「一軒家にお住まいの庄司さん宅の、奥村おくむら壮太そうたくん小学5年生は、母親が離婚後、最近になって同棲するようになった、奥村さんという男性の連れ子だそうです。真輔くん4歳は母親の実子なので、壮太くんは真輔くんともその母親とも血縁にありません。父親は壮太くんを邪魔者扱いし、クローゼットに閉じ込め、その内側には防音シートが施されていました。毎晩のように悪い子どもだと暴力を振るっていたようです。ご近所からの通告にあった、泣き声が聞こえるというものが、クローゼットの外での暴力の最中と推測されます。壮太くんは骨折などもあり重傷のため入院期間は長期、父親は暴行罪の疑いで警察に聴取を受けています」

 ――児相に戻った私たちは、緊急ミーティングで2件の保護案件を報告した。

「持田さんの父親は、育児指導や家庭の支援に応じそうですか?」我が『子ども福祉支援課』の課長、山脇やまわき課長から質問があった。

「父親はそのような心持ちはあるようでしたので、支援しながらの生活改善指導も必要と思われます」

「そうですか。奥村壮太くんの父親が起訴された場合、血縁のない母親は壮太くんだけを引き取らないでしょうね」

「あの母親は初め私たちに、子どもはひとりだと堂々と言ってきました。その点については、今後の慎重な検討が重要になりそうです」

「わかりました。ふたりとも、ありがとう」町田所長はニッコリしてそう言ってくださった。

 

 ――今日は、潮さんに質問してばかりだった。

「潮さん、庄司さん宅のお隣にお邪魔したのは昨日の何時ごろで?」

「19時頃では?」

「そして持田さんの父親がコンビニの深夜勤務から帰宅したのが?」

「5時だ」

「ほぼ寝て……ないんですね」

「僕は脳を活動させながら睡眠もできるからな」

「それ起きてますよね」

 

 ――窓の外はまた少し寒そうな様子だった。針葉樹のコニファーがトンネル型にきれいに刈られた生垣に、風が強く吹き当たる様が変わった動きになっている。

 

「私、包丁に……。びっくりして」

「ああ……。神明しんめいに救われた」

「潮さんの言葉、男の子にそんなものを見せてはならないって……。もっともでした」

「だって、あの母親が殺人未遂もしくは殺人罪で逮捕されたら、あの男児はどうなる。あの子までひとりになってしまうんだ」

 

 ――つまり、潮さんの言いたかったのは、そういうことだったのです。

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