0435 呼号

「ぴゅぃいいいひゅん」

 

 少しだけ開けた出入口のドアの隙間から屋内へ、笹笛ささぶえを吹いたような風音かざねが射し込んだ。

 その春風に、一旦ドアは私の方へ押し戻されてしまった。

 

「生意気ですね」

 思わず声に出てしまいました。

 

「まさかドアが?」

 潮さんに質問されてしまった。

 

「何でもありません」

 そう言って私は勢いよく開扉させた。

 

 そこはまるで子どもの頃に、自転車で短いトンネルをくぐり出た瞬間の景色のように、突風がまたたに別世界の温度になって、真っ直ぐな私の前髪を跳ね上げた。

 

「わあっ」私は眼鏡を直すていで前髪も直す。

 

「植物の芽ばえが鼻腔をとらかすようだ」

 

「それは良かったですね」

 

 今の私は鼻で呼吸したくありません。『植物の芽ばえ』なんかより、ナノ単位で鼻腔への原子の付着をレジストするにはどうすれば良いか、この人は何でも知ってそうな顔をして、私の求める知識は、花粉防御法ですのに……。

 

「口で呼吸できる動物は人間だけなのだよ」

 

「ホントそれどうでもいいです」

 

 私たちは週に数回だけ、佐渡開くんに会いに児童養護施設を訪れている。

 施設の向かえの田んぼには、まだ先の田植えの準備だろうか、用水から水を引いているところだった。カチンコチンにひび割れた地面の土が、いっぱいの水を得て喜んでいるように見えた。バサリと田んぼの水面をさらうように吹く、ひとかたまりの風が水面に冷やされてヒヤリとする。

 

「これは大阪城の大手門のようだ」

 

「それはちょっと言い過ぎでは……」

 

 確かに大きなその門の左の柱には、木彫に毛筆墨文字で『赤心せきしんいえ』と記されていた。(剛編参照)

 私たちは程よくそろそろ訪問し慣れた施設へ挨拶しつつお邪魔する。

 

「いつもありがとうね」

 ――開くんの担当ケアワーカーの柿本かきもとさんは、サザエさんのようなチャキチャキの明るさと印象的なヘアスタイルが特徴の児童指導員さんです。

「こちらこそです。――開くんの様子いかがですか?」

「少しずつ落ち着いて過ごせるようになってきましたよ。少し前は、夜中に癇癪かんしゃくの時も、昼間にお母さんを探しに行きたいと言った時も、見るに忍びなかった。でも今は、彼にとって健康で大きくなることが一番だと自分の中で理解し始めてるのだと思います」

「そう、なんですね。よかった……」

 私は、奥の集会室にみんなと一緒にいる開くんを遠くから見ていた。時折、楽し気な声が聞こえた。

 

「児相の長内さんと潮さん、だよね」

 

「あっ、こんにちは。お邪魔しております」

 ――施設長の岸部きしべさんだった。岸部施設長は、とてもダンディで細身の士君子しくんし様らしさがあった。

 

「あの子は強い子だよ」

「ええ、そう思います」

 

 岸部施設長は噛み締めるように話し始めた。

 

「何が正しかったのだろうか」

「えっ?」

「開くんのお母さんは……どうすべきだったのだろうか。襲われる小学生たちを見殺しにできれば、命を落とさずに愛する我が子を守ることができただろう」

「はい……。そうであっても誰も彼女を責められません。ただもう彼女の気持ちを知ることは誰にもできない」

「うん……。もしかすると開くんのお母さんは、その時、目の前の小学生たちに我が子を重ね合わせたのかな……。自分の命を持ってしてまで、刃物を持った男に立ち向かった彼女の意志はきっとそこにあったのだと僕は信じてやまないんだ」

 

 きっと私はいつの日か、愛する我が子にそのことが伝わる時が来ることを願い続けるでしょう。

 

「この間ね、あるお医者さんが施設に来てくれてね」

「お医者さんが?」

 岸部さんはこう話してくれた。

 開くんのお母さんは被害の直後、そこに偶然居合わせた医師から救命処置を受けたそうだった。先日この施設に、開くんに会いに来られたお医者さんは、その方だったのだと言った。

 そして医師はこう言ったのだという。

 

 彼女は息を引き取る間際まで、開ちゃん、開ちゃんといつまでも息子の名前を呼び続けていたのだと……。

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