0440 正義

 翌日になって、私は耀ちゃんにお願いして、森兔方輔君のお父さんのご連絡先を調べてもらった。そして、お仕事の後ならとお会いしていただける事になった。耀ちゃんは『私は行けないけどお願い』と言ってくれた。

 遺族にとっては無関係の、ただの児童福祉司が、何のためにこんな事をするのかとで見られるかと心配だったが、お父さんは快くお話ししてくれた。

 

 お勤め先のタクシー会社は、乗車待合場所が喫茶室のような所だった。私が挨拶すると、お父さんは少しニコリとして案内してくださった。

 

「まだ私の心は現実と非現実の間でうろちょろしてます。家に帰ったら兔方輔が飯作って待ってるんじゃないかと錯覚するんですよ」

 

 お父さんは、兔方輔君の出産で奥様を亡くされてから、男手一つで兔方輔君を育てた人だった。兔方輔君はいつも家の事をやってくれる孝行息子だったという。お父さんは、兔方輔君が小さかった時の事や、中学生までになった彼の事をしみじみ語ってくれた。そして……。

 

「嫁にも先立たれて、息子も奪わでてしばった……。ご、ごんな事が現実だのかと……私は信じだく、ないんでずよ」

 

 お父さんは歯を食いしばり涙をこらえていた。そして私にこう言った。

 

「兔方輔に困った人は助けろなどと、言わなければ良かったんでしょうか。だってアイツが死んじまったら、アイツは誰が助けてくれるんですか」

 

「ええ、そうですね」

 

 

 

 

「正義なんていらないんじゃないですかね」

 

 

 

 

 まともに胸に槍を突き立てられた感覚だった。まるで堕天使だてんしがその槍で、私の胸を何度も何度も突くような言葉だった。

 

『正義なんていらない』

 

 そう言えるお父さんのその言葉は、間違ってなどなかった。愛する人を亡くしてまで正義が優先される世界など無いはずなのだから……。

 

「助かった小学生の子が教えてくれたんです。お兄ちゃんが犯人から自分をどかして助けてくれたって。犯人が大人の女の人を襲った時、お兄ちゃんが犯人を突き飛ばしたんだって。アイツ戦ったんですよね、たぶん女の人が自分の母親と重なったんかな……」

 

 私は喉が詰まったように何も言えなくなってしまった。佐渡美佐子さんは、兔方輔君を産んだお母さんが生きていたら同じくらいの年齢だった。

 

「兔方輔は、たぶん小川ちゃんのことが好きだったんだな。いつも小川ちゃんの話を俺にしてた。いつも寂しそうな小川ちゃんが自分と重なるんだって……」

 

 私は今ここで、兔方輔君本人と実際に喋ってる錯角を覚えた……。私の目の前に話した事もない彼が現れた。短い髪に色黒の肌、細身の彼は白い歯を見せて笑いながら私にこう言った。

 

「オレには親がいるけど、アイツには家族がいないから、オレが奈菜実の家族になってやって、いつもアイツを笑わせてやりたいんだ。だから誰にもアイツをいじめさせない」

 

 泣いてもないのに私の目からひとしずく涙が流れた。なぜ罪もない誰かの愛する人が、訳も分からない狂者の凶行に晒され、あっけなくその人から奪いさらわれなくてはならないのでしょうか。そう思うと、得体の知れない真っ黒い奸譎かんきつが私の中に渦巻き出した。

 

「兔方輔が小川ちゃんからもらった七宝焼きね、カバンに付けてスゲー大事にしてて、しょっちゅう眺めてたんですよ。あの朝もカバンに付けて出てった……。でもあれは、やっぱりあの子に持ってて欲しくて葬式で渡したら、あの子大泣きしちゃって、棺のアイツにうったえ掛けてた」

 

「えっ……」

 

「おいてかないで、おいてかないでって」

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