0310 逆転

 この人はいつも甘いものを食べている。

 しかも!今日は特に私の大好きな、バウムクーヘン!悔しい!

「どこのですか」

「やらぬぞ」

「質問しただけです」

「治一郎のバウムクーヘンだ」

 

 ムッキイイイ!悔しい!食べたい!

 

「糖分の摂り過ぎですよね」

「だからすべて脳エネルギーに消費されるのだというのに」

「お買い求めはどちらですか」

「これは報酬だ。貰い物だ」

 

 ますます悔しいです。

 

「ああ、そうだ、今日もくぞ、昨日さくじつの2軒だ」

「えっ?何故ですか?リベンジですか?」

「まあ、そんなところだ」

「また、怒鳴り返されなきゃいいのですが……」

「案ずるな、泥船だ」

「それ駄目ですから」

 

 この人はいつも私の先を歩く。今度は目的地を知っているから別に構いませんが……。

「こっちが近道だ」

「近道?」

 真冬の青空は綺麗に見える。空気が澄んでいるからだっけ。

 飛行機雲がくっきりと青いキャンバスに曲線を描いていた。

「雨が降るかもな」

「は?」

 

 モスグリーンのアパートには鉄製の分厚い扉が印象的だ。

 ピンポーン、ピンポーン。

「…………」

「応答、ありませんね」

「のぞき穴から見えない位置に立て」

「命令しないでください」

「…………」

 ガチャッ

「持田さんおはようございます」

「ごうらあぁ~ま~た~おめえらかあぁ~」――若い父親はドスのきいた声でこちらを睨みつけた。

「お父さん、玲於奈れおなちゃんはお元気ですか?もしも子育てで助けなど必要でしたら何なりとご相談くださいね」私は穏やかな口調で本音を引き出したかった。

「助けなんぞ、いらんのじゃ。玲於奈は元気じゃて」

 

「腐った物を食べさせて、元気なわけがないのだよ」

 

「なんじゃとおおお?」

「ちょっと潮さん!」――また同じ過ちを!

「どこにそんな証拠があるんじゃ!」

「コンビニハンバーグ弁当、消費期限10日前。コンビニ総菜サラダ、消費期限13日前。コンビニ揚げ物総菜、消費期限9日前。コンビニサンドイッチ、消費期限11日前。あなたが食べたのですか?玲於奈さんはいつもお腹をこわしていて、3歳になっても幼児用おまるを使用しているのでは?どうなんだ」

「…………」

「ちょっと!失礼してよろしいですね!」私は室内に飛び込んだ。そこは情報の通り、糞尿のニオイがした。

「玲於奈ちゃん?」

 奥の部屋には3歳の玲於奈ちゃんが汚れた布団の上に座っていた。暖房もない寒い部屋に薄着で、汚れた紙オムツはいつから着けているのかさえ分からなかった。部屋の隅にある幼児用おまるも汚れたままだった。

「お父さん、玲於奈ちゃんは一旦病院へお連れしますね、よろしいですね!」

「か、勝手にしちょくれ」

 玲於奈ちゃんは診察の結果、急性胃腸炎になっていた。食中毒だ。

 

 私は市立病院の待合室で、潮さんに質問した。

「潮さん、消費期限って」

「ああ、可燃ゴミをな。調べさせてもらった」

「それは違法なんですよ」

「知っている……」

「ありがとうございます」

「あの父親はコンビニ店員だ。消費期限切れの売れ残りを持ち帰っている。そして深夜勤務明けにゴミを出していた」

「えっ?!何でそんなことまで?」

「それに普通、糞尿はトイレに流すだろう。ゴミには出さないだろう。なぜゴミに出る?」

「おまる……」

「さあ、次だ」

 

 さっきから怪しくなってきた空模様は、小雨らしき冷雨れいうに変わりつつある。私は折り畳み傘を用意する。

「飛行機雲は雨を誘うのだよ」

「そうなんですね」

 

 リンゴ~ン、リンゴ~ン。

「あの男の子……いないのかな」ほどなくして一軒家の庄司さん宅のドアは開いた。

 ガチャ。

「こんにちは」

「やあ、また会ったね。お母さんはいるかな」

「いないよ」

「坊や一人かな」

「そうだよ」

「坊やは、お母さんに怒られることはあるかい?」

「ないよ」

「坊やは泣いたりしないのか?」

「しないよ」

「あの、潮さん?」

「ん?誰かの鳴き声が聞こえるぞ……。いたい、いたい、と泣いている。どこから聞こえるんだ?」

「聞こえるわけないよ!だって音は……」

「えっ?坊や今なんて?」

「あっ……」

 

「またあなたたち?」

 

「ああ、お母さん。2階のクローゼットから鳴き声がすると、今しがた坊やから教わったのですが」

「真輔!アンタ!」

「僕言ってないもん!」

「お母様、お邪魔してよろしいですね」

 ――潮さんは、何故そこまで家庭内の実態に迫ることができたんでしょうか?!

「その右の部屋だ」

 2階のクローゼットの部屋は、潮さんの指し示した場所に確かに存在した。ただ、そのクローゼットは自転車用の施錠チェーンで開けられなくされていた。

「お母さん、鍵をいただきたいのだが」

「!!!」

 

 ――その人は、2階の部屋の手前で、両手に持った包丁の剣先をこちらに向け構えていた。

「潮さん!!」

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